柳家小満ん(百面相)
人 物
柳家 小満ん
・本 名 飯泉 真寿美
・生没年 1892年9月2日~1972年6月29日
・出身地 東京?
来 歴
柳家小満んは戦前戦後活躍した百面相の芸人。元々落語家であったが百面相がうまく、百面相専門の芸人に転じた。目が悪かったが戦後まで活躍した。「ケメコ」のギャグでウケた柳家小せんは実の息子。
有名な息子を持ったわりには、前歴に謎が多い。生没年や本名は落語家辞典に出ているが――
落語家辞典などを見ると、「最初は天狗連にいて、浜九里と名乗っていた」とある。その詳しい系列は不明であるが、小沢昭一『あたしのための芸能野史』の柳亭鏡之助の談話によると――
この左鏡の門からは、柳家小まん、松柳亭鶴枝などの百面相が三人、林家正楽、鏡之助と紙切りが二人出ている。
という。この柳亭左鏡という人は天狗連の親玉で、多くのセミプロ芸人が出入りして世話になったという。
どこまで小満んが世話になっていたのか判らないが、何はともあれ青年期からセミプロとして鳴らしていたのは事実のようである。
1910年代中頃に二代目三遊亭円遊に入門し、「三遊亭遊喬」と名乗る。ただ、入門して数年で独立し旅回りの芸人となってしまった。
長らく旅回りを続け、真打披露もする事はなかった。この旅の中で百面相を覚えたのだろうか。旅先で女性と結婚し、夫婦で旅回りするようになる。
1923年7月、息子の真寿男が誕生。これが後の柳家小せんである。『東京かわら版』のプロフィールなどでは「柳家小せん 新潟出身」とある。地方巡業先で子供に授かったのを機に上京を志した模様。その関係から小せんは「新潟出身、東京育ち」という二つの故郷を自称するようになった。
一念発起をした小満んは、四代目蝶花楼馬楽(四代目柳家小さん)の弟子になり「蝶花楼花蝶」と改名。林家彦六や五代目柳家小さんとは兄弟弟子に当る。
ただ、改名後も待遇はそこまで変らなかったと見えて、師匠について前座・二つ目の扱いを受けた他、旅回りを続けていたらしい。小せんも年端も行かぬ頃から連れまわされ、廻らぬ舌で「色気というものは……」としゃべって観客を驚かせた――と木下華声『芸人紙風船』にある。
1928年、師匠の馬楽が「柳家小さん」を襲名。馬楽の名跡は兄弟子の林家彦六が襲名している。
1934年11月、柳家小満んを襲名して、一枚看板となる。同月中席の広告に「新宿末広亭」「浅草金車亭」を掛持ちして看板披露を行っている様子が確認できる。
この襲名披露はなかなか粋なものだったらしく、『都新聞』(1934年11月6日号)に右のような逸話が掲載されている。
蝶花楼花蝶が柳家小まんと改名して十一日から浅草金車亭で披露するが客先へ配つた挨拶状がふるつてゐる、すべて遊郭の心で楼主は柳家小さん、小まんは初見世の花魁といふことになつてゐる、その挨拶状に曰く「そもつき出しの始めより、お馴染深き蝶花楼を柳家へ住み替して小まんと改め、来る十一日より見世へ出るほどにしみじみと話し度き事山々あれば、お忙しいもかへり見ず、秋の夜長を毎夜来て、早くおしよくにしてくんなまし、かしく」楼主の小さんか小まんの顔をしげ/\と見て「きたねえ初見世だな」
その後は小噺をまじえながら百面相を演じる不思議な芸人になったようである。良くも悪くも色物になったというべきか。
昔の百面相は扇と手拭のみで顔のしわや目線のみで演じるそれであったが、小満んは「変装術」ともいうような小道具入りの百面相を演じた。
目が悪いのに人物や職業の特徴をとらえるのが非常にうまく、軽い扮装をして顔かたちを変えるだけで恰もそれらしい風貌になった――というのだから、中々のやり手である。
その芸は弟弟子の五代目小さん、人間国宝の桂米朝にも認められたほどで『米朝座談2』の小さん・米朝対談の中で――
米朝 何か、色物師はみんな飛び道具というか、トリネタをもってたんです。ですから、つながなならんとなったら、その時はしゃべりますけどね。短く下りんならん時は、あんまりいらんしゃべりをしなかったですね。紙切りでも林家正楽師匠以外にも何人かいましたけど、つなぐ時にはしゃべりましたね。そう何枚も何枚も切ってられませんからね。
小さん 百面相だって、先代の(柳家)小満んほどの百面相はいやしない。
米朝 そうですね。
小さん 小満んはちゃんと時期のものやったからね。日本の総理大臣でもやるし、ヒットラー、ムッソリーニ、みんなよく似てたよ。
米朝 よう似てましたよ。 ヒットラーなんかでもつけて、髪の毛をこうやってね。
小さん「どうしたら、その顔になれるの」って言ったら、「おれは写真をよく見るんだ」って言うんでね。写真見たって目が悪いから分かりゃしないだろうけど、それでも一所懸命見るんだって。 それでその顔の気分になるんだって。
戦時中は寄席の色物と慰問で活躍したが、空襲に遭遇して苦労をしたり、息子の小せんが南方戦線に送られるなど、戦争の苦労を味わっている。
戦後は焼け残った寄席や慰問等で活躍。せがれに「小満輔」と名付け、カバン持ちをさせるなど、小せんの芸能界入りのきっかけを作った。一方、せがれにカバン持ちをさせた背景には、「一人では危なくて歩けないから先導役が欲しい」という眼病由来の複雑な悩みであった。
ちなみにその頃の小せんは、親父のカバン持ち・前座をする傍らで、ヤミ煙草の生産を行って稼いでいたという。
倅の小せんを五代目の門下に斡旋したのは小満んだったそうで「いつまでも俺のカバン持ちでは仕方ない、本気で落語家になるなら小三治の所を紹介しよう」と、五代目の所に連れて行き「小きんの名跡があるからこれをやる」というので弟子になった。
小せんは「小満輔」時代から既に雑用をして芸の素質もあった関係から、小さん門下に入って間もなく二つ目に昇進する形になった。
1951年9月に発行された『主婦の友』掲載の『お笑い演芸大会』に、人形町末広に出演している小満んの舞台模様が掲載されている。
番組も進んで、高座はいま百面相の人気者柳家小まん。
「たゞいまはまた噺科(家)という科目が現れまして……私の方は科目が変りましてな、噺家は口をイゴ(動)かしますが、私は顔をイゴかして営業をいたしております。ホンの顔役でございます。
科目は顔面筋肉労務科という科目でございまして、顔は古い顔ですが、戦災でも震災でも、この顔はイゴきません、コンクリートより固まっておりますから。ほんとうは顔はイゴくのではございませんで、目がいろいろと活躍いたします。よろしく目の使い方をごらん願います。
では目の玉の光線のよろしいところで、まず最初は鐘馗の人形、(とはやしに乗って)えびす・大黒などはいろいろヒゲなどをつけてやりますと、皆さんがやっても私がやっても同じようなのができます。生地のまゝそのような顔をこしらえますのが、百面相の基本でございます。
では、お米の神様、大黒天。
桃太郎という良い子供を育て上げたお婆さん、うれしそうに洗濯をしています。
今度は坊や、百面相を見てよろこんでいる坊や、当年五歳になります。
さて、お芝居の弁慶の顔で御座いますが、九代目団十郎没して以来、高麗屋松本幸四郎お家の芸になっております、現在の染五郎改め幸四郎、親ゆずりの『勧進帳』の弁慶を幸四郎の顔でこしらえてみましょう。
歌舞伎でやりますと、全一幕二時間余かゝりますが、私は衣裳づけから舞台片づけ、全部一人でやる弁慶独演会を数秒にしてやってしまいます。
最後に小まん独特のタコの釜入り茹で上りをごらんに入れます。こういう顔は、長年つれそう女房や子供には一切見せないことになっております。へえ、どうもお粗末様でした。」
その後は倅の手を引かれながら寄席に出勤していたが、眼病は悪くなるばかりで遂に引退をする事となった。
柳家小せんによると60歳の時に引退したという。その時に百面相を演じたがっていた五代目小さんに道具を譲ったという。小さんはこの道具を大切にして大喜利や余興で演じ、名人芸の評判をほしいままにした。
『東京かわら版寄席演芸年鑑2003年』の柳家小せん・柳家さん助の「若き日の小さん」によると――
――小さん師匠は「蛸の茹で上がり」など、いろいろな珍芸をお持ちでしたが、小せん師匠のお父さんから受け継いだのですか?
小せん ああ、あれはね、稽古はつけていないけれど、百面相に使う道具は全部、親父が小さん師匠に譲ったものです。親父はね、昭和二七年ごろ、六〇歳の時に高座から引退したんです。それを機に師匠に差し上げた。親父と小さん師匠とは兄弟弟子(四代目小さん門)で、旅などもよく一緒に行ってました。親父は目が悪かったから小さん師匠に手を引いてもらったり、ずいぶん世話になったらしいですよ。
一方、真山恵介は「昭和28年10月引退」と『寄席がき話』で記している。個人的には後者の方が正しいように思われる。
最後の高座は1953年、人形町末広の11月上席だろうか。
晩年は落語界のスターになっていく息子の成長を楽しみに余生を送っていたが、目を悪くして事故に遭遇しかけるなど、病気に悩まされたともいう。
それでも息子が真打に昇進し、「ケメコの小せん」と落語界きっての人気者になったのはせめてもの幸福だった事だろう。最晩年は孫にも恵まれ、ささやかな幸せを得た。
1972年6月、79歳で長逝。小満んの名跡は小せん・小さんの手を通じて、小さん門下に移籍してきた桂小勇が襲名する事となる。