青空ピン児・ポン児

青空ピン児・ポン児

人物

 人 物

 青空あおぞら ピン
 ・本 名 倉石 義品
 ・生没年 1947年~ご健在?
 ・出身地 東京?

 青空あおぞら ポン
 ・本 名 夏川 鴈二郎(夏東雁)
 ・生没年 1957年2月22日~2014年8月2日
 ・出身地 滋賀県 草津

 来 歴

 青空ピン児・ポン児は戦後活躍した漫才師。ポン児は上方落語の「笑福亭小松」であったが、落語界を追放されて漫才界入り。コロムビアトップ門下でコンビを組んだ。一時は「突破・一路を超えるコンビになる」とまで言われたというが、長続きはしなかった。

ピン児の経歴

 ピン児の経歴は謎が多く残る。青空うれし氏などの話では「相当の下の弟子で俺とかとはあまり付き合いはなかった」「ピン児はずっとトップさんの付き人みたいな事していた気がする。小回りが利いたからトップさんは重宝していたはず」との由。

 実際、コンビ結成以前の名簿などを見るとピン児一人で登録されている。一人だから「ピン児」とでも名乗ったのだろうか。

 年齢や前歴には謎があるが、1987年当時の報道を見ると「倉石義品さん(四〇)」とある。ここから逆算した。弟子入りの順序からすると、青空球児・好児の更に下であったという。

 長年師匠の下で付き人をしていたが、1973年頃に念願のコンビを結成。1974年の名簿を見ると「青空ピン児・ポン児」とある。ただ翌年の名簿では解散扱いになっており謎が残る。「青空はるお・あきお」のように先代が存在した幻のコンビだったというべきか。

ポン児の来歴

 一方のポン児は、最後の破滅型芸人として知られた笑福亭小松その人である。彼に対する自伝や奇行は、ネットに転がっている。

 出身は滋賀県。幼いころから演芸が好きで、京阪にある演芸場に出入りしていたというヤンチャな子供であった。余りにもヤンチャが過ぎて、10代にして親が持てあますという程であった。後年の破滅型は既に出来上がっていたというべきか。

 学生時代から芸人を志し、草津市立草津中学校卒業後の1972年に15歳で笑福亭松鶴に入門。この直前に入門したのが駿河学――今の笑福亭鶴瓶である。

 入門して間もなく松鶴が小松の両親に会った際、笑って見送られている様子を見て「健気な親や」と涙ぐんだが、実は両親は「厄介払いできた」と清々としていたそうで、後に関係者を呆れさせたという。

 この頃、仁鶴の人気もあって笑福亭一門は賑やかで、弟子入り志願者も多かった。松鶴は長屋を借りて「たおれ荘」と号し「ここを拠点にしてわしの家に来なさい」と命じた。そして、夏川に「小松」という名前を与えた。

 しかし、その前座生活は滅茶苦茶で短気な松鶴さえも唖然とさせるほどであったという。

 兄弟子の笑福亭松枝は自伝『ためいき坂くちぶえ坂』の中で「「小松」は間違い無く、笑福亭の問題児であった。草津の中学を出て十五歳で入門したこの者は、天性他人からそれも初対面から、可愛がられるキャラクターの持主である。それがどうもいけない。」と、その天性の人柄を評価しながらも「持って生れた愛嬌と調子の良さで、小松は余りに早く酒、女、ギャンブル、借金を覚え過ぎた。自制心がついていかなかった。そしてそれらを上手に隠し通す才覚も。」と、松鶴を超えた破滅的な人間性や奇行を指摘している。

 「ゴーゴーファイブ」「小松の突撃ジョッキー」など、デビュー数年にしてレギュラー番組を持つ麒麟児ぶりを見せたが、人気が出れば出る程、不義理を重ねた。

 借金や不義理は全て松鶴の家に押し寄せる羽目になり、松鶴はこの弟子を扱いかねた。

 松枝は「ある日、松鶴は小松を呼んで『どうかやめてくれ、弟子をやめてくれ』と頭を下げて懇願した」と書いているが実際の所は不明。

 ただ、世にも珍しい「師匠が頭を下げて廃業を懇願する」というアベコベの破門が宣告され、落語界から追い出される事となった。

 松鶴門下を離れた小松は、コロムビアトップに入門。コンビ結成のきっかけは大阪で二人が出会ったこと――とはたけんじ氏より伺ったがどうしたものだろうか。

青空ピン児・ポン児

 1977年4月、「青空ピン児・ポン児」を結成。

 1978年3月3日には、コンビ結成11カ月目で漫才コンクールに出場。「どちらが犯人」なるネタを口演している。同回のパンフレットに――

≪青空ピン児・ポン児≫
 師匠はコロムビア・トップ。
 コンビ組んで十一ヶ月目。
 漫才も出来立てのホヤホヤ。

 とある。この回は入賞できなかったものの、関西弁と関東弁のちぐはぐな取り合わせは高く評価され、佐藤事務所へスカウトされた。そして、わずかデビュー一年足らずで地方番組のレギュラーを勝ち取るほどの人気を集めた。

 遠藤佳三氏などから聞いた話では「関東弁と関西弁の取り合わせというんですかね。面白かったですよ。歯切れのいいピン児、もっちゃりとしてとぼけ切ったポン児……落語に江戸と大阪の人が喧嘩するネタがありますよね。あれに近いものがね、ありましたね。ピン児が綺麗ごとを言うと、『なんやアホちゃうか』とポン児が本音をぶちまける……『人生は愛だ、友情だ』というピン児に対して、ポン児が『金でっせ』と徹底的に揚げ足を取る……そんな漫才をやっていましたが、実際、そのスタイルが凄く新鮮で面白かったんですね」。

 1979年3月2日、第27回漫才コンクールを「何が大切」で優勝。この遠きは、大空あきら・たかしとのデッドヒートであったという。

 当日のパンフレットによると――

 ●青空ピン児・ポン児
 師匠はコロムビア・トップ。コンビ組んで1年と1か月。
 サテ、おのぞみのアルバイトは?
 コンビ「刑事をやります。日本のスタスキー&ハッチ!!!! 殺人、強盗事件はあぶないから…やりません!!!」
 丸目「君たちの仕事は?」
 コンビ「今、評判のUFOをおいかける。そのタメの重要参考人、ピンク・レディーのそばは絶対に離れな いで…ヒョットするとヒョットして未知との遭遇の あるのを期待しちゃうヘッ/\/\」
 この御両人、現在信越放送で毎日曜日、30分のナマ放送に出演中!!!!

 わずか2年足らずでの優勝は、最年少記録なのではないだろうか。

 これを機に二人の元には仕事も舞い込み、戦後派、東京漫才の御三家に続く第三の新人として飛躍しようとした矢先、このコンビは空中分解を起してしまった。

 関係者に聞いた話では「ポン児がトップさんを怒らせた」「ピン児はともかくポン児はよくなかった。酒、女、借金とか色々な不義理があったそうです。如何せん上下関係に厳しい東京の芸能界ではポン児の存在は庇いきれないものがあったのでは」との由。

 結局、関係者をしくじったポン児は青空一門にいられなくなってしまい、コンビを解消する形となった。ポン児のみ漫才協団を1981年頃にやめている(同年の漫才大会には列席しておらず)。

ピン児のその後

 相方を失ったピン児は1982年頃まで漫才協団に在籍していたが、漫才師を続ける事はなく引退。本名の倉石義品名義で興行師となり、「倉石プロダクション」を設立。

 漫才師時代より面識のあった声帯模写の佐々木つとむを専属芸人として招き、彼のマネージメントにつとめた。

 当時、佐々木は「物真似四天王」と称されるほどの人気があり、メディアや営業でも派手な活躍を見せていた。

 一方で佐々木つとむのギャンブル癖の悪さや給料の前借など、佐々木つとむの破滅的な性格に頭を抱える事も多かったという。

 それでも佐々木つとむをよく支え、佐々木つとむが十八番にしていた麻雀の企画を持ち込んで売り出しにつとめるなど、色々と工夫を重ねたが、1987年に佐々木つとむが殺害される――という悲劇に見舞われている。

 図らずも佐々木つとむの第一発見者となったのはこのピン児であった。人気芸人の痴情の末の殺害というだけあって、ピン児はマスメディアに追われる羽目になったという。

『週刊文春』(1987年9月24日号)の佐々木つとむ殺害事件の報道によると――

発見者は、所属事務所の倉石義品(よしのり)社長。
「最後に会ったのは8月29日、山梨での仕事が終わったときでした。その後30日には上野鈴本で仕事があり31日はオフになっていました。彼と連絡を取れなくなったのはその後のことです。1日に週刊誌の仕事があったんですが、いくら待ってもこないし、連絡もない。2日、3日と待っても全く連絡がないんです。5日に仕事が入ってましたからね、これはおかしいと思って、以前、電話番号を教えてもらっていた(中野の)アパートに、聞いていた住所をたよりに行ってみたんです」

 夏なのに毛布を被って転がっている佐々木つとむを見つけ動転。すぐさま警察に飛び込んで警官同伴で中を改めた。布団をめくると、上半身裸で血まみれになった佐々木つとむの亡骸が転がっていた――という。

 この佐々木つとむの殺害によって元気をなくしたのか、ピン児は一応プロダクションこそ続けたものの、往年の元気がなくなってしまい、いつしかフェードアウトしてしまったという。

 はたけんじ氏によると「倉石君は今なお健在」――との由。一応調べる価値はありそうな気がする。

ポン児のその後

 東京漫才界から追放されたポン児は、当時東京で目覚ましい人気を集めていた島田洋七・洋八の傘下に入り、「コアラ」と改名し、タレント路線で売り出そうとしたもののパッとしなかった。

 漫才師としての人気も爆発できず、くすぶっていた所へ松鶴から「帰参を許す」という話が来た。1982年、師匠の下へ帰参し、「笑福亭枝雁」と改名し、再スタートを切った。

 山本進『落語ハンドブック』によると、1984年に「枝鴈」、1986年に「小松」と改名し、旧名に落ち着く事となる。

 しかし、一度破門された彼への風当たりは強く、しかも破天荒な生活を続けたために、仕事を失ってしまった。

 1987年には師匠の松鶴を失い、一番大切な後ろ盾を失った。この頃結婚して子供を授かるものの、相変わらずの生活を送っていたという。

 落語だけでは到底喰っていけず、日雇い労働や飲食店の店員、八百屋のバイトなどをしてその日その日をしのでいたが、最終的には生活保護に手を出す始末であったという。

 1996年、一度目の覚せい剤使用で逮捕され、執行猶予付きの実刑を受けた。

 その直後の1996年12月には胃の激痛を訴え、入院。末期の胃がんの判明する。9時間にわたる大手術の末に一命をとりとめる。

「5年生存率15パーセント以下」と宣告され、一時は絶望をするものの、兄や妻や子に支えられ、「生きていた証拠を子供に見せたい」と一念発起をする事となった。

 1998年2月17日、鹿児島県庁前から出発し、3000キロに及ぶ日本縦断の旅を行った。各地で「がん克服落語」と銘打ったチャリティリサイタルを行っていた。

 翌年の1999年6月26日、札幌に到着し、北海道庁前で旅の終了を宣言した。

 2000年には芸術祭に出演し、師匠松鶴の十八番を演じたリサイタル「小松のらくだ」で優秀賞を受賞。

 癌も安定に向かい、奇跡のカムバックと称された。その間にも『日本列島徒歩縦断! がん克服落語会』『吾輩はがんである』などの書籍を発表、がん闘病の講演や岡山大学の非常勤講師に任命されるなど、一時の絶頂を迎える。

 2004年には自身をモデルにした映画『人間ドラマ・勇気の3000キロ』が封切りされ、ちょっとした話題を集めた。

「ガン闘病落語家」を売りにする一方で破天荒な性格は余りおさまる事はなく、2006年には松竹芸能と契約解除し、上方落語協会とも縁を切る事となった。

 その反動からか2007年には再び覚せい剤に手を出し、逮捕。前回の執行猶予が融けていた事もあり、今回も執行猶予付きで釈放をされた。

 この一件で芸能界への復帰は絶望的なものとなり、小松はフリーの落語家・芸人として細々と生活する所となった。

 この頃、どういうわけか韓国籍に変更し「夏東雁」と改名している。理由は不明。韓国籍の女性と再婚でもしたのだろうか。

 2009年8月、三度目の覚せい剤使用で逮捕される。6月24日の夜、不審な運転をしている軽トラックを捕まえた所、変に酩酊している小松を発見。尿検査をした所、覚せい剤の陽性反応が検出され、お縄となった。

 執行猶予中という事もあり、同年に1年6ヶ月の実刑判決がおりて収監。

 2011年に出所した後は、リハビリを重ね、2012年頃より高座復帰。2013年には快楽亭ブラックと2人会を開き、札止めを記録するなど、第三の人生を期待された。

 しかし、2014年8月2日、急性心筋梗塞を起こして自宅で卒倒。そのまま亡くなったという。享年57歳であった。

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