桂一奴(百面相)

桂一奴(百面相)

戦時中喝采を博した高勢実乗、近衛文麿、ヒトラー、東条英機の百面相

 人 物

 かつら一奴いちやっこ(二代目)
 ・本 名 酒井 潔
 ・生没年 1890年1月11日~1948年以降?
 ・出身地 東京?

 来 歴

 桂一奴は戦前活躍した百面相の芸人。古今亭今輔、桂小南、春風亭小柳枝門下を転々としながら、百面相を独学し、「人物模写」「名士百面相」の肩書で売出した人物である。その肩書通り、政治家やタレントといった人物の癖や風貌を真似るのを得意とした。

 経歴は『古今東西噺家紳士録』などに詳しい。生年はそこから引っ張り出してきた。

 Wikipediaなどでは本名が掲載されていないが、『時事年鑑1927年度版』を見て居たら「文枝春亭 酒井潔 三八」というのを発見した。この年齢換算は数え年なのですこしややこしい。

 前歴等は不明であるが、10代で落語家になった模様か。当初は素噺一本で食っていこうとしていたようである。

 1909年、三代目古今亭今輔の門下となり、古今亭今三郎と名付けられる。同年4月に下谷鈴本亭で初高座。

 大正改元後、今輔門下を離れ、初代桂小南の門下となる。「南枝」と名乗るようになるが、当時の香盤などには殆ど出てこない。一応演芸会社には所属したようであるが――

 結局、落語の道を諦めたのか、百面相を中心に演じるようになった模様。

 師匠の小南が「新むつみ派」を結成して独立したのにいたり、移籍している。

  1921年3月、新むつみ派結成式に携わり、川竹亭、琴平亭、七大黒に出勤。この時、正式に「桂一奴」と改名し、百面相を演じるようになった模様。

 その後、新むつみ派が「東西落語演芸会」と改称したため、同会に所属。

 分裂したのちは「三遊柳演芸会」に所属。ここでしばらく若手として出勤していたが、関東大震災に巻き込まれている。この震災前後に一時期表舞台から消える。ほんの一時期幇間をやっていたというが、この頃転職した模様か。

 ただ、1924年1月には、一時的に組織された落語協会に復帰して「桂一奴」として出勤している。

 1924年、雀家翫語楼に改名――というが、普通に「一奴」名義で出ていたりする。謎が残る。

 この頃、同じ会に出ていた新内と岡本宮歳とデキたそうで、ばかばかしい艶聞を残した。『新演芸』(1947年9月号)の「樂屋座談會――明治以後の女藝人を語る」に――

今村 宮歳といふ新内も寄席ではふるいでせう 
小南 死んで十五六年にもなるやろうか、眼が不自由やったが小粋な女で、この宮歳に付いてはおもしろい話が有ります、私が座長加賀の金沢を振り出して福井から九州迄旅巡業に出かけました、宮歳が一座にゐて例の日本太郎が盛んに口説くので宮歳が嫌ふ、見るに見兼ねて圓七(後ち柳桜から市楽昨夏悪るい酒を飲んで失明)が庇ってやる内、圓七と宮歳が出来ちまって…… 
今村 庇ふもんですな。 
小南 すると日本太郎が承知しないで福井巡業の時やった、圓七を連れ出した堀端で日本太郎と喧嘩や。
小さん 堀端の出合ひは面白い。 
小南 私の親父が太夫元で飲み屋で仲直りさせましたが一奴(目下百面相)が圓七と宮歲が餘り仲がいゝので燒いて東京の宮歲の亭主に手紙を出したから亭主早速飛んで来て宮歳を連れて帰るといふ、ビラに名前は出てゐる売興行の処もあるので宮歳の亭主にその訳を話し心配せんで大丈夫やと小使と汽車賃をやって返すと又一奴が焼いて、東京へと手紙を出して呼び寄せる、長崎迄やって来る、その度に汽車賃と小使を持たしてやる、東京から九州になると安くないやろ、こっちはとてもやり切れんで、それに時々日本太郎と圓七と睨み合ひをする一奴が焼く、とう/\亭主に連れて帰って貰ひました。

 こうした不埒な態度も小南と対立する要因となったのだろうか。最終的に彼の門下を去る事となる。

 1925年、小南より独立して小柳枝(六代目春風亭柳橋)門下へ移籍。睦会にも移籍している。

 1925年5月1日、神田白梅亭、神田花月などに出勤し、「春亭文枝」と名を改めている。屋号が違うとはいえ、関西の大名跡である桂文枝と同じ芸名をよく付けようと思ったものである。

 続いて八代目桂文治の門下で桂文明と改名。理由は不明。

 1935年秋、再び桂小南門下へ戻り、桂一奴に復名した。

 1930年代後半より一枚看板として落語協会系の寄席に出演。太平洋戦争直前には、当時の時の人であった「ヒトラー」「ムッソリーニ」「近衛文麿」「東条英機」といった政治家の扮装をして喝采を博したという。

 軽く扮装をしてポーズをとるだけでそれらしい人になった――というのだから演技力は相当にあったのだろう。人物模写がうまかった事もあり、一時期「人物模写」「名士百面相」と名乗っていた事もある。

 1940年11月には東宝名人会に出演している。

 ちなみに娘の一人が「染奴」という名前で少女漫才をやっていた。その時の相方が香川染団子で、当人から伺った(コロナ禍で会えず伝言を介して)話では、「戦時中のほんのひところ」だそうで、「自分は東京大空襲で焼き出されて茨城に引っ越した関係で、その後はよくわからない」との事であった。

 空襲からは生き延びたらしいので、その後は普通に暮らしていたとみるべきだろうか。

 戦後もしばらくは高座に出ていたが、寄席が復興する前に落語協会の名簿から名前が消え、番組にも出て来なくなる。

 引退したか、没したか。人気の割にその消息の知れない人物である。

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