春風胡蝶斎(珍芸)

春風胡蝶斎(珍芸)

キセルの珍芸を演じる春風胡蝶斎

 人 物

 春風はるかぜ 胡蝶斎こちょうさい
 ・本 名 岩見 豊吉
 ・生没年 1868年6月9日~1938年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 春風胡蝶斎は戦前活躍した珍芸を得意とした芸人。落語家から色物に転向し、逆さ獅子と呼ばれる曲芸的な舞踊や足芸、キセルの使い分けなど珍芸で寄席を盛り上がらせたという。

 生年と本名は『芸人名簿』より割り出した。「春風胡蝶斎 岩見豊吉(明治元、六、九)」とある。

 後年まで活躍した割には謎が多く残る人物である。師匠や芸歴も謎に包まれているが、四代目春風亭柳枝と仲が良くほぼ同期だった所を考えると、三代目春風亭柳枝の門下だった模様か。それなら「春風」と名がつくのもうなづける。

 当初は落語家として修業をしていたらしいが、落語よりも踊りや雑芸がうまかった関係から「春陽亭胡蝶」という名前で高座に出るようになる。

 逆立ちをして、足を手のように見立てて踊る「逆さ踊り」や足で小型の獅子舞を踊り分けてみせる「逆さ獅子」などを得意としたという。

 師匠の関係から長らく柳派に所属していた模様である。

 『上方落語史料集成』を見ると、1906年秋頃より関西へやって来て落語互楽派に所属。10月上席の広告に――

【互楽派】第一文芸館 鶴之助、一奴、藤若、藤遊、胡蝶、正楽、三平、枝光、団司・菅八、一笑、松竹、宝楽、正三、円童、左円太、藤誠

 その頃はまだ「春陽亭胡蝶」という名前だった模様。1907年5月31日の『大阪朝日新聞』の広告に――

 ◇桂派各席は東京より三代目三遊亭万橘、足芸獅子の曲の春陽亭胡蝶、清国奇術張来喜及宝山の二人出勤す。

 とあるのが確認できる。

 1908年には、橘ノ圓が主導する「円頂派」に所属して各地を巡演。この頃には既に足芸で相当な人気を博していた模様である。

 1909年秋頃に一度関西を離れ帰京した模様か。その頃「春風胡蝶斎」と改名している。

 1912年に再び関西へやって来て「春風胡蝶斎」の名義で看板披露目をしている。

『大阪朝日新聞神戸付録』(1912年3月5日号)に、

◇新開地屋幸満 橘の圓入道は月が変わっても人気の落ちぬから蛸が茄子でも占めたようにホクホクもの。一座は相変わらず曲芸のうまい胡蝶斎、博多節と琵琶歌の上手な三尺坊、それに噺の達者な圓三郎兄弟が車輪に遣っている上に、今度五年振で若遊三が乗込んで歯切のよい昔噺と小気味よい舞を遣っているから益々大受け。

 ただ、二度目の関西行は長くは続かずすぐさま帰京。今度は柳派の寄席に出勤するようになった。

 1915年時点では小石川区に居を構えている様子が確認できる。

 1917年の落語家団体分裂騒動では、春風亭柳枝や春風亭柳橋などと袂を分かち、演芸会社に残留。その流れで落語協会へと合流している。

 以降は協会派の色物として枯淡な踊りや曲芸を見せていたという。

 1929年3月には息子の睦の三郎、後輩の原玉之助(五明楼玉之助)と共に剣舞の河西正幸一座に入団して、ハワイ巡業を行っている。

 日系人相手に相変わらずの逆さ獅子舞に逆さ踊り、珍芸を見せていたようであるがなかなか人気は高かったようである。当時の平均寿命を考えると、61歳での洋行は驚くものがある。

 その後も酒の飲みすぎで高座から転げ落ちたり(『読売新聞』1931年4月9日号)、協会の分裂などに巻き込まれながらも長老として活躍。

 1938年3月には、70歳にして靖国神社の慰問に出演している様子が、当時の写真集から確認できる(上の写真はその時のもの)

 しかし、その後間もなくして番組や顔ぶれから名前が消える。引退したか、没したか。

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