人 物
桂 金坊
・本 名 北川 福松
・生没年 ??~??
・出身地 関西?
桂 銀坊
・本 名 盛田 正太郎
・生没年 ??~??
・出身地 関西?
来 歴
桂金坊・銀坊は大正初頭に活躍した関西出身の軽口芸人。日本チャップリン・梅の家ウグイス以前より東京に進出し、軽口の芸を定着させた功労者の一組であるが、経歴は謎が多い。関西流の軽口や愛嬌で人気を集め、数年間東京に滞在した。
本名は『芸人名簿』より引用。ただこれ以上の情報はない。
大阪俄の淀助の弟子とも関係者ともいうが不明である。前歴の名前も不明。「大坊・正坊」などという名前を確認できなくはないが、これが金坊・銀坊かどうかまでは不明。
『上方落語史料集成』を見ていくと初めて名前が出てくるのが、1914年5月――2代目三遊亭遊三一座の博多柳丈座の地方巡業からである。
『九州日報』 (5月5日号)に――
落語(遊若)落語手踊(三八)落語音曲(遊三郎)軽口噺(金坊、銀坊)落語扇舞(花遊三)新内(若梅)浮世節手踊(三子)即席問答笛の曲(呂鶴)三府音曲(三路)落語歌舞所作事(遊三)即席問答(総出)
軽口のレパートリーは『三段目』『七段目』『寳藏破り』『塩原太助』など古典的な作品が多い。鷹揚に笑わせたのだろう。
それから遊三にスカウトされたのか、遊三の江戸下りに随行。
1914年7月1日、東京の金沢亭に出勤している様子が『都新聞』よりうかがえる。
○金沢亭 圓遊、遊三、むらく、三路、公園、圓歌、呂鶴、歌子、朝冶、銀坊、金坊
しかし、その直後に献花したらしく、コンビを解消。『朝日新聞』(1914年10月19日号)の「演芸風雲録」に――
◯をかしくない 軽口の銀坊も相棒の金坊に逃げられ今度淀助の弟子を呼んで矢ッ張り二人高座の彌次郎兵衛喜太八と改めへッ名前丈も可笑しいやろと全く大笑ひな奴
ちなみに、弥次郎兵衛・喜多八という軽口は実在し、『文芸倶楽部』(1915年3月号)掲載の『寄席ノート』の中にも――
■三遊へ這入って来た彌次郎兵衛、喜多八とかいふ贅六殿、大阪弁の掛合噺しに鯉かん、米蔵の向ふを張って居るが、是は又甚だしいクスグリ沢山の惚(ぼ)け方、お江戸に向かない代物だ。ネエお二人さん、憚かりながら弥次郎兵衛、喜多八は生粋の江戸ッ子の名でオマスセ。
とある。どうも旧銀坊が独立し、金坊は新たな相方を求めて再出発した――とみるべきか。
その後は基本的に東京の寄席で活躍。
『文芸倶楽部』(1915年3月号)掲載の森暁紅『鯉かん米藏金坊銀坊』にその頃の芸風が出ている。
△アクドイが遉(さす)がに芸の堪(こた)へはあるもの、軽妙ではないまでが可笑味は確かにある、そこで其次ぎへ出た、遂に初めて見る金坊銀坊といふのだが、之れ見るからに難儀なる物。
△二人並んだ、何方が金坊か銀坊か知らないが、頭髪をキリッと刈つた凄い眼つきをした若い男と、坊主天窓のキョロッとした爺さん、若いのは浅黄繻子(あさぎじゅす)、 爺さんは桃色繻子と、共にケバ〳〵しい袖無羽織を被て――然も脊中にキリンビールと書いてある、失礼なものだ。
△喋舌出す其調子を聴けば、流石爺さんの方には枯れたともあるが、其若いの、調子と云ったら、殆ど高座に附いて居ず、爺さんに被せかけて、ギヤンギヤンと吠えるが如く、噛つくが如く、そして其顔に愛嬌がなく、体はギス〳〵として、見るからに、聴くからに唯不愉快なものだ。
△其れで軽口? 重口(おもぐち)が聞いて呆きれる、然其いふ言が纏まらず、リン〳〵との口合狂歌のダラシのないのを並べて、其れから此若いのが、紅前垂(あかまえだれ)の女形になり「茶汲」を踊る――紅前垂にもキリンビール。
△其茶汲へ、爺さんの方のが田舎者の扮装(こしらへ)ボテ鬘でノソリ〳〵と搦み、下座のヨタ清元の間伸び調子で 「姉さんはほん所かへ」から「結んだ縁の一夜妻」か何かで気取った見得でおしまひ。
△一體何だいこれは……搦むでノソ〳〵して居る爺さんに、どことなく莫迦気(ばかげ)たをかしみはあるとしても、若い方の踊りの拙さ加減、てんで體がゴワゴワして、其れでトボケて居るわけでもなく、大澄ましなのだから恐しい。
△よしや巧くとも、寄席の高座でマヂと這麽事(こんなこと)を演られては助からないに、斯く拙々(せつせつ)とあつては、 あゝ、何と云ひ様もない。
江戸好みの森暁紅から見れば、関西弁を饒舌に言いまくる二人の芸は見るに堪えない代物ではなかったか。
しかし、批判的であろうともこれだけ芸風を詳しく書いてくれたのだからありがたい次第である。
1915年夏には三代目今輔一座に随行して旅に出ている。『北国新聞』(1915年9月26日号)の「金沢一九席」の広告に――
落語(今二)落語音曲(今坂)清元端唄(今吉)落語手踊(弥輔)滑稽落語(今蔵)滑稽軽口(銀坊、金宝)西洋手品(ピリケン)音曲(三路)滑稽落語音曲(今輔)諸芸吹寄せ(総出)
1917年1月、二代目三遊亭金馬一座に随行し、名古屋や金沢へ旅巡業に出ている。『名古屋新聞』(1917年1月18日号)に――
◇金馬来る 富本席にて十八日より五日間特別興行として落語大家三遊亭金馬一行及び東北名物秋田音頭の美人連を招き落語の粋と秋田芸妓の美とを大いに発揮すべしと初日の演じ物左の如し。
そこつ(金福)よいよいよい(金坊)常盤津うつぼ(金八、金冶)かん定板(圓満)おしろ(金遊斎)おせし音曲(かん馬)くさい(金勝)小話音曲(金時)二人羽織(かけ合)扇に盆舞(小金馬)剣舞(正幸)小寶(金馬)喜劇大笑(座員一同)
1917年夏、三遊・柳派の統合に伴い、「日本寄席演芸会社」に所属。しかし、すぐさま離反し、柳亭左楽率いる睦会に参加して寄席に出るようになった。分裂第一声となった8月下席には以下のような出勤をしている。
○神田白梅亭 志ん生、志ん馬、柏枝、大阪登り手遊、小南、金坊銀坊、圓遊、柳枝、かしく、玉輔、政治郎、扇橋、ジョンデー
○四谷喜よし 志ん生、小柳枝、橘之助、大阪登小遊、金坊銀坊、小南、福圓遊、政治郎、竹天、秋月、大正、新朝、市兵衛、右楽
1918年頃に帰阪した模様。『京都日出新聞』(6月15日)に――
◇京都倶楽部例会 十五日午後七時より例会を開き余興として落語小万光、枝雁、三八、善馬、円丸、子遊、福来、金坊、銀坊等あるべし。
とある。それから半年後にあった笑福亭枝鶴襲名披露(後の五代目松鶴)に列席している。『藝能懇話』(4号)に――
三友派連乱表 文団治、円子、妻奴、とん馬、三木助、米団治、吾妻、団朝、円翁、万寿、春枝、染の助、残月、染丸、花助、枝鶴、三八、遊三、文太郎、小はん、団輔、米花、寿笑、蔵三、小枝鶴、升枝、寿子、花橘、円枝、金坊、銀坊、鶴蔵、久松、染八、雀三郎、寿吉、鶴光、米之助、春団治、文我、玉団治、しん橋、川柳、円馬、小文、染雀、かしく、円坊、文作、歌六、扇太郎、子遊、文如、新蔵、玉輔、米紫、伯馬、文の助、団平、福楽、小万光、枝女太
しかし、これが最後の消息でその後軽口で出てくる様子もない。改名したか、没したか。
ちなみに弥次郎兵衛・喜多八は1920年頃まで寄席に出ていた。よくわからないものである。