アダチ龍一(奇術)
人 物
アダチ 龍一
・本 名 渋谷 清志
・生没年 1928年2月4日~2005年以降
・出身地 東京都 文京区
来 歴
アダチ龍一は戦後~平成初頭に活躍した奇術師。「アダチ」の屋号通り、アダチ龍光の弟子である。師匠譲りの堅実な奇術を得意とし、落語協会の色物として長い息を保った。
生年と出身地は『日本演芸家名鑑』より割り出した。ただ経歴には謎が多い。
波多野栄一『ぼくの人生百面相』によると、元々はシチズン時計のサラリーマンであったという。
龍光さんにはその後も縁が深い。というのは、私がシチズン時計へ余興に行ったとき、の演芸係を務めていた若いサラリーマンが、奇術がメシよりも好き、女房を質に置いてもをやりたいという。
「誰かの弟子になりたい」 とせがまれたから、龍光さんに相談して、弟子にとってもらった。
龍光の「龍」の字と私「一」の字をミックスして、アダチ龍一とつけた。いまの龍一です。「落語協会」でも「芸術会」でもそうですが、いろもので協会員になるのはなかなか大変なこと。私より少し遅れて龍一君も落語協会に入れてもらったのは、ラッキー・ボーイといっていいでしょう。
時計会社で堅実に働いていたが、若い頃から観劇や奇術が好きであった――と『演芸家名鑑』に記している。当人は歌舞伎からストリップまで金と暇があれば観に行ったというのだから、相当な芸道楽であった。
落語協会が出していた雑誌『ぞろぞろ』に掲載されたインタビューによると、奇術に凝りすぎて会社を退職せざるを得なくなったという。以下はその引用。
今回は、いつも和やかで軽妙洒脱な高座を見せてくれるアダチ龍一さんをご紹介いたします。
「小さい頃から好きだったんです。 夜店で 品の道具をいろいろと買って、で子供の頃からやってましたよ、紙を燃やして吹雪にしたりしてね」とアダチ龍一さんは話す。
その後、シチズンに入社。始めは会社の宴会で評判を博し、その熱は益々高まり、ついに、アダチ龍光師の門を叩く。ある時、 師匠の代演で寄席に出演。そこを、たまたま寄席に遊びに来た会社の上役に見られて発覚。その場はなんとか無事におさまったが、その後、「正月に四日の約束で青森へ行ったんです。興行は一週間でしたがね、ほら、五日から会社が始まりますから、五日までに東京へ帰らなくちゃなりませんから。ところが面白くてね、五日もやり六日もやり七日に会社に行ったんです。そうしたら怒ってね、そらそうですよ、あたしの言い訳がまずかった。吹雪で汽車がおくれましてって、そんな二、三日も雪で動かない訳がないんだから」
そんなこんなで、ついに会社をやめ、奇術を本業にしようと決心したのが、昭和三十三年三月三十一日。そうです、あの赤線廃止の日でした。
1957年にアダチ龍光に入門――と公式プロフィールではあるが、正式に入門したのは、1958年3月とみるべきだろうか。波多野栄一の言説が正しければ、紹介者の波多野栄一と龍光を混ぜて「龍一」と名乗るようになった由。
素人時代から奇術が得意で、ある程度こなれていた事もあってか、早くから舞台にあげてもらったという。そのかたわらで師匠のカバン持ちや雑用をし、落語協会の面々に顔を覚えてもらうようになった。
若いころはヘルスセンターや余興、キャバレーなどの営業を獲得し、そこで腕を磨いた――という。うるさい客や観光客を相手に、奇術を見せる度胸と技術を磨いたといってもいいだろう。
1967年春頃より落語協会への寄席に出演することが許され、師匠から独立する形で「アダチ龍一」として独立行動をはじめるようになる。
師匠同様タキシードに蝶ネクタイを結び、淡々と奇術を展開する――という本格的なマジックを売りにした。やもすると地味な芸であったというが、主張の激しくない品のいい芸は、寄席の芸人には御誂え向きだったと見えて、掛け持ちするほどの人気はあった。
同時に奇術協会へも参入し、アダチ一門の筆頭弟子として他の奇術師と行動を共にした。この頃より一人前の奇術師として、奇術大会などにも出るようになった。
1982年10月13日、師匠・龍光死去。数少ないアダチ龍光の芸風を受け継ぐ一人として孤塁を守った。
この頃より奇術協会の相談役にも抜擢され、奇術界の幹部入りを果たした。
平成以降も一応舞台に出ていたが、1990年代後半より事実上の引退となり、落語協会に籍を置くばかりとなった。
2005年の『東京かわら版名鑑2005年度』の目録には名前が出ているが、2009年のモノには出てこない。その間に落語協会も退会した模様。
芸人の噂ではなくなった――というそうだが、その没年はハッキリとしない。奇術協会にでも没年が出ているのかもしれないが、部外者なので判然としない。