柳亭雛太郎(舞踊)

柳亭雛太郎(舞踊)

 人 物

 柳亭りゅうてい 雛太郎ひなたろう
 ・本 名 斉藤 庸司
 ・生没年 1916年~1956年4月1日
 ・出身地 東京

 来 歴

 柳亭雛太郎は戦後活躍した落語家兼舞踊家。落語よりも踊りがうまく、操り踊りや珍芸風の踊りを得意として踊った。芸術協会でも有数の踊り手であったが、40手前で夭折した。

 夭折したせいもあってか経歴には謎が多いが、元々ある程度の学校を出た後、吉原の幇間として活動していた――という変わり種であった。

 学生時代から寄席に出入りをして踊りや落語を覚え、それを器用に演じていたという。

 戦時中、花街の閉鎖や縮小もあって幇間も自然廃業という形となった。さらに兵役や何やらで苦労を重ねた模様。

 その中で5代目柳亭左楽と出会い、左楽にいたく気に入られた。彼の門下に入って「柳亭かなめ(要)」と名乗り寄席に出勤するようになる。知人を介して柳亭左楽の遺族に伺った所、「おじいちゃん(左楽)が連れて来た」そうなので間違いはないだろう。

 落語よりも踊りや物真似がうまく、当時色物が不足していた事もあり、正式に色物として舞台に上がるようになる。一時期漫才をやっていた事もあったらしい。

 戦後まもなく左楽の斡旋で柳派に残っていた「桃月庵雛太郎」の雛太郎を襲名させ、上には自身の「柳亭」をつけた。

 名跡を継がせて株をあげつつ、「柳亭」の屋号でワンクッションを置く左楽の手法は流石と言わざるを得ない。

 以来、落語芸術協会系の色物として活躍。粋でいなせで洒落っ気のある踊りは膝替りやクイツキにぴったりで、左楽の引き立てもあって様々な師匠の前に出る事となった。

 十八番は雷門助六の芸を盗んだ「操り踊り」で、助六が寄席に不在の折(喜劇役者になっていた)は、彼の独壇場であったという。

 助六は複雑な思いこそしていたようであるが、自身は寄席にほとんどいないこと、関西を拠点に活動していたこと、世話になった左楽の威光の手前もあって黙認していた模様である。

 ただ、陰では「あたしの方がうまい」と思っていたようで、「雛太郎はあたしのように足の動きまでは真似できないから袴をつけて足をごまかしている」と陰で語った事があるとかないとか――助六当人は興津要『落語』の中で、

あたしのほかに寄席であやつり踊りをやった人ってえと、五代目左楽師匠の弟子で柳亭雛太郎ってのがいました。これはあたしが教えたってわけじゃァないけど、あたしが寄席で踊ってる時分に、まだ学生で毎日のように来ちゃ見てて、そィで見よう見真似で覚えたんですね。

 と、雛太郎が自分の芸を覚えて演じていた旨を語っている。

 また、「嵐の踊り」「どうぞかなえて」といった珍芸風の舞踊を演じた他、小噺も演じた。その芸風は『立川談志遺言大全集14』に詳しい。

 ほかに、「柳亭雄太郎」という踊りがいた。踊りだけの高座で、マトモに踊ったお後は、「どうぞ叶えて」で若い娘と老婆の踊り分け。二人それ/\妙見様の石段を昇る。かがめた腰を段ごとに伸ばしばらくしていくマイム。これは十代目柳亭芝楽さんが受け継いでいたが、彼も若くして故人となり……いま、居るのか、現助六あたりなら出来そうだが……。
 むしろ、本業ではあるが猿若清方師あたりが了見と江戸っ子で踊ってくれそうである。
 雛太郎さんはほかに「支那の踊り」とか「嵐の踊り」……この「嵐の踊り」のウリがまた馬鹿々々しいこと。高座でオチョコ(逆さ)になった唐傘持って雨と風に向かっているというマイム。楽屋じゃ雛太郎さんの着てる合羽に紐が数本つけてあり、それを引っ張り揺するのだ。判りますか読んで つまり、あのネ…………判るよネ。で、嵐の踊り、唯それだけ、ものの一分か……そんなとこ……………。
 粋な芸だ。雛太郎さんの師匠は楽屋内で「五代目」と称われた人格者柳亭左楽である。

 1953年に師匠の左楽が死去した際には数少ない直門として、柳亭痴楽などと共に率先して葬儀の運営や対応に出た――と『談志楽屋噺』にある。その折に痴楽と下ネタまじりのナンセンスなお経を唱え、同業者を笑わせたという。

 1955年1月に公開された『泣き笑い地獄極楽』では、あやつり踊りの吹き替えとして出演している。雷門助六ではないか――と思ったが、八代目助六の孫弟子に当る雷門小助六氏より「踊り方や袴の付け方から見て雛太郎さんじゃないかと思う」ということを伺った。

 1956年3月、人形町末広中席のくいつき(仲入りの直後)に出たのが最後の高座で、その後、急逝を果たした模様である。

 同業者で可愛がっていた桜川ぴん助によると、「女との情事の末に生気を吸われた」という。嘘か本当かは別としても『ぴん助浮世草子』の中で――

  そういうすごい女ってのがいるんだ、数の中にゃあ。そんなのに惚れられたら、本当に命にかかわるからね。
 いい例だが、雛太郎ってえ、前座の咄家で、操り踊りの巧い奴がいたんだけど、こいつが、ある後家さんに可愛がられてね。で、ちょくちょく温泉なんぞへ連れてかれてたんだ。
 それで、その宿屋で、情痴のかぎりをつくしたってえわけさ。てえと、そのうちに、雛太郎が、どんどんやせ衰えてきやがって、高座で二つも踊るってえと、ビッショリ汗をかくようになったから、私も心配して「雛ちゃん、無理をしちゃあいけないよ。大事に使ゃあ一生もつ身体なんだから、適当におやりよ」 って、いってやったことがあったよ。
 それから半月もたたねえうちに、雛太郎が楽屋で太鼓叩いていたと思ってたら、バッタリ倒れて、それなりんなっちまった。
 相手ってのが、年増盛りの後家さんだからたまらないよ。雛太郎は可哀想に、精気をすっかり吸い取られちまったんだねえ。
 だから、スゴイ女ってのは怖いんだよ。

 怪談じみた話を紹介している。『新文明』(1956年7月号)の中にも追悼が出ていた―― 

○柳亭雛太郎が死んだ。独特の色気をもつた踊り手であった。彼の芸を言うとき、誰の口からもまつ先に言われるであろうような、特色のある色気だった。それが時にいやみにもなったものだが、「どうぞ叶へて」のコミックな恋の表現などにはこの特徴が最も効果的にあらわれていた。まじめな踊りでも「勧進帳」の六方の振りの大きさなどが記憶にある。決して味わいや技術のある踊り手ではなかったが、晩年はようやく舞踊としての清らかなもを身につけはじめていただけに惜しい気がする。

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