片岡鶴八(声色)

片岡鶴八(声色)

 人 物

 片岡かたおか鶴八つるはち
 ・本 名 片岡 保夫
 ・生没年 1917年7月7日~1988年7月13日
 ・出身地 長野県 小県郡

 来 歴

 片岡鶴八は戦後活躍した声色の芸人。はんこ屋の主人から身を起こし、人気スターとなった変わり種。政治家から芸人、俳優まで様々な物真似をこなしたが、中でも昔ながらの声色を大切にし、歌舞伎俳優からの信頼も厚かった。今もマルチタレントとして活躍する片岡鶴太郎の師匠としても知られる。

 経歴は『新評』(1977年8月号)掲載の「人間模様喜劇人たち 芸人片岡鶴八」に詳しく出ている。

 ……あたしは信州上田の産なんですけど小さい時分に新宿に出てきちまいましたんでね、まあ、東京が故郷みたいなもんですな。
 新宿駅のほうから歌舞伎町に向かって、三平食堂の本店がございますな、ゴーストップのところのだらだら坂を降りたところ、あそこを昔はゆび差し横丁てえいいまして、いまでも土地の古いひとはそう呼んでいますけど、そこで小学校をおえるまで、ずっといましてね。いっとき、渋谷の幡ヶ谷にいきましたが、また、間もなく新宿に戻ってきて。あたしの親父ってえのは、家業がハンコ屋でね、趣味で謡いをやるてえ、堅い一方の男でしてな。いまから考えてみるってえと、あたしをぐれさせないためでしょうな、六つのときに謡いを習わされちまいまして、まだ遊びたいさかりでね、無理矢理ですから、親父をうらんだもんですよ。それにね、十五、六になってから俳句でしょ、ずいぶんとしぼられました。
 いま、声が太くて悩んでんですけどね、こりゃ、小さい頃から謡いなんかやってうなってたせいでしょうな。 声帯を堅くしちまったんだと思いますよ、謡いのけい古で。

 そんな父に反発するように、若い頃から劇場に通ったり花柳界に憧れたりと多感な日々を送っていた。特に近所の新宿歌舞伎座に出ていた木戸番の声色に憧れ、「俺もああなって見たい」と思っていたほどであった。

 一方、父に厳しくしつけられた行儀作法は当人の大きな武器となり、後年まで行儀作法にうるさい真面目な人間になる事ができた。

 ちなみに俳句は玄人はだしで、飯田蛇笏の流れをくむ俳句雑誌「火山系」に属していたほどである。

 因みに、鶴八の兄たちもハンコ屋を開業していたという。その中の一人は芸事好きなハンコ屋と知られ、子供たちの多くが芸人になった。その兄の子――鶴八にとって民謡の篝淡声、バイオリン演歌の石田梅林、日本舞踊の内海洋雀、民謡三味線の藤本秀三は甥、山田鶴助は姪にあたる。

 幼い頃からハンコ彫りを仕込まれ、厳しく育てられた。父親は彫刻家出身だったそうで、「ハカマをつけて、ピシャッと端座してね」(『新評』より)という真面目な仕事ぶりであった。

 腕はよかったそうで、言論人の徳富蘇峰が得意先にしていたという。鶴八も蘇峰に「坊や」と可愛がられたという。

 戦時中は徴兵にあったらしいが、特に大きな話題もなく復員。高円寺の実家で「片岡判子店」の看板を受け継ぎ、結婚した。

 1948年、息子の慎介が誕生。この子は「片岡慎介」の名前で音楽家となり、『ムーン・ラブソディ』『月の音楽』など音楽療法やリラクゼーションの方面で開花した。2010年2月1日に亡くなっている。

 その後も子供に恵まれ、2人の子供を授かったという。

 普通のハンコ職人として渡世を送っていたが、1953年頃よりはじまった民放ラジオの開設、それに伴うのど自慢大会の勃興に触れて、「声帯模写」をぶらさげて出演するようになった。

 当人は『新評』の中で以下のように語っている。

 最初は友だちと二人で出まして、名人羽左衛門と先代幸四郎の声色をやって、ただ、セリフをしゃべっているってえ程度のもんでしたが、カネはふたつ、だったかな。
 その後、その友だちと組んで「ハンコとハンコ合わせて一個」なんて、ヘンな芸名をつけて万才をやったり、四度目の出場のとき声色でやっとカネをみっつ鳴らしました。 
 この頃からやみつきになっちゃいまして。当時、放送に出たがるタイプっていうのが、二通りありましてね、ひとつはクイズに出る賞金稼ぎ、もうひとつがノド自慢で。
 あたしたちは賞金稼ぎを軽べつしましてな、オレたちは芸をみがくために挑戦している、なんていって、いま考えると大変あつかましいようなもんで。
 とにかくのぼせきってましたから、女房が「およしよ、みっともないから」といったってきかばこそでして、カネをみっつ鳴らした者ばかりを集めてな、三水会なんてテング連を作って勉強会を開いたり、そのうちあきたらなくなって清瀬の結核病院にね、ま、専属ってえますか慰問するようになって。

 この頃、牧野周一司会の「しろうと寄席」に出演し、グランプリを獲得。「よくも・ほった」という高座名をもらう。

 1959、60年頃が「のど自慢荒らし」の絶頂期だったそうで、放送に出たいがために徹夜でハンコを仕上げるといった荒業をして周りを驚かせたりもした。

 1961年夏、自転車でお使い中に転倒事故を起こし、負傷。腕と左肩を痛め、ハンコを彫るのがきつくなってしまった。「仕事が辛い」と仲間にボヤいていると、のど自慢の審査員だった桂文楽、木下華声らが「ならプロになったらどうだ」と転身を勧めた。

 1962年、一度木下華声が鶴八を弟子にとった。作家として敬愛していた安藤鶴夫の「鶴」、物真似の師匠・木下華声(江戸家猫八)の「八」を取り、「片岡鶴八」と名乗った。

 鶴八の力量と本気を見込んだ華声は知り合いの文楽門下へといざなった。とんとん拍子で話が決まり、桂文楽に入門。

 文楽の太鼓判もあって、1962年秋には落語協会系の寄席へ進出。翌年には正式な会員になるなど、出だしは好調であった。

 寄席で芸や行儀作法を学び、瞬く間に人気者となった。ベースは歌舞伎の声色であったが、森繁久彌、市川右太衛門、辰巳柳太郎、島田正吾など男優、古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭歌奴、林家三平といった落語家、一龍齋貞丈、一龍齋貞山、宝井馬琴、広沢虎造など講談師・浪曲師など、自由自在に操った。

 特に市川歌右衛門は大当たりで、顔と口をキュッとすぼめて右太衛門らしくみせる――という物真似はこの鶴八が生み出したものであるという。

 師匠連の信頼もあってか、早くから演芸番組に出演。当時の演芸ブームもあって、メキメキと頭角を現した。『朝日新聞夕刊』(1964年5月24日号)の「日曜演芸館」に、鶴八の高座ぶりとインタビューが出ている。

「市川右太衛門という人のセリフには、途中でパッという言葉が入りますネ、やってみましょう、こんな具合です……」 
 舞台の片岡鶴八は、眼鏡をポケットに入れると、両手を前に、刀を持ったポーズでマイクに進み寄る。「パッ、折ふし月も雲がくれ、当節江戸にはメクラがふえたものとあいみゆるパッ、このヒタイの三日月をなんと見るパッ、都一番風流男早乙女主水介がむこう傷、天下ご免の通行手形だ、パパッ」セリフの途中で口をつぼめ、パッとやる。これがピタリ市川右太衛門だ。なんともおかしなリアリティに客席はドッとくる

 その達者ぶりは芸にうるさい先輩・桜井長一郎にして「心配する事はない」と言わしめるほどであった。

 そのうまさは、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」で犯人の声色を真似てくれ――と警察から頼まれた程であったという。一種の伝説であろう。

 テレビや寄席では人気者を多く演じていたが、木馬館や本牧亭では古いスタイルの声色を演じ、オールドファンを喜ばせた。

 同じく声色の生き残り、悠玄亭玉介や山本ひさしと手を組み、昔ながらの浴衣や着流しに銅鑼をもって、声色流しの実演をしたり、掛合で「歌右衛門と幸四郎の籠釣瓶」「松緑と梅幸の七段目」など、古き良き声色の味わいを見せた。

 当人も晩年は「自分が最後の歌舞伎役者の声色を使う芸人でしょうな」と自負する所があったという。一方で、テレビやラジオでは本領の声色が使えないというジレンマに悩んだ。

 1971年12月、師匠の文楽が死去。五代目柳家小さん門下へと移籍する。

 1973年、荻野繁雄と名乗る青年が「弟子にしてほしい」とファンレターを送ってきた。「一度会ってみよう」と返事を送ると、荻野青年はちゃんとやって来た。「自分は物真似芸人になりたい」と直訴し、師匠の前で物真似を演じた――これが片岡鶴太郎である。

 鶴八は鶴太郎の熱意にほだされて弟子入りを許した。そして鶴太郎の父を囲んで、三人で会食し、鶴太郎親子にてんぷら屋で天丼をおごった。鶴太郎曰く――

ですから、弟子入りしたのは声帯模写の芸人、片岡鶴八師匠でした。弟子入りを許可された時に、私の父と師匠と3人で食事をしたんです。師匠は、私が今まで食べたことがないような豪華な天丼を振舞ってくださいました。そして、「次に天丼が食えるのは、お前が売れた時だ。だから、そうなれるよう頑張りなさい」 と言われたんです。師匠も苦労の多い人でしたから、発破をかけてくれたんだと思います。

B-plus スペシャルインタビューより

 鶴八は鶴太郎にカバン持ちや雑用を命じ、芸能界の作法を叩きこんだ。特に礼儀にはうるさく、「弟子は三歩下がって師の影を踏まず」「おごられたとしても一番安い物を頼め」「挨拶はしっかりしろ」と厳しく教えた。

 一方で、声帯模写に関しては「自分の声と君(鶴太郎)の声は、声帯から違うから手を取って教える事はない」と芸を特に教える事はなく、放任的なスタンスを取った。

 当初は「丘鶴太郎」と名前を与え、松竹演芸場や寄席に出演させていた。鶴太郎が芸能界で生きられるだけの作法や礼儀、流儀を覚えたのは鶴八のお陰といえよう。

 特に鶴太郎の売りであった「ヤンチャそうであるが実は真面目」「悪ガキっぽいけど憎めない」というそれは、やはり鶴八一流の礼儀作法や行儀の良さあってのものではないだろうか。後年、鶴太郎は勝手に「片岡鶴太郎」と改名したが、破門にすることなく、弟子の成り行きを見つめていたという。

 晩年は古き良き声色文化の継承に力を入れ、山本ひさしと積極的に会を開いたり、テレビ番組で本物の尾上松緑と声色の松緑を共演する――と、声帯模写の大御所として活躍。

 しかし、1980年に脳梗塞で倒れ、高座に立てなくなってしまった。演芸協会などには籍を置いたものの、事実上の引退となった。

 片岡鶴太郎が「自分が売れっ子になって師匠と共に天丼を食べに行きたかったが果たせなかった」というような事を言っているが、鶴八が病気になってしまい、殆ど出歩けなくなった事も起因するようである。

 その後は子供たちに囲まれて静かに余生を送ったようであるが、鶴太郎が人気者になるにつれ、雑誌や新聞で消息を出すようになった。『週刊現代』(1984年6月30日号)に掲載された鶴太郎のインタビューの中で、久方ぶりに表舞台に消息を出した。その中で鶴太郎に助言を送っている。

片岡鶴八(漫談の師匠) 「入門してきたころは、毎週、『次までに誰それの声帯模写を練習してくるように』と宿題を出したもんです。鶴太郎はいつもちゃんとこなきて、それはマジメな男だった。これからは役者に挑戦するとか、幅広く活躍してほしいね。そのためにも私たちの芸の基本になることをもっと勉強しなくちゃ。小唄とか都々逸とかね。『コレこそ自分の芸』というのを身につけるうえで、忘れてはいけないことだと思うよ」

 その後も療養生活を続け、1988年に静かに息を引き取った。弟子の鶴太郎は既に人気タレントとなっており、これはせめてもの大きな誉れだった事だろう。

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