三代目柳家つばめ(音曲)
人 物
・本 名 宮尾 正造
・生没年 1884年9月17日(9日?)~1942年2月15日
・出身地 茨城県 古河町
来 歴
柳家つばめは戦前活躍した音曲師。訛りを克服して美声を生かした音曲を展開し、名跡の「柳家つばめ」を襲名した。落語家としても活躍したが、音曲の方が評価が高かったという。彼の弟子が寄席文字・橘流の橘右近、倅の一人が司会漫談で大活躍した宮尾たか志である。
落語界の大幹部だった関係からここに入れるべきかどうか悩んだが、音曲噺で売れまくったため、音曲師としてカテゴライズする、もっとも当人は「落語家」として色物になる事はなかった。
群馬県伊勢崎市出身という資料が多いが、実は茨城県古河町の出身だったらしい。茨城県生まれ、群馬県育ちといったところか。
事実、『茨城県紳士録』に詳しい経歴が出ている――
宮尾正造
生年月 明治十七年九月九日
職 業 落語家
出身地 猿島郡古河町鍛治町
家族 妻 ゆき 明治三十二年生
長男 新一郎 明治四十年生
婦 さわ 明治四十一年生 長男新一郎妻
孫 泰司 昭和九年生 新一郎長男
二男 正 大正十二年生
三男 宏 昭和三年生
四男 潔 昭和九年生
長女 佳子 昭和六年生
経歴 故宮尾新吉の五男にして二十二歳迄家業たる染物業に従事せしも幼よりも落語家たらんと之が目的達成の為め上京三代目柳家小さんの門に入りて専ら修業に励み斯界の幹部に伍し帝都有数の寄席に出演人気を博しつつあり。
ただ、入門年度ばかりは間違えている。30歳まで地元で働いていた。
父親の宮尾新吉は、銘仙関連の業者だったらしく、群馬・栃木・茨城と銘仙の一帯を渡り歩いた模様。結局、伊勢崎銘仙で知られる伊勢崎に居を構える事になったのだろう。
1889年に伊勢崎飯福社を作る際、父・新吉は委員になっている。「同心町・宮尾新吉」とあるところから、伊勢崎同心町に店を構えていたようである。
当時は銘仙業も盛んだった事もあり、一種の若旦那として羽振りを利かせた。
『伊勢崎散歩 別巻2』によると、「型屋の正ちゃん」というあだ名で知られていたそうで、いつも仕事をしながら小唄端唄を唸っている名物人間だったともいう。因みに彼の家の跡地は私塾となり、中鳩雄太郎という人が学校を開いていた。
当人も群馬出身というプライドはあったらしく、全盛期に行われた「群馬県の夕」などでは、東喜代駒、片岡千恵蔵、林柳波などと共に列席をしている。
20代で一度結婚し、1907年には長男・新一郎が誕生。普通に銘仙業者として稼いでいくものかと思われた。
しかし、28歳の時、「落語家になりたい」と志し、家族の反対を振り切って上京。この時、妻と離婚した模様か。
1913年1月、三代目柳家小さんに入門して、「小三太」。28歳という遅咲きであったが、天性の美声に聡明な芸でたちまち人気を集めた。
1916年、二つ目に昇進し、「柳家歌太郎」と改名。この頃には既に「阿呆陀羅経」「都々逸」など音曲を得意としていた模様。当人が上州訛りがどことなく残り、歯切れのいい落語ができなかったのも原因なのかもしれない。
1917年、日本演芸会社創設に伴い、柳派から移籍するが、間もなく給金や待遇を巡って嫌気がさすようになる。会社に大切にされた師匠に対し、つばめは冷遇されたため、移籍を考える。
1918年、反演芸会社団体によってつくられた「睦会」に移籍。柳亭左楽門下に移籍している。
同年11月、「柳家さくら」と改名して真打ちに昇進。明るい話しぶりと自慢の喉、音曲で売れに売れた。
この頃、「ゆき」と再婚。この人は「アーチャン」というあだ名で慕われた。理由は不明。これに乗じて、実家にいたと思われる長男や母親を呼び寄せている。
1922年、浪曲師上がりの吉川龍馬が入門。「柳家龍馬」と名付ける。この少年こそ、後に「橘流」を立ち上げた橘右近である。
晩年、橘右近が記した『落語裏ばなし』によると――
「酒は殆ど飲めず、自分(右近)を盃代りにしていた」
「酒の代わりにアンパンが好きで、いつも自分と妻と右近の三人分を買ってくるのが右近の前座時代の仕事だった」
「上州生まれの江戸っ子という血筋ゆえに、贔屓や席亭でも無理難題突きつけられると相手がビビり倒すほどの激昂ぶりを見せた。曲がった事が嫌いだった」
「人間としては真面目で、病気で倒れた後も、右近が無理して見舞金を持ち込んだ際、つばめ夫妻はそっと『お返しだよ』と見舞金以上の金をくれた」
と、真面目な人となりが描かれている。
1923年9月1日、関東大震災に被災。妻子を連れて逃げ出した。なんとか山の手まで逃げ落ちるが、その直後に妻が産気づき息子が誕生。
この子は「宮尾正」と名付けられ、次男として育てられる。この子こそ、戦後、司会漫談で売れに売れた「宮尾たか志」である。
1924年3月、三光堂レコードより「レコードの黒焼き」を発売。旅から帰って来た若い衆が物好きの旦那に黒焼きを渡す。それを火にくべると流行歌や都々逸が聞こえる。旦那が面白がって聞いて「これは何の黒焼きだ」と尋ねると、「へい、レコードの黒焼き」――古典落語「ほうじの茶」から着想を得たような作品。
震災後、落語界の分裂騒動に巻き込まれ、睦会を離脱。1927年4月、結成された「柳三遊研成社」に移籍している。
1927年5月、二代目柳家つばめが死んだ事に伴い、「三代目」の白羽が立つ。
1928年、三男・宏が誕生。
1928年7月上席、「三代目柳家つばめ襲名披露」を実施。研成社の大看板としてわざわざ「襲名披露」と銘打たれるほどのものであった。
芝恵智十、鈴ヶ森森山亭、大森聞楽亭、蒲田演芸場で会員総動員の襲名披露を実施して、華々しく「三代目つばめ」と襲名。「つば女」と名乗っていた事もある。
1929年に研成社が解散した後は、どこにもつかないフリーになった模様。マジな話、3年間近く定期的な定席に出ていない状態が続く。
さりとて人気がないわけではなく、ラジオ名人会では普通に人気があったりする。よくわからない。
1931年、長女・佳子誕生。
1931年10月4日、JOAKに出演し、『音曲』を放送。
1932年1月11日、JOCKに出演し、『お猿旦那』という話を放送している。
1932年2月8日、JOAKに出演し、『音曲』を放送。
1932年2月、旧師の柳亭左楽率いる睦会に復帰し、普通に一枚看板として出演している。この時、弟子の龍馬に「さん三」と改名させた模様か。
この頃になると音曲主体のネタでお客を喜ばせた。そのためか、唄が出て来るネタが十八番にしており、『節分』『棒たら』『音曲市場』『干物箱』『鼻ねじ』などのネタを多くこなした模様。
1933年夏、JOAKの「夏季特別サービス」と称して、台湾巡業。一行は柳家三語楼、浪華軒〆友、竹本東猿、京山小円、桃川若燕、榎本芝水、千葉琴月、石橋君子・井上信子・高勇吉楽団、柳家つばめ、春風やなぎ、〆柳幾代――と『ラヂオ年鑑1934年度』にある。
1933年12月1日、JOAKの「防火宣伝デー」に列席し、「防火宣伝音曲噺」をこさえて放送している。
1934年、末っ子の潔と初孫の泰司が誕生。一家八人という大所帯になった。
1934年夏、JOAKの名人会に参加して、台湾へ巡業。列席者は落語の昔々亭桃太郎、浪曲の木村重友、津田清美、講談の旭堂南陵、歌手の松原操など。
1935年6月4日、JOAKに出演し、新作の「飛行機の遊び」を放送。若旦那と幇間が飛行機で散財し、芸妓にモテるが、飛行機を降りるや皆そそくさと帰る。幇間が止めようとする、芸妓は「みんな空言さ」というネタ。飛行機の中でのどんちゃん騒ぎで音曲を演じるのが聞かせ所であった模様。
1935年10月、ビクターより『両国八景』を発売。
1936年1月、ビクターより『音曲都々逸』を発売。
1936年2月、キングレコードより『音曲質屋』を発売。
1936年9月2日、JOAKに出演し、「地球を抜けて」なるSF音曲噺を披露。飛行機大好き若旦那が羽田空港から馴染みの幇間・一八と共に飛行機を操縦して空へ。その内、空を突き破って地球を飛び出し、月へ行って月の民と宴会をする。帰りに飛行機が制御不能になり、二人は墜落して地上に真っ逆さま――と思いきや、それは一八の夢だったというもの。
1937年、所属先の「睦会」解散に伴い、日本芸術協会に移籍。
1937年1月24日、JOAKに出演し、「節分」を放送。
1937年6月20日、JOAKに出演し、「黒焼き」を放送。
1938年4月6日、JOAKに出演し、「鼻ねじり」を放送。この話は上方落語の「鼻ねじ」と同じ。自慢の桜花を隣の学者に切られた事で喧嘩をした旦那が、うまい具合に相手を誘い出し、鼻をねじる――というあのネタである。
当人は話の部分をコンスタントにやり、学者を誘い出す下りで出て来る宴会シーンの都々逸や小唄に力を入れていた模様。
1938年6月20日、JOAKに出演し、「レコードの黒焼き」を放送。
1938年9月17日、JOAKのラジオコメディドラマ『黄海々戦前後』に出演。おとぼけの長屋の住人・ワン公を演じている。この役は主演のようなものであった。
1939年11月、東宝名人会に出演。
しかし、これが最後の華だったらしく、1940年初頭、中風に倒れて病臥。高座に出なくなった。
『都新聞』(1941年3月15日号)に、死んだと思われて香典を贈られた話が出ている。
音曲のつばめの病気も長いもので今だに高座へ御無沙汰のしつ放し、あんまり長いので此間、何処からともなくつばめは死んだといふ噂がパツと広まり、悔やみの手紙が来るやら香典が来るやら、妻君大面喰らひだがつばめは至極朗かで、これで俺も生れ代つて、却つて長生きするだらう、ナニ、香典……?折角の志だ、返すのも悪いからそれは貰つておけ……
その1年後、つばめは長年患った中風を悪化させ、58歳の男盛りでなくなった。
亡くなったのちは、妻・ゆきことアーチャンが、つばめ健在時より切り盛りしていた「共立芸能社」の経営で子供たちを無事に育て上げた。その中の一人は芸人の道を志し、宮尾たか志になった――というわけである。