柳家小長(太神楽)

柳家小長

 人 物

 柳家やなぎや 小長こちょう
 ・本 名 鈴木 長治
 ・生没年 1924年11月23日~1977年秋
 ・出身地 東京

 来 歴

 柳家小長は戦前戦後活躍した太神楽曲芸師。柳家小志んの実の弟で、長らく兄とコンビを組んで活動していたが、戦後丸一小鉄にもらわれ、「丸一小長」と改名。小鉄の後見として活動を続けていたが、晩年に神経病を患い、夭折を遂げた。

 本名は『大衆芸能資料集成』の大日本太神楽曲芸協会名簿より割り出した。「柳家小長 鈴木長治」とあるのが確認できる。生年は関係者が持っていた太神楽の名簿より教えていただいた。

 父は太神楽の名門として知られる柳家と志松、兄は曲独楽で名を成した柳家小志ん。平成まで活躍した二代目とし松は甥にあたる。

 幼くして父と死に別れたそうで、兄の小志んが長い間の親代わりであった。兄の後見として少年曲芸師としてデビュー。

 1930年代には既に「小志ん・小長」のコンビで寄席や劇場に出ている様子が確認できる。

 戦時中は「大日本太神楽曲芸協会」に所属し、兄と共に慰問や巡業を行っていた。

 戦後、兄が曲独楽一本になった事もあってか、独立。赤丸一の鏡味小鉄の門下となり、「丸一小長」と改名。

『週刊サン・ニュース』(1948年5月10日号)の「曲芸『太神楽』」と題した鏡味小鉄の記事の中に――

 目下は秘蔵弟子の小長さんを相手に進駐軍慰問演芸の花形として喝采を博してゐる

 とある。

 進駐軍での人気は高く、これだけで小長は生計を立てていたようである。

 一方、小志んと少し年齢が離れていた事もあり、友人関係は意外に戦後世代の方が多かったという。青空うれし、松旭斎すみえ、鏡味健二郎などが友人で、彼らと親しく遊んでいた――と聞く。

 うれし氏に聞いた話では大変な奇人だったそうで、「一度会報誌に出す原稿を頼んだらなかなか出さない。催促に行ったら『ごめん、トイレの落とし紙でつかちった』といわれて驚いた事がある」という話を聞いた事がある。

 それ以外では師匠の小鉄と勝るとも劣らない野球好きとして知られ、師匠の率いる曲芸野球チームの主砲として活躍をした。

 進駐軍慰問衰退後は、師匠に従い、巡業やキャバレー出演、浅草の松竹演芸場などで相変わらず派手な芸を見せていた。海外巡業にも連れ添った事もあるようである。

 また社中の筆頭弟子として、鏡味小次郎・鉄太郎といった若手の面倒も見ていた事があると聞く。赤丸一の大番頭だったといえるだろう。

 1970年代までカクシャクと師匠の良き後見・芸の相手として忙しく働いていたが、持病の神経痛が悪化。舞台にも余り出なくなってしまう。

 医者に通って神経痛の薬を飲みながら、舞台に出ていたというが、この神経痛の薬がたたる形で夭折してしまったという。

 国立劇場に所属されている浅草松竹演芸場のパンフレット『お笑い名人会』(1977年11月号)のコラムの中に――

 丸一の鏡味小鉄、踊りの師匠でもあるし一昔前は丸一の野球チームの監督をしてた人、久々に浅草の出演がきまった。小鉄チームの一員だった弟子の小長が神経痛の薬の副作用でなくなったのはつい先日のこと

 とあるのが確認できる。

 兄より早い死に小志んは愕然としたそうである。

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