たぬきや金朝(太神楽)

たぬきや金朝

たぬき家連を率いていた頃の金朝

全盛期は動物の着ぐるみを使ったナンセンス喜劇を得意とした。

晩年の金朝(左)。小仙・小金で活躍。

 人 物

 たぬきや 金朝きんちょう
 ・本 名 石井 松太郎
 ・生没年 1879年?~1966年春
 ・出身地 東京

 来 歴

 たぬきや金朝は戦前戦後活躍した太神楽曲芸師。魚屋の主人から太神楽茶番の芸人に転身。大掛かりな茶番と滑稽な掛合で一時代を築いた。戦後は鏡味小仙の身内となり、「鏡味小金」を襲名。十二代目小仙の相方として最晩年まで活躍した。

 生没年はいささか謎が残る。晩年の相方・十二代目鏡味小仙が『日本の芸談 雑芸』に残した所によると「二代目小金。昭和四十一年、死亡。享年八十六歳。」といった記載があることから逆算した。

 一方、1942年に出された慰問に関する条文『陸恤庶發第四九二号』の中に――「たぬきや金朝 石井松太郎 五一」とある。よくわからない。

 経歴は真山恵介『寄席がき話』に詳しく出ていた。

翁家さん馬と、丸一小仙のからみ小金が共に魚屋の倅。さん馬が魚河岸の堀庄屋。小金(もとたぬき家金朝)が浜町大常盤の板前頭の子で、魚米という店も持っていた。おまけにこの二人は音曲師の立花家万次(名下座おつやさんのご亭主)と共に、天狗連の同期生とある。

 とある。魚屋だったのは事実で、中年になって芸人となった変わり種でもあった。

 魚屋のかたわらで素人演芸や素人芝居に熱をあげた。仲間に九代目桂文治、立花家万治、それに後にコンビを組むたぬきや静奴などがいた。

 40近くなって芸人に転身。仲間と共に「たぬきや連」を結成し、そこのリーダーとなった。

 1921年5月頃、東西落語会へ参加。正式に寄席の色物となる。

 同年8月、柳三遊演芸会に合流。その後は1923年9月の関東大震災まで同協会で活躍。

 1923年9月1日、関東大震災に遭遇、東京を離れる。しばらくの間、関西や東海地方を巡演して活動していたという。

 1926年に帰京し、同年12月に発足した「三語楼協会」へ入会。以来、三語楼の身内的な形で寄席に出勤していた。

 全盛期は1920年代後半~1930年代であったそうで、中でも動物の着ぐるみや大掛かりな道具を使った茶番は大人気だったという。その凄まじさは落語家の芸を消し飛ばしてしまう程だったそうで、六代目三遊亭圓生は『寄席切絵図』の中で――

 あたくしの前の出番が、たぬきや連という、その、まァ今でいうと、ボーイズものってんですかね、男が五人で出ましてね、三味線をひき、太鼓をたたき、そうして「塩原多助・馬の別れ』なんてものをやるんですけども、これが、馬のまたぐらから、さァッとなんか出したり、わいせつなことをするてえと、お客がわァわァいってよろこんでいる……。
 それまであたくしが出ていた演芸会社の興行では、出演者も一流どころばかり、お客さま のほうだって、客席がそのころは畳ですが、あぐらをかいている人もないくらい、行儀のいいお客……そのかわり、そう割れるようには、はいっていない。ところが、東西会のほうでは、そういったぐあいですから、あたくし、
「あァこのあとへあがるのかなァ」
 と思ったら、実になんともいやァな、なさけない気持ちになりましたが……

 とコメントを残している。その賑やかさ、面白さは落語家泣かせだったのは事実だろう、また、ラジオ放送への出演にも熱心で、一時は太神楽の花形として知られた。

 1927年5月29日、JOAKより「滑稽三段返し」を放送。出演者はたぬきや静奴、家まと、喜よし、金朝。

 9月1日、JOAKより「滑稽三段返し・安達ヶ原源平躑躅」を放送。

 1928年3月21日、JOAKより「迷惑先代萩」を放送。

 1928年12月21日、JOAKより「三代記鉄砲尽し」を放送。

 1929年1月20日、JOAKより「助太刀笑草」を放送。

 この頃、三語楼協会から落語協会へ移籍している。

 1929年春、JOAKと落語協会との内紛に巻き込まれ、放送拒否する事件が発生。『芸術』(1929年8月号)に――

落語三派提携の東京演藝組合と、東京中央放送局との睨み合いよく白熱化して来た折柄来十六日の放送番組に、協會所属のたぬきや連が予定されてあった所、たぬき屋連は組合規約成立當時不在だつたので、紛擾の事情を知らず、靴にはぎん蝶除名一件もある事、放送出演に就て大に心配し、早速協會のおん大貞山の處へかけつけ、実はこれ/\と告白した。貞山はあらためて組合の規約を説明し放送局への要求主張諒解させた上、今が大切な時だから、各自慎重な態度をとつて貰いたい、強つて放送へ出るとならば、除名は覚悟の上で出る外はない、と宣告した、そこでたぬきや連は進退谷まり大に困った……早くも顔色を見て取つた貞山おん大、胸をポンさたいて、さう心配するな、放送へ出ないと極ればそれだけの金はおれが出してやる、さう云つたたぬきやは二度吃驚、大喜びで手の切れるやうな百圓紙幣をき、放送せず、席もぬかずにこの大枚をいただくのは夢のやうで再拜して引下ったのは十日午前のこと、この気前を見せた貞山は男を上げ、放送局はたぬきや連にことはられて、鼻をあかされたになった。

 1930年代に入り、落語協会とJOAKが和解するようになるとラジオにも復帰。

 1932年2月13日、JOAKより「二人旅」を放送。

 1932年10月18日、JOAKより「狸は語る」を放送。

 1933年5月7日、JOAKより「家庭萬歳」を放送。

 これ以降は漫才に押されるようになったと見えて、ラジオと疎遠になった。

 1936年7月22日、JOAKより「弥次喜多ちょん髷騒動」を放送。

 1940年代に入り、主要メンバーのうちの二人(やまと、喜好?)が死んだことに伴い、一座の規模を縮小。

 その後はたぬきや静奴、左團次、光朗との活動していた模様。

 1942年7月、陸軍恤兵部の依頼で廣東まで行き、各地を慰問している。同行メンバーは静奴と左團次。

 1943年8月、大日本太神楽曲芸協会に参加し、常任理事に就任。『大衆芸能資料集成』によると常任理事は――「たぬき家金朝 海老一由之助 翁家喜楽 柳家小志ん」。

 1945年3月10日、東京大空襲で家を焼き出され、九死に一生を得たという。ボロボロになっているところを川崎の贔屓筋と偶然出会い、「しばらくウチにいろ」と川崎まで逃げてきたという話が『川崎空襲・戦災の記錄』に出ている。曰く――

「たぬき屋一座」の座頭をしていた、たぬきや金朝こと、石井松太郎一家三人を連れて帰って来た。すすけて疲れ切った顔をしていた。近くの学校に避難していたところを見つけ出したとのことだった。

「二〇日ほど居て石井一家は疎開先へ行った。」と文中にあり――後に田舎へ引っ込んでいったという。そのため、金朝は川崎大空襲の難を逃れることができた(4月4日発生)。

 戦後、再び小仙の一座に入ることとなったという。『小仙一代記』によると――

 二代目の小金さんも、桂庵を通して丸一へきたのです。 はじめは荷持で……。丸一へきたころは、挾箱をかついでいた、と聞きますが、私の記憶するのはリヤカーになってからで、それに大きなバスケットを乗せ、その中に太神楽 の道具を積み入れて引く。だから、どこへいくのも歩きで した。「今日は高輪の誰それのお屋敷で・・・・・・」となると、小金さん、リヤカーを引いて先きに家を出る。私たちは、だいぶ過ぎてから出かけるのですが、バスに乗っていく と、まだ道のりの半ばもいかぬ路上をリヤカーを引きエッチラ往く……。それを見て、
「あ、まだあんなところを歩いてやがらア」
 なんていったものです。
 だからといって、私共の仲間裡での言葉で「ボーヤ」というこの荷持の仕事は、ただリヤカーを引けば誰にでもできるってものじゃない。荷持も、道具の事はみんなわかっていなくてはいけないのです。正月など、表を廻るのに同じばかりもできません。ここでこれをやれば、次にはあれ……というように、当方のしゃべりで次にはなにを演じるか素早く察して、てきぱきと道具を用意をしておく。 それが荷持の才覚です。もたついちゃさまにはなりませんよ。
 だが、私共が芸を見せている間は、荷持は仕事がありません。ぼんやりしている、といっては語幣がありますが、自分も観客の立場みたいになって私共の演芸を見ている。そうしているうちに、結構しゃべりや太鼓の打ち方などを覚えてしまうものです。
 小金さんもそのようにして、いつしか芸を身に付けていき、先代の死後、私の後見を勤めてくれるようになりました。荷持は、後からきた者がすることになったものです。
 二代目小金。昭和四十一年、死亡。享年八十六歳。

 ただ、この経緯は、父の相方であった初代小金が出世した理由とうり二つであり信頼はできない。

 ズブの素人だった小金は兎も角、金朝は太神楽曲芸協会の常任理事に上り詰めた男である。そんな彼をこんな扱いできるのか――と言われると困ってしまう。小仙は初代小金と混同して語っている可能性が高い。

 ちなみに、小仙亡き後もしばらくの間は「仙寿郎・たぬき家金朝」として高座に上がっていた。

 1949年11月、正式に「二代目小金」を襲名。仙寿郎も同時に「小仙」を襲名している。

 曲芸を演じる小仙に対し、芸の解説や冗談を飛ばすメグロ(才蔵)の役目を担い、古き良き太神楽の味を漂わせた。

 1955年1月29日公開の『泣き笑い地獄極楽』に小仙と共に出演。花籠毬を演じている様子が確認できる。

 一見バカバカしい掛合は寄席の名物だったようで、辛口批評で知られた立川談志も「本当は残してほしかった芸」として、小仙小金の掛合を出している。『談志楽屋噺』や『早めの遺言』の中にもその掛合が残されている。曰く――

「冗談はさておいて」
「寝ましょうか?」
「寝ちゃいけない。これから働く……、悪事を」
「悪事を働くような、そんな正直な小仙じゃない」
「あれは悪くてやるんだ」
「その通りだ」
「殴るぞ」
「逃げるぞ」
「まあいいや、負けておこう」
「そんなことはない。……まあ、舞台は円満に仲良く」
「円満とは文字で描くと、丸く満と書く」
「おや、なかなか学問がありますね」
「いや、学問どころか、懐には一文もない」
「あら、道中欠乏して、いわゆるノーマネー」
「おや、英語だね?」
「イエス」
「何がイエスだ。さて、バチ鞠の綾取り……」

 という風なものだったようである

 1966年3月、新宿末広亭中席まで出演している様子が確認できるが、その後名簿から名前が消える。4月には小仙が「小芳」とコンビを組んでいる関係から、春先に亡くなった模様である。 

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