春風やなぎ(音曲)

春風やなぎ(音曲)

 人 物

 春風はるかぜ やなぎ
 ・本 名 田辺 貞次郎
 ・生没年 1877年?~1936年以降
 ・出身地 東京

 来 歴

 春風やなぎは戦前活躍した音曲師。「春風亭やなぎ」と記す場合もある。元々欧米航路の船員であったが、天性の美声を見込まれ音曲師になったという変わり種であった。明瞭な音曲は数多くのレコードに吹き込まれ、一躍レコードスターとして活躍をした。

 生年は「明治10年説」と「明治13年説」がある。

『時事年鑑1927年度』などを見ると、「春風やなぎ 田辺貞次郎 四八」とあり、大島伯鶴(明治10年生れ)と同級生の扱いとなって居る。

 一方、『富士新年特別号』(1932年1月号)の記事では「春風やなぎ 本名田辺貞次郎。明治十三年東京に生る。」とある。

 個人的には齟齬の少ない『時事年鑑』の方を取る。

 元々は芸人ではなく、「外国客船の船員」という変わり種であった。青年時代から足掛け13年も勤務していたという。

 その辺りの事情は『映画と演芸』(1932年10月号)の「マイクスタアの素描」に詳しい。

研がきをかけた美しい顔で、ドッカリとお座敷に座込んだところは、大家の旦那様か、勤め人ならさしづめ課長さんと云ひたいところ、どうも高座の人とは見受けられない、が何んとなくあか抜けのした小粋な香がして来る。
 サテ天性からなる美声が、無理矢理に彼を音曲師として高座へ押し上げたのである――それは丁度今から二十年前のことであった。それ迄は――胸に金釦もいかめしく昨日は東、今日は西と、所定めぬ欧米航路の船員であった。そして永い航海のつれ/\の折は、いつも船客を喜ばせるために、彼の美声が所望されたのであった。――こうした船の生活は十三年続いたが、世間ではこの美声の主を舟の仲だけに埋らせては置かなかった。――といふ譯で、今では、高座に、レコードに、ラヂオに春風亭やなぎの人気は素晴らしい。
 高座の彼はいつもツルリとした頭を気にしてか、
 金も名誉も女もいらぬ わたしや頭の毛がほしい
 とキツト一度は唄ったものだ。
 これがまた相当に、お客を喜ばせたものだった。――がレコードやラヂオの放送では、あの気持よく禿げたところが聴取者に見えない故か、直ぐに粋な都々逸や、小唄を小気味よく唄ってのけてしまふ。テレヴィジョンにでもなったらまた、
 金も名誉も女もいらぬ わたしや頭の毛がほしい
 と唄って喜ばしてくれることだらう。

 当時の船員は一応の花形的な仕事であり、馬鹿ではできない所を考えるとある程度の学歴や職歴があったのではないだろうか。

 船旅の徒然や同僚を楽しませるために、好きだった音曲を独学で覚え、それを演じていた――というのだから、とんだセミプロであるが、ある意味師匠なしでそこまで芸を覚えられたというのはすごい。

 当時の『読売新聞』によると、パリやアメリカにも降り立って各地の名所を見て歩いた――という海外通でもあった。仕事の余暇とはいいながら、当時これだけ外国を見た人も珍しいだろう。

 上の記事が本当だとするならば、明治45年――1912年に船員をやめて、二代目三遊亭金馬に入門。35歳前後での入門と思うと相当に遅い。

 金馬に入門して、「三遊亭市馬」を襲名。この名前は明治期に「推量節」で売った音曲師の名跡であり、一介の新人が名乗れるものではなかったが、其処が二代目金馬の豪快な所というか、いい加減な所というか。

 しばらく金馬の元にいたが、四代目橘家圓蔵門下に移籍し、「橘家円若」と改名。東京の寄席に出てくるようになる。

 1918年11月、数か月だけ「高砂家鶴亀」という変な名前を名乗ったのちに四代目春風亭柳枝の門下に移籍し、「春風亭やなぎ」を襲名。以来、柳派の音曲師として売り出すようになる。

 1920年12月1日より、白梅亭上席と新宿末広亭上席で真打披露を行い、真打ちに昇進。「春風やなぎ」と名を改めた。

 この真打披露は睦会の若手だった二つ目を七名も昇進させる――という異例の昇進披露であった。同期昇進は、寿楽改め雷門志ん橋、雷門三升、小柳三改め春風亭梅枝、楓枝改め柳亭痴楽、(後に司馬龍生)、三遊亭圓都(後に圓窓)。

 なお、やなぎは既に色物扱いされていたのか、なぜか『都新聞』の昇進報告に出て居ない。不憫である。

 関東大震災に被災後は、師匠の柳枝などと離れて、三升家小勝率いる東京落語協会に移籍している。

 1924年11月、ニッポノホンより「米山甚句・博多節」を吹き込み。以来、レコード吹込みの常連となり、名声をほしいままにした。やなぎの人気はレコードありきだったそうで、メディアを上手く使って人気を掌握したいい例と云えるだろう。

 1925年正月、「江戸家はじめ」と改名。理由はわからない。同年春に睦会に移籍している。改名理由は移籍だったのだろうか(ただ正月の年賀では普通に『落語協会 やなぎ改め江戸家はじめ』とありわからない)。

 一方、「江戸家はじめ」ではレコード吹込みに困ると判断されたのか、6月にニッポノホンから吹き込まれた「槍さび」では春風やなぎ名義になっている。

 結局、この芸名は長く続かずわずか11ヶ月で元の「やなぎ」に戻している。同年11月上席、白梅亭と浅草公園江戸館の出演で「春風やなぎ」として復帰。

 この頃からレコードの花形として率先してレコード吹込みを行い、その美声と情緒は高く評価された。判明しているだけでも以下のものがある。

 1925年11月、ニッポノホン「勘猿・大津絵」を吹き込み。

 1926年5月、ニッポノホンから「二上がり新内・淀の瀬川」を発売。

 8月、ニッポノホンから「都々逸」を発売。

 1927年5月31日、JOAKの「寄席の夕」に出演し、音曲を披露。共演は金語楼、小燕枝、馬楽、文楽、柳橋。

 1927年11月28日、JOAKに出演し「吹き寄せ」を放送。

 1928年1月、コロムビアから「梅と松とや・大津絵」、ニッポノホンから「大津絵」 を発売。

 2月、コロムビアとニッポノホンより「うかひして・夜ふけて帰る」 を発売。

 7月、コロムビアとニッポノホンより「大津絵(勧進帳)」 を発売。

 8月、コロムビアとニッポノホンから「川竹・書き送る」を発売。

 1928年8月31日、JOAKの「音曲の夕」に出演。共演は、ぎん蝶、浜田梅吉、萬橘、鯉かん、金子千恵子、人形博次、橘之助。

 1929年3月、コロムビアより「槍さび・都々逸」を発売。これ以来、コロムビアの専属というような形で扱われ、多額の報酬を得たという。

 3月16日、JOAKに出演し、「音曲吹き寄せ」を放送。

 8月、コロムビアより「都々逸・淡海節」を発売。

 8月29日、JOAKに出演し、「音曲吹き寄せ」を放送。

 11月、コロムビアより「都々逸廓情調・深川」を発売。

 1930年1月11日、JOAKに出演し、「音曲吹き寄せ」を放送。

 1930年3月8日、JOAKに出演し、「音曲吹き寄せ」を放送。

 1930年5月20日、JOAKに出演し、「音曲吹き寄せ」を放送。

 1930年9月21日、JOAKに出演し、「音曲吹き寄せ」を放送。

 1931年8月、コロムビアより「都々逸・二上がり新内」を発売。

 1932年1月、コロムビアより「薄墨・大津絵」を発売。

 5月、コロムビアより「青柳・ふきよせ」。 

 11月、コロムビアより「米山甚句・博多節」を発売。

 1933年3月、コロムビアより「御座付きさわぎ・竹になりたや」を発売。

 1935年3月、コロムビアより「心で留めて・うそとまこと・ほととぎす」を発売。

 これ以外にもマイナー盤や再販を含めると30枚近くに上るのではないだろうか。一大レコードスターである。

 レコード吹込みによって抜群の人気を集め、ラジオやお座敷でも優遇されるなど、いい思いを沢山した。また吹込み料を巧みに積み立てて、家と土地を買い、それを家作にして副収入を得るなど、芸人としてはやり手であった。

 美声で明瞭、そして下品な所のない音曲は紳士淑女にも慕われ、高い人気を集めていたが、一方で中年からの芸人であり、愛嬌と味に欠ける芸風は、古くからの寄席ファンから敬遠された。

 アンチ春風やなぎの筆頭であったのは演芸作家の正岡容。その嫌い方は半端でなく、「春風柳の田舎唄」「片付けた端唄許り、声量許りの、味もそっけもない調子でうたひ、オホンとをさまって高座を下りる。たまらないったらない。」「春風柳のような、よほど高踏な小唄を一つずつきかせでちするかのように」と、「悪い音曲の代表格」として随筆でボロカスに貶して居る。

 余りにも嫌っていたが故に、悪い音曲を目の当たりにすると「やなぎになりそうだ」と表現するほどであった。

 1927年4月に起こった落語団体分裂騒動では、長年世話になった睦会を抜出し、「三遊柳研成会」に移籍。燕枝、小南、ぜん馬など共に幹部として迎えられた。

 以来、他の団体としのぎを削りながら寄席に出ていたが、研成会自体上手くいかず数年で瓦解してしまった。

 これ以降は持病の胃腸の不調もあってか、コレという団体に所属せず事実上のフリーになった。放送やお座敷、レコードで稼いでいたという。

 1935年3月に引退を決意。『報知新聞』(3月9日号)の中に 

春風やなぎ引退 咽喉自慢の春風やなぎさんは胃腸を病み高座を休んでゐたがいよ/\引退することとなり、十二日日本橋浜町の日本橋倶楽部で盛大な引退披露を行ふこととなつた

 とある。引退公演には会派を超えた大御所や色物が集まり、豪勢なものだったという。

 一方、その後も請われれば一応に高座やレコードを出るなど、退いたわけではなかった。

 1936年2月2日より11日まで行われた「東宝名人会」に出演。出演は蝶花楼馬楽、桃源亭さん生(桂小春団治)、結城孫三郎、三遊亭金馬、玉川勝太郎、神田伯龍、吾妻春枝、杵屋和吉社中、歌沢芝金。

 6月5日より14日までの10日間、「東宝名人会」に出演。共演は柳亭市馬、相模太郎、三笑亭可楽、大島伯鶴、三遊亭金馬、徳川夢声、神田三朗一行、人形浄瑠璃の吉田冠十郎・朝見太夫・猿蔵。

 これが最後の舞台になった模様か。

 その後間もなく亡くなったらしいが、如何せんその人気と裏腹によくわからない人である。

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