17代目海老一海老蔵(太神楽)

17代目海老一海老蔵(太神楽)

16代目(右)と17代目(左)

ハワイ巡業時のポスター

晩年の海老蔵と柳語楼(左)

 人 物

 海老一えびいち 海老蔵えびぞう(17代目)
 ・本 名 笹川 武三郎
 ・生没年 1904年8月28日~1964年12月9日
 ・出身地 東京?

 来 歴

 海老一海老蔵(17代目)は戦前戦後活躍した太神楽の親方。海老一宗家を継承し、海老一染之助・染太郎の師匠として活躍した。品のある曲芸を得意とし、若くして成功をおさめたが、戦後は病気がちであった。娘の一人が桂小益(文楽)に嫁いだ関係から、文楽は娘婿に当たる。

 経歴は謎が多い。『文化人名録』などでは東京生まれとあるが、「新潟生まれ」という資料もある。ここでは文化人名録の情報によった。

 他の曲芸師同様に幼くして16代目海老一海老蔵に弟子入りし、厳しく芸を仕込まれた。海老一は曲芸の外に舞踊や茶番も得意としていた関係から、その道も厳しく仕込まれる事となったという。

 10代で早くも師匠の相手役に抜擢され、「海老一菊蔵」と名乗って高座に現れるようになる。師匠が抜擢した背景には、長年連れ添った海老一三兄弟の分裂や後継者育成の腹があったから――という。

 10代の頃は主に浅草の劇場や地方巡業で活躍。海老一は独特のファン層を築いていた関係もあって、寄席進出は少し遅れている。

 海老一一座の花形として華々しくデビューし、10代の少年が撥や土瓶を振り回し、見事な曲芸や所作を見せる姿に観客は大きな喝采を送ったという。

 1920年夏には、師匠の一座でハワイ巡業を行っている。『マウイ新聞』(8月13日号)に、

〇海老一の一行 近々来布すべしと 東京の海老一なる芸人の一行は座長海老一海老蔵を初め海老一時蔵、海老一大蔵、海老一作蔵、海老一菊蔵、海老一サカエの数名にて最近便にて来布各地を興行する由なるが芸種は喜劇、曲芸、魔術、茶番、新内出語り、伊勢舞獅子等ありて申分なき芸人揃ひなるが中にも海老一菊蔵は当年十六歳にして一行中の花形なりと

 と、一座の中でも特に注目すべき人材として扱われている。

 同年9月、ハワイに上陸し、各地を巡業。なかなかの大当たりぶりを見せたらしく、1921年の正月はハワイで迎える事となった。

 1921年2月、ハワイを去って米国本土へ移動。3月末まで1月ほど興行を打っている。

 帰国後は相変らず浅草の劇場や地方巡業で活躍し、派手な所を見せていたが、1923年9月1日の関東大震災に遭遇し、被災。浅草のホームグラウンドがことごとく焼失してしまった。

 また震災を前後して、海老一の副将であった海老一鐵五郎が脱退して関西へ行ってしまった他(ただ時折戻ってはいた)、古老も離脱するなど、メンバーの編成がひどく入れ替わったという。

 1926年7月16日、JOAKに出演し、「三人滑稽」に出演。これがラジオの出演のし始めで以来、数十回にわたって出演をすることとなる。漫才が登場する以前は太神楽の天下で、中でも鏡味・海老一は人気を二分することとなった。

 長らくラジオと浅草の舞台で前線を張り続けていたが、日中戦争勃発以降は徐々に出番もなくなり、寄席団体へと近づくようになった模様。

 この頃、春本助次郎の妹を妻にしている。古くから面識のある春本助次郎とは義理の兄弟となった。本牧亭席亭の石井英子は義姉になる。

 1941年頃、落語芸術協会に参入し、「海老一連」として出演するようになる。この頃から師匠の海老蔵も病み始め、菊蔵が主体となって高座に出るようになる。

 1941年3月4日、娘の加津子誕生。この子は成人したのちに桂小益(九代目文楽)と結婚し、オシドリ夫婦として知られる事となった。

 1942年頃、師匠死去。周りの推薦で「17代目海老蔵」を襲名し、海老一連の宗家となった。しかし、この頃には戦争が激しくなり始め、思うような活動も出来なかったという。

 この頃、友人の三遊亭円遊の息子・伊藤親利を引き取って「海老一菊蔵」と名乗らせ、曲芸師として仕込み始めている。

 1943年、大日本太神楽曲芸協会再編に伴い、鏡味小鉄と共に副会長に就任。会長は鏡味小仙。

 敗戦直前、40歳という高齢で徴兵されたようで、北関東に配属されたという。ただ老齢のせいか外地に飛ばされず、演芸会の真似事ばかりしていたという。

 戦後は落語芸術協会の寄席に出る傍らで進駐軍慰問やキャンプ慰問で活躍。主に弟子の菊蔵、柳語楼を引き連れ回っていたようである。

戦後は落語芸術協会の寄席に出る傍らで進駐軍慰問やキャンプ慰問で活躍。主に弟子の菊蔵、柳語楼を引き連れ回っていたようである。

 1945年9月、村井正秀・正親兄弟が入門。海老一勝太郎・小福と名付けて高座にあげるようになった。この兄弟が後の海老一染之助・染太郎――お染ブラザーズである。

 なお、友人の立川談志によると「海老一兄弟は都家福丸・香津代さんの元で漫才をやる積りだったらしいが、曲芸師になった」と自著で触れている。

 菊蔵とこの村井兄弟を鍛える事を戦後の楽しみとし、優しく時に厳しく三人の成長を見守った。もっとも、余りがみがみ言わない人だったらしく、お染ブラザーズの回顧録などでは「温厚な人だった」とたびたび触れられている。

 なお、村井兄弟には「海老一染之助・染太郎」の名を与えた後には落語協会に移籍させ、落語協会の神楽師として鍛えるように斡旋を行っている。落語芸術協会には、自分達に曲独楽の三升紋弥、中国奇術曲芸の李彩と曲芸要素が多かった事も要因にあげられるようである。

 菊蔵・柳語楼とのトリオで高座に出ていたが、1951年頃より体調不良に苦しむようになったそうで、休演が目立つようになった。

 それでも調子のいい時は菊蔵の後見や指導を兼ねて舞台に出ていたが、体調は悪くなる一方で1954年春には遂に倒れて、寝たり起きたりする生活が続いたという。

 菊蔵は柳語楼に死なれ、師匠にも死なれた事もあり、一人高座で舞台を務める事となった。

 1958年に一度カムバックを果たし、菊蔵との往年のコンビを復活させる。7年ぶりの本格復帰に関係者も驚いたという。『新文明』(1958年6月号)の寄席欄に―― 

〇もう一人病癒えたなつかしい藝人に海老一海老蔵がある。実に七年余の長きに亘る闘病生活の後帰って来たこの人に、一〇日の末廣の昼席で相まみえた。昔通りの菊蔵の後見として、さすが一まわり小さく、地味になってはいるが、何よりもきたえ上げた藝人の証拠には背筋のピンと伸びた姿勢がカッキリと美しく、海老一独得のあの間のぬけたかけ声に春また来る感を抱いた。この七年の間、菊蔵の凋落は見るも哀れだったし、そのためか往年の美しい立て物や、刃物をとっての投げ業のあざやかさに未だ見ることが出来なかった。菊蔵が何度も失敗するたびに巧妙な捨ゼリフをはさんだり、はては珍無類なお祈りを上げるなど、海老蔵芸尽くしを見せられる楽しみはあるが、なんとしてもさびしいかぎりである。しかしこの少年な少年の顔の上に、再び往年の冷えびえとした微笑みの魅力が帰って来ていた。師匠が無事に帰って来てくれたのをそれは無言でむかえているようだった。

 寄席の出演の外に大喜利などにも率先して出演し、古き良き芝居っ気を見せて観客を喜ばせたという。『新文明』(1958年8月号)に――

 ○海老一の海老蔵は復帰後ようやく舞台になれて本領を発揮しはじめたように見える。菊蔵もそれにつられて、六月一日の東急文化では傘の芸などでくつたくのない楽しみを僕等にあたえた。次いで、人形街の上席には久しぶりに二人が円馬の膝代りで、大喜利に海老蔵と円馬の二人羽織が見られたのはうれしかった。海老蔵の感覚にはよごれがない。透明なその芸が、口上師だけに控えめではあるが、二人羽織はこの人のためにずいぶん楽しいものになった。円馬も鈍優ながらふしぎな味があった。

 しかし、1960年7月ごろに落語芸術協会を離れてしまい、菊蔵は廃業。海老蔵は自宅で家族の看病を受けながら、静かな余生を送ったという。

 最晩年、娘が落語家の桂小益と付き合うようになったが、特に反対もすることなく成り行きを見守っていたという。この二人は海老蔵が死んだ2年半後の1967年春に結婚している。

 1964年12月、60歳の若さで夭折。この死をもって江戸以来の名門「海老一」は事実上の廃絶を迎える形となった。

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