鏡味小次郎(太神楽)

鏡味小次郎(太神楽)

尾藤イサオとコンビ時代(右)

 人 物

 鏡味かがみ 小次郎こじろう
 ・本 名 島岡 章太郎
 ・生没年 1938年1月7日~2000年11月11日
 ・出身地 東京

 来 歴

 鏡味小次郎は戦後活躍した太神楽曲芸師。赤丸一宗家の鏡味小鉄の愛弟子で、事実上最後の赤丸一の系統を受け継ぐ太神楽曲芸師であった。父は落語家の七代目雷門助六、祖父は浪曲の浪花亭駒右衛門という芸人一家の三代目としても知られた。

 父は落語家の七代目雷門助六こと島岡大助。出生当時は父・大助は落語家を一時期やめており、その中での誕生であった。間もなく父は春風亭梅橋として復帰する。

 父の父――すなわち祖父は浪曲黎明期の大看板・浪花亭駒右衛門である。そのため、小次郎は芸人一家の三代目として育つ事となる。

 戦時中、父は雷門五郎(後、八代目雷門助六)より「七代目雷門助六」の名を譲って貰い、襲名。しかし、この襲名は後に五郎と対立するきっかけとなる。五郎が晩年『新評』(1977年9月号)掲載の「人間模様喜劇人たち」の雷門助六の座談の中に――

あたしが大阪で芝居している時分、左楽さんの弟子で島岡大助てぇひとが、名前をもらいにきまして、じゃあ、あげましょう、そのかわり、親父の名前を汚すようなことがあったら返して下さいよ、といってね、一筆書いてもらって譲った。ところが、これが悪かったんですよ。悪いというよりなんていうのか、噺は上手くなかったが、頭は切れるんですよね。高座には出ないで、余興のほうのひとを頼んできて自分は余興屋みたいなことばかりしてるから、これじゃしょうがないんで、返してくれ、って小文治さんを通していったら、そういわんと、もすこし長い目で見てて、見てて、ってね、あたしゃ、ずいぶん長い目で見たんですけどね。

 と、助六の愚痴が出ている。

 七代目が余興屋をやっていたのは事実である。こうした余興屋の気質は小次郎の幼少期に大きな影響を与えた模様か。幼い頃から芸に囲まれた事もあってか、早くから芸を仕込まれた。その関係で小次郎は曲芸以外にも司会や漫談などもできたという。

 1951年に、鏡味小鉄に入門し、「小次郎」。曲芸や踊りを厳しく仕込まれた。なぜ曲芸家になったのか不明であるが、父の友人・古今亭今輔の倅の鏡味健二郎が「これからの時代は落語よりも曲芸だ」といって曲芸師になった理由と同じようなものではないだろうか。

 また、ゴシップの噂であるが、母の病気による家庭的困窮もあったらしい。『富士』(1953年1月号)に、

四年前に高座を退いて演芸会社を経営し、一時は物凄い羽振りだった助六も、妻女が注射中毒で廃人同様になり、入院費を始め何のかのと金を遣い果たしてみて、ようやく落語家本来の職域に目覚めた。

 とある。

 主に師匠の後見や軽い曲芸などをして腕を磨き、芸のイロハを覚えた。小鉄は当時、進駐軍慰問やキャバレーなどの職場を多く持っており、掛け持ちする事もあったという。

 1953年、弟弟子の鉄太郎が入門。ご存じ「尾藤イサオ」である。小鉄は彼に芸を仕込んだのち、小次郎とコンビを組ませて「ロカビリー曲芸と古典曲芸 鏡味小次郎・鉄太郎」という少年曲芸として売り出した。

 上の写真はその当時のものである。両人共に10代後半くらいではないだろうか。ちなみにロカビリー曲芸と名乗ったのは鉄太郎の影響が強いらしい。鉄太郎は後年曲芸をやめて、ロカビリー歌手になったのはいうまでもない。

 1960年、アメリカジャパニーズ・スペクタクルショー出演のために師匠と鉄太郎などと共に渡米。アメリカ一円を巡業した。

 この巡業先で鉄太郎はロカビリーやロックにドハマりし、曲芸を捨てる決心をつけてしまう。

 1961年3月、帰国。鉄太郎が「ロカビリー歌手になる」と一門を飛び出したため、コンビを解消。小次郎は師匠の一座の後見をしたり、司会をしたり――と転々とした。当時、師匠には鏡味小長という後見がついていた事もあり、小次郎は自活せねばならなかった。

 鏡味小鉄・小長・小次郎という名義もあれば、小長・小次郎のコンビ、小次郎ピンという例もある。

 それでも師匠には可愛がられ、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの諸外国で公演を行っている。

 太神楽の仕事がない時は司会業としても職をつないだ。父から司会の手ほどきを受けたらしいが、本当だろうか。

 司会業は自信があったそうで、長らく肩書には「曲芸・司会」と名乗っていた。曲芸をやらずに司会を普通にできたのだから、弁説に優れていたのだろう。

 1964年4月、小鉄社中と契約が切れたため、独立。ステージに転向する――という旨が『東京新聞』(4月29日号)に掲載されている。

 小長が1970年代に夭折してからは数少ない赤丸一派として活躍。40代で既に太神楽曲芸協会の理事に就任している。

 1979年に、白丸一の鏡味仙寿郎とコンビを結成。紋付き袴姿の古い曲芸に戻った。

 同年5月、「仙寿郎・小次郎」名義で落語協会へ所属。

 1980年4月27日、国立演芸場の大会「日本の曲芸」に司会者として出演。

 1981年12月ごろ、仙寿郎とのコンビを解消し、落語協会を抜けた。

 1982年4月29日、国立演芸場「日本の曲芸」に司会者として出演。

 1982年9月23日、花王名人劇場の「一芸名人集」に出演。20年ぶりに鉄太郎こと尾藤イサオとのコンビを復活させた。これは映像が残っているはずである。

 1986年、師匠の小鉄死去。小鉄の死によって赤丸一の事実上の後継者となった。

 1987年5月31日、国立演芸場の「曲芸まつり」に出演。司会として出演した。

 晩年は太神楽曲芸協会の会計理事、さらには監事に昇進して裏方としても協会を支えていた。

 1998年5月24日、国立演芸場の「曲芸フェスティバル」に出演。これが国立演芸場最後の出演となった。

 2000年11月死去。訃報は『東京かわら版寄席年鑑2001年度』に出ていた。

 ▼太神楽の鏡味小次郎が死去
 太神楽曲芸協会監事の鏡味小次郎が、一一月一一日に死去した。一九三八年、東京の生まれ。一三歳のときに鏡味小鉄に入門した。海外での公演も多く行い、歌謡ショーなどの司会もこなした。

 この死をもって赤丸一は事実上の廃絶を迎える事となった。

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