宝家大坊・小坊

宝家大坊・小坊

引用・國學院大學「招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究」

 人 物

 宝家  たからや 大坊だいぼう
 ・本 名 随 武
 ・生没年 1906年以降~?
 ・出身地 名古屋? 

 宝家  たからや 小坊しょうぼう
 ・本 名 前田 福楽
 ・生没年 1906年以降~?
 ・出身地 名古屋? 

  来 歴

戦前は人気があったコンビと訊くが、遺された逸文とレコードが、その面影を偲ばせるばかりという、何とも言えない漫才師である。

 その前歴は、上方芸能評論家の吉田留三郎が記した「まんざい風雲録」の中で、わずかであるが触れられている。

 筆者によると、漫才作家の志摩八郎から聞いた話を収録したそうで、秋田実が編纂した「漫才の変遷」というレコード集で、このコンビを取りあげた事がそのきっかけ、と前置きしている。

今から四十年も前のことである。名古屋の大須観音の境内、といっても墓場の横だそうであるが宝座という本当に小さい寄席があった。小屋の正面が幕になっていて、舞台が高揚して客席がワーッといった時、席主は幕を上げてチラリと舞台を見せる。タカマチの見世物が、そのまま劇場になったと思えばよい。(中略)この宝座の主人というのは随シンショウとかいう中国の人である。シンショウの字はわからない。興行師としては非常な腕利きで、自分の小屋で使った芸人は一月も二月も引き続き方々の劇場に出演の世話をしてくれる。これを徳として芸人連中は少々嫌なことでも目をつぶってこの人の厄介になったものという。
 さて、大坊・小坊というのはこの随さんの息子さんなのである。名古屋で漫才になって間もなく上京して東京漫才になったが活動時期は短かかったらしい。

 この後、随さんの推挙によって、砂川捨丸は御園座に出演できた、と話が続く(実際は大正10年時点で一度御園座に出ており、昭和14年に2回目の出演したといい、時期は大正の頃か)のだが、

 このコンビの情報をこれだけ詳しく載せているのは、この本くらいなものではないだろうか。なお、二人の出生地を「名古屋?」としたのは、この文章からの推測である。

 出生年も不明だが、「アホ」で鳴らした二代目平和ラッパの証言(『太陽』1974年4月号 より 「芸人楽屋噺」)が数少ない手がかりになりそうである。ラッパは昔を回顧して、

(来歴と骨接ぎになる夢を諦めたという過去を一通り述べた後、) ――でえ、先代の日佐丸さんの親御さんにい厄介なりまって、漫才やるてな事なりましたんねん。漫才やても、まあ、荷物運びみたいなもんですわ。そこえー、ちょっとおって、で、出て、名古屋の宝座に行ってぇ、二十二のとき。宝座に大坊・小坊って子供がおましてそれを私がかどわかしてな。大坊・小坊、良い漫才でな、一緒に座組んでやろう言うてな。で、親の名前で広告でんな今の、ビラや幟り、あんなんみんな親の名前でこしらえて。宝座いる芸人、座に銭かけてまっしゃろ、一日なんぼ。その芸人抜いて、で田舎まわりしたわけですわ。

 と、述べているが、ここからある程度の年齢は絞れそうである。ラッパは1909年の生まれで、そこに22を足すと、昭和5、6年になる。

 ラッパの言う「子供」が、どのあたりの年齢層を指しているのか、文中だけでははっきりとしないが、それでもラッパより年下であったという裏付けにはなる。推測になるが、ラッパとあった時点では、10代だったのではないかと思われてならない。いかがだろうか。

 上京後は主に浅草を拠点に活動をしていたようで、色川武大は「寄席放浪記」の中で、

戦前の浅草で漫才のメッカだった義太夫座に、私は一度も入っていない。(中略)目玉・玉千代、〆坊・〆吉、大坊・小坊、なんていうところは浅草ではおなじみでそれぞれ達者だったが、ラジオに出るとかして中央のスポットを浴びたという印象はない。

 と、記しており、また、同著の中に収録されている立川談志との対談の中で、

色川 ぼくの記憶は、大坊・小坊……。
立川 ああ、名前は聞いたことがある。
色川 中国人。それから、浪曲漫才がたくさんあったね。

 と、述べている。後述の波多野栄一もこのコンビのことを「中国系」と、回顧をしており、中国系の人であったのは、当時から有名な話だったようだ。

 談志は「談志楽屋帳」の中で、「懐かしい漫才」の一組として、このコンビの名を挙げている(実際に見たかどうかは不明)。

 当時、吉慶堂李彩や趙相元(二代目柳家三亀松の父)など、中国系の奇術や曲芸師が大変な人気を博していた事実を踏まえると、大坊・小坊もまた達者な芸人として迎えられたのではないか。外国人の漫才師の先駆けといっても過言ではないように思われる。

(註 彼らは、このコンビの出生や血縁を嘲笑し、差別や侮蔑をする為に、「中国系」と言っているわけではない。ただ、あるがままの印象や事実を正直に言葉にしているだけであろう。そこは勘違いしないでほしい。)

 逸文やレコードを見る限り、正統的なしゃべくり漫才だったようである。現在でもレコードでその芸風を偲ぶことが出来る。

「レコードコレクターズ」掲載の「蒐集奇談」(平成7年6月号)によると、オーゴンレコードから「運と災難」をはじめとしたものが数枚、エジソンレコードにも同じく「運と災難」が吹きこまれているという。

 今一番入手しやすいのは、先に挙げた秋田実監修の『上方漫才変遷史』だろうか。3枚目の表面に、夢路いとし・喜味こいし、砂川捨次・荒川歌江に挟まるようにして「運と災難」が収録されている。

 面白いことには面白いが、なかなかの曲者で、「乞食」や「ちんば」といったワードが出てくるので、今の世には出せない代物である。しかし、当時の視点だと、そのような言葉を使う事は、何もおかしいことではない、普通の事であった。

 波多野栄一はこのコンビを自著「寄席といろもの」の中で、

宝家大坊・小坊 中国系だが実に味のあるおかしい芸で踊りを仕込むとこなどは巧い

 と、評している。しかし、イマイチ実像のつかみきれないコンビとも言えないこともない。

 1940年4月に開催された戦没者慰霊祭及びその遺族慰問の演芸会に、「宝家大坊・柳家恵子」という名義で出演している。その時の様子を撮ったものが上の写真であるが、名前も性別も違う人物とコンビを組み直していることが確認できよう。

 男同士のコンビから男女コンビになってしまっている。柳家恵子が何者であるかは目下詳細不明。 この写真だけならば、単に大坊は小坊と別れて、柳家恵子とコンビを組み直したと解釈できないこともない。

 だが、その2か月後、京都松竹劇場で行われた公演に、平然と「宝家大坊・小坊」名義で出演しているのである。ここが大きな問題であり、矛盾点でもある。

 その時の公演の概要と出典は『近代歌舞伎年表京都篇』にある。

昭和十五年六月(十一)日~(二十)日 十一時開場 十二時開演 松竹劇場

新作漫才 酒は水か(一声・勝代)白黒問答(日佐一・日佐治)債権吉三(キク子・ツエ子)脱線国策問答(芳若・豊子)栄える道(叶家洋月・春木艶子)木蔭に涼あり(宝家大坊・小坊)

 こういう違う情報が出てくると、二人はコンビ別れをしていたのか、はたまた慰霊祭だけ一時的なコンビになっていたのか、これでは全く判別がつかない。

 可能性としては――

一、身の上の事情から一時的に他人とコンビを組んでいた。
二、慰霊祭のためだけに結成された一度限りのコンビである。
三、その前から二人は別れていて、6月の京都松竹劇場に出ていた小坊は2代目である。

 という三つが挙げられるのだが、どれが正しいのか今となっては闇の中である。しかし、私の推測からすると、「一」が有力な説ではないだろうか。

 1943年、帝都漫才協会に所属している様子が確認できる――が、これが最後の消息となる。

 なお、戦後の資料などに、「東京大坊・小坊」という漫才師が出てくる事があるのだが、これは赤の他人である。但し、ある筋からきちんと譲り受けて襲名している。大坊が、先年まで活躍していた漫談家の斎藤れを。小坊は今も浅草で活躍している真木淳である。

 その真木淳氏に名前をどこからいただいたのか、お尋ねしたところ、「詳しい事情は知りませんが、橘右近さんが持っていました。それを譲ってもらって、三代目という形で……当時入っていた事務所を亭号にして、東京大坊・小坊」との事であった。

「二代目は?」と尋ねると、「司会者の松島えんじって人が名乗ったそうですよ。えんじさんから直接聞いたので間違いないでしょうが、それ以上は判りません」との由。

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