東若丸・君子

東若丸・君子

孫に囲まれる東若丸・君子(右)

 人 物

 あずま 若丸わかまる
 ・本 名 股村 勘次郎
 ・生没年 1899年(逆算)~1958年6月1日
 ・出身地 北海道

 あずま 君子きみこ
 ・本 名 股村 キヱ
 ・生没年 1899年(逆算)~1967年5月26日
 ・出身地 北海道

 来 歴

 東若丸・君子は戦前活躍した夫婦漫才師。都上英二・東喜美江の東喜美江の両親として知られている。漫才師時代は剣舞を演じる漫才を得意としていたという。

 若丸の出身は小樽銭函の名家だったらしく、ご遺族の証言によると「小樽で股村と街の人に尋ねると、家に連れて行ってもらえる」ほどの勢力があったそうである。

 現在でも股村という名字は小樽に少数残っている。

 その前歴や詳しい事情は不明であるが、キエと結婚し、漫才界入り。当時、東京漫才のスターとして八面六臂の活躍をしていた東喜代駒に仁義を通して、「東若丸・君子」と名乗る。

 ご遺族曰く、喜代駒の弟子ではなかったそうであるが、当時は一門や亭号が強くものを言った時代なので、便宜上そう名乗ることにしたのだろう。なお、東を名乗る以上はきちんと仁義を通し、身内に入った模様。

 相方で妻の君子も北海道の出身。東和子の母・ムメとは従姉妹関係に当たる(君子の母とムメの母が姉妹)。

 若い頃の経歴はよく判っていないが、股村勘次郎と出会い、結婚。芸人となって、娘・喜美江を授かった、と推測するのが、妥当な所か。

 以来、巡業や地方を転々とする日々を送り、漫才師としてのキャリアを積んだ。

 ご遺族によると、君子は薙刀を得意としていたそうで、それを舞台でもやっていたというところから推測するに――剣舞や舞踊漫才のようなことをやっていたのだろう。

 1926年に娘・喜美江が誕生。若丸はこの娘に期待をかけて、厳しく芸を仕込んだ。後年、婿入りする都上英二の回想によると「厳しかったですねえ、その稽古もね。とにかくね、親父が尺八で頭を殴るくらいやかましかったんですよ」(『東京漫才のすべて』の対談より)というくらい、厳しかった。

 喜美江誕生前後に正司利光の一座に入団。幼い日のかしまし娘と同座をし、娘の喜美江と歌江・照枝、さらに家庭教師の美和サンプクと出会っている。

 1937年頃、大空クリーンと名乗っていた都上英二と出会い、面識を持つようになる。間もなく喜美江とクリーンが恋愛関係となり、若丸と君子はその関係を認め、結婚を許した。

 その後も暫く正司一座に在籍していたが、後年の解散で他の一座に移った。

 1940年頃、喜美江が都上英二と結婚。この結婚には、君子の強い勧めがあった、とご遺族より伺った。英二は婿養子になり、「股村」と名乗るようになった。

 その前後で上京し、浅草松葉町の「交楽荘」に転居。

 この交楽荘は浅草でも有名なアパートだったそうで、波多野栄一『ぼくの人生百面相』によると、家賃は十六円でガス・電話・トイレ付という当時としては高額物件。他の入居者には、「波多野栄一夫婦東ヤジロー夫婦大空ヒット青柳ミチロー・ナナ文の家都枝・七五三、東家三燕」が居たとの事である。

 上京後、芸人をやる傍らで木馬館の従業員のような事もやっていたそうで、戦前に喜美江の両親に預けられたという大空かんだ氏によると、

「幼い頃、親(大空マナブ)が芸人で子供の面倒を見ていられないっていう理由から喜美江さんの両親に預けられた。確か、お父さんのほうが木馬館に勤めていて、よく連れて行ってもらっては下の回転木馬に乗って遊んだ記憶が残っていますねえ」。

 1941年に娘の婿であり、相方である都上英二が応召されビルマへ行ってしまっているので、その間、生活のための副業としてやっていたのかもしれない。

 終戦後、復員してきた都上英二は東喜美江とのコンビを復活させ、人気者になったのと前後して、舞台から一線を退き、事務所を設立。

 君子は北海道からやって来た従兄弟のムメ・和子親子の面倒を見ており、和子の漫才界入りの便宜を計ったという。

 娘夫婦をはじめ、親戚筋の東和子(西〆子とコンビ)、弟子筋の荒三也・都上ゆたかなどが所属し、彼らの活躍をサポートする事に専念した。

 後年、英二と喜美江の間に生まれた子供三人――孫にも恵まれ、幸せな家庭を築き上げたが、若丸は58歳の若さで倒れ、夭折した。

 夫を見送った君子は、その後も多忙の日々を過ごす娘夫妻の後見役として活動していたが、1962年10月に娘の喜美江に先立たれる不幸に見舞われた。

 晩年は孫の面倒を見ながら、喜美江の長女(孫娘)に三味線を教える日々を過ごしたという。

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