林家染団治

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林家染団治

十八番のゴリラを披露する染団治

 目次

 ・人物
 ・経歴
  ・漫才師以前
  ・漫才への転身
  ・染団治、売り出す。
  ・東京吉本入社とテイマン時代
  ・終戦と晩年
 ・芸風
 ・弟子
 ・出演記録

 人物

林家 染団治はやしや そめだんじ

・本 名 辻 卯三郎
・生没年 明治27年/1894年9月18日~1969年以後、1981年以前
・出生地 大阪府

 

 経歴  


・漫才師以前

 生まれは大阪難波というのだから、生粋の大阪っ子だった。生年は「芸能画報 四月号」(1959)掲載の「新撰オールスタァ名鑑」より割り出した。

 幼い頃から芸事に熱中し、千日前や難波に出る小屋や寄席を出入りしたのが運の尽き。13歳の時に、当時千日前で興行を打っていた大阪にわかの大御所、東家力太郎の門下に入り、東家玉太郎と名乗ったのが長い芸能生活の振り出しであった。  

 そこで、俄の修業を積むとともに、当時流行り出していた漫才や掛合の勉強もはじめた。小島貞二によると 『万才の修業を二年ばかりやった』 そうで、キャリアの長さから言えば 『大阪の砂川捨丸に匹敵する』 ものだと評している。  

 自慢の大きな顔を生かした芸やクスグリはこの俄時代からやっていたそうで、その容貌から「軽石」とあだ名された。なるほど、凹凸の多い軽石の如く、立派なご尊顔である。  

 その後、当時人気のあった落語家、二代目林家染丸の門下に入り、染団治と改名(旧字体で染團治とも書くがここでは染団治で統一する)。本人は一番弟子だと自称していたそうだが、真相は不明。

 落語家時代の資料はほとんどないが、わずかに「実業の日本」に掲載された『世相の表裏を語る「變った商賣ざっくばらん」座談會』なるものが、漫才師転向の話も含んでいて大変貴重である。

染團治 東京にゐる漫才は殆ど私の手を潜つていない人はないでせう。私は漫才は下手ですが、養成といふことについては古くから相當力を盡してゐます。私は元々落語家ですが、東京参りましたのは、大正四年で、震災の二年前から漫才の方に転向したんですが。

(「実業の日本」昭和13年5月号 121頁)

 この後、染團治は自分のライバルであった朝日日出丸・日出夫や喜代駒を名指しで、「あの方たちは皆素人さん」と、言い放っている。物怖じせずに、これだけの事を言い放てる、染團治の勢いや権力は幾許なるものであっただろうか。

 大正8年、東西交流を目的とする団体、「東西会」に招かれて、上京をし、若手落語家として活躍をしたそうであるが、本人は大正4年に上京したといっている。東西会に関する資料は少ないが、三遊亭金馬が自著「浮世だんご」の中で、   

 漫才は大正五、六年頃、大阪神戸の芸人が東京へでてきて、東京落語と合同して「落語東西会」という会を作った頃から、ぼつぼつと漫才というものが客の目につき始めた……

(三遊亭金馬「浮世だんご」30頁)  

 と、大変興味深い事を書いている。そう考えると、染団治もまた落語をやる傍らで俄や珍芸を披露していたのかもしれない。明治から大正にかけて東西交流は大変盛んであり、染団治のような上京組は何も珍しいことではなかった。(東京に関西風の滑稽噺や出囃子が持ち込まれたのもこの頃の話である)

 (喜利彦推測 大正4年に東西会に参加して上京した事を考えると、大正初期には林家染丸の門下にいたことが考えられるが、入門時期は不明。また、先述通り、染丸の一番弟子と自称している記事が私の手元にあるが、これも信憑性に欠ける。上方落語の系図や関係者を詳しく記した「落語系図」を覗くと、「二代目林家染丸門弟 林家染団治」という記事が確かに確認できるのだが、それ以外の名簿や番付には載っていないので、いつ頃入門したのか全く分からない状況にある)

 そして、先の座談の記載に従うならば、大正10年頃、漫才へと近づき始め、漫才と落語の二束わらじを履き始めたようである。 

 だが、落語家であったという意識は強く、漫才に転向した後も染丸一門の定紋である「ぬの字のうさぎ」を大切にしており、師匠から貰った名前を生涯改名することはなかった。演芸研究家の清水一朗氏から、舞台用の紋付きには「ぬの字のうさぎ」が縫いこまれていたそうで、挨拶の折にも「元は落語家だった」と話してくれた、という逸話を伺った事がある。


 ・漫才への転身

 大正12年9月1日、関東大震災に遭遇した染団治は命からがら東京を脱出して、帰阪を遂げた。なお、帰阪するまでの間、東西会などで知り合った金原亭馬きんという噺家の元に身を寄せて、世話になっていた。  

 この馬きんこそ、後年、名人の誉をほしいままにした五代目古今亭志ん生の若き日の姿である。志ん生は震災直後のことをよく覚えており、自伝 「びんぼう自慢」の中で、  

 (被災の動乱を喋った後、)林家染団治てえ、上方から来ている東西会の仲間が、まっさきに来た。これが太っているから、よく食うんですよ。鍋一ぱいたいたメシなんぞ、一人でペロリとやっちまう。こっちは夫婦で、カラの鍋ェのぞいちゃァ、ためいきをついている。

(古今亭志ん生 「びんぼう自慢」 131頁 ちくま文庫)

 と、若き日の姿を回顧している。当時、赤貧の只中にいた志ん生夫婦に憚らず、ご飯を食べつくしてしまうというこのエピソードは、一篇の小噺のような趣さえある。  

 何とか、帰阪を遂げた染団治であったが、古巣の上方落語界は衰退をはじめており、かつての地位や栄光は漫才にとってかわられようとしていた。その背景には、落語家同士の抗争と対立、寄席の経営権の問題、吉本興業の台頭、民衆の娯楽の変化などなど、その原因を一つに絞ることが出来ない。逆に言えば、今まで積もりに積もった様々な問題が破綻した結果ともいえるであろう。  

 中でも、漫才を売り出そうとする吉本興業の台頭は、良くも悪くも上方落語界に大きな影響を与え、噺家の廃業や漫才師への転向に拍車をかけることとなった。その結果、上方落語は漫才の隅に追いやられるようになり、衰亡の危機に瀕するようになっていた。  

 そして、その問題は染団治にも直結していた。今までは若手や売れない噺家の受け皿になっていた端席(一流ではない小さな寄席や劇場)は、漫才に主導権を握られ始め、巡業や慰問もまた同じように変化していった。震災後から一年半ほどの消息は明らかになっていないが、肩身の狭い環境の中で細々と活動をしていたのではないだろうか。結局、染団治は古巣の上方落語界には復帰せずに、東京に定住することとなる。  

 大正14年、再上京をした染団治は、柳家駒治という女芸人とコンビを組んで、本格的な漫才師の道を歩み始める。これが染団治にとって、最大のターニングポイントだったといっても過言ではないかもしれない。  

 しかし、大正末~昭和初頭まで、染団治が一体どこで何をしていたのかは、あまりよくわかっていない。千代若や小島貞二の発言や記載などから、漫才をやっていた事は間違いないのだが、それ以上のことが分からない。推測ではあるが、噺家出身という経歴を生かして端席などに出ていたのではないだろうか。

 その頃を偲ばせる回顧録の一つして、朝日新聞で連載されていた「いつになつたらわれらの春に 藝界下積物語」に、染團治が取りあげられた際、

舞台でゴリラの物真似で人氣のある林家染團治は、大阪仁輪加を振出しに落語に転じ、それから更に漫才に転向したがさっぱり人氣あがらず、旅から旅へ流転のわびしい御難続き。

(「朝日新聞 夕刊」1937年5月15日号 5頁)

 と、記されたくらいなものか。文面からわかるように、コンビを組んで東京に定住した前後は上手く行かなったようで、そう考えると昭和初期の資料量は喜代駒と比べると、随分と少ないのも分かる気がする。

 また、相方の柳家駒治という人物は女性であること以外、詳細不明である。だが、「柳家」という名門の屋号を名乗り、芸達者な染団治の相方に選ばれたという事を踏まえると、元々は落語家と一緒に寄席や公演に出ていた女道楽か音曲師ではないだろうか。特に女道楽という芸は当時の寄席の花形の一つとされ、此処から漫才に転向した人も多い。

 そして、昭和3年、4年頃、染団治は小川雅子という美女とコンビを組み、「染団治・雅子」の看板を掲げ、本格的に東京漫才の一員としてデビューを果たした。この雅子と一緒になった頃から、染団治の動向がはっきりとし始めるので、ここが大切なターニングポイントだったのではないだろうか。

 この美女と野獣というべき珍コンビは瞬く間にスターダムの階段を上っていき、戦前の人気者となる――――のだが、ここらで少し、相方の小川雅子についても触れておこう。

 やはり、相方の宿命なのか、小川雅子の情報はただでさえ少ない染団治よりも少なく、殆どわかっていない状態にあるのだが、それでも目下判明した事をいくつか書きとどめておく事にする。

 生まれは東京京橋だそうで、都新聞の中に、

 三番目(註・出演順)の小川雅子さんは東京京橋の出身、漫才では染團治と約八年のコンビで、唄がお得意

(「都新聞」1936年6月12日号 9頁)

 僅かながらであるが、貴重な情報が記されている。結成年が小島貞二の説よりも1年早いにも関わらず、こちらの方が信憑性が置けるのは、活躍中に調査した情報だからか。

 染団治によると、小川雅子の前歴は女優だったといい、「人を笑はす商賣ばかりの座談會」なる座談の中で、

記 者 染團治さんも一寸替れないわけですね。
染團治 だからあんなきれいな女を持ったら、もう持てないから大事にしてゐます。何と言つても、足掛け十年ですからね。
馬 風 正子といふのは亭主がなかったかい。
染團治 あれは、その時分祇園小唄を唄つてゐたんだ。私は近所だから観に行つたが、あまりいい聲だから、何とかならんだらうかと掛合に行つて映畫へ連れて出たのが初めです。それから大阪、京都と巡業してゐるうちに、向ふぢゃ、こんなきれいな青年と――と思ひ、宿屋でも知らないから蒲団を一つに敷いて呉れるので、仕方がないから――やはり仕様がないよ。(笑聲)
馬 風 何でも脅迫したといふことを聞いたよ。俺の言ふことを聞けば左団扇だとか、給金を六圓上げるとかッで。さういふの探して呉れんかい。
染團治 君はまた早いからいかんよ。
(註・馬風は「鬼」で知られた四代目鈴々舎馬風。) 

(「実業の日本 昭和14年1月号」174~175頁)

 と、述べている。この前歴は結構有名だったと見えて、「いつになつたらわれらの春に 藝界下積物語」の中にも、

 小川雅子といふ少女漫才は十四歳の小娘時代
 昼は工場にいつて働き、夜は品川の帝國館に出演し『新派大悲劇』や『蘭劇』の弁士の子役なんかをやつて町の兄さんたちに騒がされて居たが、その後活弁を失業して今度は小唄映畫なんかの歌を唄つて居るうちに漫才になつたといふ経緯がある。

(「朝日新聞 夕刊」1937年5月15日号 5頁)

 なる記述がある。やはり女優をやれるだけの美貌だったことは間違いない事実であろう。しかし、これ以上はあまり見当たらないのが目下の状況である。

 ・染団治、売り出す。

 小川雅子とコンビを組み直した染団治は、お得意のゴリラや紙立てといった「見せる漫才」を武器にして、メキメキと頭角を現した。

 雅子とコンビを組んだ後は、浅草六区――特に江川大盛館という劇場によく出ていたそうで、

 電車通りからはいって、六区の突きあたりの左角に、名前は忘れたが、なんとかという小屋があった。江川大盛館――違うようだ。おもいだせない。低級な寄席みたいなもので、なんでもやる。染団治という眼のいやに引込んだゴリラの真似が上手な男。花菱という芸人もいた。三八二みやじという安来節の旨い年増もいた。

(石母田俊「東京から江戸へ」123~124頁)

 と、「江戸っ子」の研究で知られた石母田俊は、カジノ・フォーリーや雷門の賑やかさなどと一緒にしながら、震災前後の浅草を回顧している。そう考えてみても、やはり浅草の売れっ子だったのであろう。

 そんな染団治を大変愛し、応援していた一人に「演歌の神様」こと、添田唖蝉坊がいた。彼は自著 「浅草底流記」 の中に、   

 特筆す、染団治、静子の万歳。通称ガンモドキ染団治君の、ゴリラのどぜうすくひである。彼が、真面目(といふのはおかしいが)で万歳をやってゐる顔は、漫画家の宮尾しげをにそッくりだが、ゴリラになってからは大辻司郎にそッくりだ。そのゴリラがどぜうすくひをやるのだ。思っても愉快ではないか。断然大盛館で光ってゐるゴリラである。

(「添田唖蝉坊・知道著作集 2」より『大盛館のゴリラ』74~5頁)

 と、右のような一文を寄せて、染団治のゴリラの泥鰌掬いを激賞をしている。芸や人間を素直に愛し、偏見も衒いもしない、如何にも唖蝉坊らしい文章である同時に、「大盛館のゴリラ」と名づけられた通り、当時の染団治の動向や大盛館の様子をうかがい知ることのできる貴重な資料でもある。  

 しかし、文中の静子という女性は誰なのか分からない。染団治は生涯で数回コンビを変えているが、知る限りでは、静子という名前はここでしか見たことがない。もしかしたら、唖蝉坊が小川雅子と静子を間違った可能性もあるだろうし、雅子が静子と名乗っていたのかもしれない。

 染団治はどこまでも漫才の人であった。喜代駒が劇場や貸席を中心に自分の気が赴くままに回っていたのに対し、染団治は浅草や寄席に出続け、客を喜ばせた。この事が有名無名関わらず、浅草の漫才師に好かれ、弟子も多くやってくる由縁になったのではないか、と私は考えている。

 ・東京吉本入社とテイマン時代

 昭和7年、東京吉本の発足と共に専属となり、吉本興業の看板として君臨した。一部資料では、大正末から吉本興業の所属であった、というような記載も見受けられるが、前田勇「上方まんざい八百年史」や月亭春松「落語系図」などに掲載されている昭和初期の吉本興業に所属していた漫才師の名簿を見ても、その名を確認するできない。

 一方で、染団治の仲間であり、同じく吉本興業に所属していた、音曲師の春風亭枝雀はこんなことを語っている。

 その時分、浅草の玉のりで有名な江川大盛館ってえのがありました。そこに色物集めた大会があったんですよ、そこへちょいと遊びに行ったとき、大阪の吉本興業にいたことのある青山てえひとに、ひとつ月給百円だすから手伝ってくれ、なんて頼まれて、そいじゃってんで首を突っ込んだのが、噺家とは道の違う、そっぽの方に歩き出すきっかけでした。
 昭和五年まで足かけ三年、そこでいろんなことをやりました。
 林家染団次てえゴリラの真似する売れた芸人でしたが、そのひとと一緒になってもう、いろいろなことをしましたな。

(中略)

 その頃、一軒おいて隣に吉本興業の花月てえのがあったんですよ、二軒でね、競争でしたけどもね、結局あたしたちの方が客のいりがよかったんでね、そいで吉本の社長、いま、吉本興業の会長になっている林正之助っていう社長がね、大盛館の連中全部買おうということになって、ほんの遊びで入った世界がとんでもない方向にとこれからすすんでいっちゃうんで。

(「新潮」1977年11月号 木村勝美「人間模様 喜劇人たち」 99~100頁)

 と、証言している。推測ではあるが、吉本の本格的な東京進出と共に専属になったと見るのが自然な流れか。

(喜利彦余録・江川大盛館は元々玉乗り曲芸の江川マストン一門が持っていた劇場だそうである。)

 こうして吉本所属になった染団治はより一層、飛躍を遂げる。

 吉本所属とだけあってか、関西の面々とも交流が深かったと見えて、菊池寛の名エッセイ「話の塵」の中に、

エンタツ一座

 久しぶりで、新宿第一劇場でエンタツの漫才を聴いた。エンタツの長所は、その軽妙な身ぶりとその話術にある。だが、それ丈に話の内容が空疎になりがちである。漫才をもつと発展させるためには、やはり作者が必要であることを感じた。映画における考案者のやうな人がゐなければならぬと思つた。この一座の雪江五郎、染団治などは、だん/\上手になるやうだ。それから、一しよに出てゐたアクロバットの寺島玉章の芸は、至芸である。あれを見てゐると、昔の剣術の名人などの到達した妙境と云ふものも、理解される気がする。牛若丸の早業も、天分と修業とで、やれないことはないやうだ。

(「菊池寛全集 24巻 話の屑(昭和十年)」より 556~557頁)

 なる一節がある。横山エンタツの一座にも出入りしていたという貴重な証言である。 

 東京吉本に所属していた事が大きな後ろ盾になっていたのか、はたまたライバルで同期であった東喜代駒が漫才より一線を退いたせいか、そこまでは分からないが、東京漫才の旗手の一人として、多くの弟子を育て、若手の面倒を見たのは、やはり特筆すべき事であろう。  

 一門の詳細は後述する事にするが、自分の下に集った若手や門下生を集めて、「林家会」という団体を結成していたそうで、一時期、林家染芳と組んでいた内海桂子は自著「転んだら起きればいいのさ」の中で、   

 林家染団治といえば、大阪の落語家出身で、当時、東京では弟子もたくさん抱えた大御所で、ゴリラのまねをお家芸にしていた師匠です。

(内海桂子「転んだら起きればいいのさ」 131頁)  

 と、回顧しており、その次のページには、『林家会記念写真(昭和10年10月)』 と、記された思い出の集合写真が掲載されている。  

 その林家会について、さらに詳しく述べられているのが、小島貞二の「大衆芸能資料集成」である。小島は、林家染団治の活躍を踏まえながら、

 染団治一門は、昭和に入って隆々たる勢いを示し、「林家会」の名で東京漫才の中心勢力となった。最盛期は五十組を数えたほどだ。このあたり喜代駒の場合とは大きく違った。

(「大衆芸能資料集成 第七巻」131頁)

 と、林家会の存在を明記したうえで、当時、ライバル的存在であった喜代駒との比較を行い、その勢力をアピールしている。  

 しかし、染団治の下からは人口を膾炙するような人気漫才師が出なかったのに対し、余り弟子を取らなかった喜代駒の下には、ヤジロー・キタハチ、英二・喜美江、大空ヒット、Wけんじ、などという人気漫才師が輩出された事を踏まえて考えると、なんだか皮肉のように感じられないこともない。書き方の問題だろうか。  

 尤も五十組も弟子を抱える事は、相応の人望と人気がなければ出来ない話であり、ここは玉子家円辰や砂川捨丸にも匹敵する点であることはいうまでもない。  

 そんな人望と人気が買われたのか、昭和10年9月に発足した「帝都漫才組合」の会長に就任し、東京漫才の発展に力を注いだ。しかし、小島貞二は、「東京漫才のすべて」の解説で、   

 当時のメンバーは八十余組(百六十余人)。染団治が代表格にえらばれたが、実権は大久保氏がにぎった。

(「東京漫才のすべて」 解説書 9頁)  

 と、実際のところは、元東京市議で帝都漫才組合組合長に就任した大久保源之丞が偉かった、というような風に書いている。  

 確かに大久保は漫才師のそれとは比べ物にならないくらいのお偉方であり、「帝都漫才協会」と改名した後も権力を保持した事実を踏まえると、そう解釈してもおかしくはないが、やはり意地悪な書き方のように思える。曲がりなりにも、漫才師80組の代表として、染団治が選ばれたという事は、やはり彼に人徳があったという事の裏返しではないのだろうか。

 なお、この結成の時、どういう訳か喜代駒一門は呼び出されず、直後に「漫才振興連盟」なる団体を結成するが、こちらは短命に終わった。

 どうやら、この頃が一番の人気と権力の絶頂であったようで、落語家の立川談志は色川武大との対談の中で、当時の染団治を、  

立川 染団治があの頃の王様ですよ。林家染団治。
色川 染団治の系統はずいぶんいた。それから、東喜代駒か、あの系統もいた。

(色川武大「寄席放浪記」 164頁)  

 と、評している。また色川武大自身も「花王名人劇場」のパンフレットの中で、

――私の子供の頃、ゴリラの真似で売っていた林家染団治は東京漫才界のボスだったらしく、林家の家号と染の字をつけた芸人がやたら多かった。

(「花王名人劇場パンフレット」13号)

 と、似たような事を記しているのも何かの因縁か。

 当時、漫才をやっていた波多野栄一も自著「寄席と色物」の中で、

 林家染団治・小川雅子 ゴリラのどじょう掬いは天下一品 林会のリーダーで東京方のリーダー(原文ママ)  

 と、記している。短いながらも媚びる様子のない所を見ると、やはりその人気ぶりと権力は並大抵のものではなかったようである。  

 戦後、帝都漫才協会が解散した後も、漫才師を辞めることなく、「関東漫才協会」という団体を作って、会長に就任した。しかし、そのころの動向はよくわからない。   

 それまで林家染団治を会長にした「関東漫才協会」というのがあるにはあったが、ほとんど有名無実。このマンケン(註・漫才研究会)が戦後初の東京漫才の総合団体といってよい

(小島貞二「漫才世相史」 193頁)  

 現在、入手できる資料で確認できるものは、これくらいなものか。後は新聞で二、三ばかり似たような記事を目にした事があるが、どんな会員がいて、どういう活動をしていたのかはハッキリしていない。これしか書かれていないので、知る由もないのである。推測ではあるが、組織構造や活動内容は、戦前の「林家会」とそこまで変わりがなかったのではないだろうか。

(喜利彦余録・一つだけ覚えているのが、浅田家彰吾が「関東漫才協会」の常任理事をやっていたという事である。)

 戦時中は、人気漫才師の一人として、大政翼賛会の会合に呼び出され、戦時協力を求められたという。また、軍部が漫才の健全化及び国家協力を促すために開催した「漫才家懇談會」にも出席している。

 その一方で不思議な反骨感も持っていたらしく、林家彦六の「噺家の手帖」の中に、

 すこし愉快な話をしよう。大東亜戦争になってから国民は金銀を手放しダイヤを提供し、果ては銅像から鉄瓶までお上へ差し上げた。その頃のこと。総理は東条英機大将だ。
首相官邸に宴会があって二、三の芸人が余興に出演した。その中に漫才で〈ゴリラ〉の真似を得意にしている林家染団治がいた。

 やがて自分の出演順がきたので対人の芸人と二人で定めの場所へ出て一礼し漫才にとりかかると総理以下主客の居並ぶ客間の中央にテーブルが据えてあって花瓶に花が一ぱい飾ってある。漫才を演りながら染団治がどうも彼の花瓶はメッキではなくって本物の金だナと睨んだ。やがて漫才の喋りが終わって得意のゴリラの真似になったので『どじょうすくい』を踊りながら舞台から客席へ降りてゆき卓上の花瓶に近づいてたたいたりひっかいたり肚の中でてめえだけ金を持っていてこの罰当たりウォーッとどなった。庶民の淡い反抗だ。

(林家正蔵「噺家の手帖」 39~40頁)

  なるエピソードが掲載されている。人気者でありながらも庶民の芸であり続けた漫才師の屈託した感情がにじみ出ていて、面白くどこか悲しい。

 

 ・終戦と晩年

 昭和20年代に入ると、長年の名相棒であった小川雅子と別れ、高野美貴子とコンビを組み直した。雅子と別れた理由はよく分からない。死別した可能性があるが、小川雅子自体よく分かっていないので、何とも言いようがない。  

 また、「私のネタ帳 パートⅡ」(32頁)を覗くと、林家染團次・愛子というコンビ名で漫才をやっていることが確認できる。多分、その場凌ぎの相方として起用されたものだと推測されるが詳細は不明。はっきりしているのは、染団治の一門であった事と、高野美貴子とコンビを組む前後の話であるといったところか。

 晩年の相方である高山美貴子もよく分かっていない。清水一朗氏によると「随分と若い、染団治さんと親子くらい年の離れた人でしたけどねえ」。

 昭和30年2月、漫才研究会が設立された時、染団治も請われて、副会長(後に補佐)に就任した。キャリアから行けば、会長になれないこともなかったであろうが、当時人気者であった千太・万吉に会長の座を譲った模様である。

 当時の資料を二、三あげてみよう。

漫才研究会々員(昭和三十年一月創立)

會 長 リーガル千太・万吉
副会長 林家染団治・美貴子
幹 事 (常任)都上英二・東喜美江
    (会計)三国道雄・宮島一歩
        隆の家万蔵・栄蔵(原文ママ)
        大空ヒット・三空ますみ
        青柳満哉・柳七穂
        宮田洋容・不二幸江
    (常任)大江 茂

(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 27頁)

 この翌月の会合で、染団治は会長の「補佐」に就任する。

二月十四日午後十一時会員総会を開催改めて役員推挙の結果左の通り確定す

會  長 リーガル千太・万吉
補  佐 林家染団治・美貴子
常  任 都上英二・東喜美江
宮田洋容・不二幸江
会  計 三國道雄・宮島一歩
会計監査 (兼任)リーガル千太
幹  事 大道寺春之助
隆の家万龍・栄龍
大空ヒット・三空ますみ
青柳満哉・柳七穂
桂三五郎・河内家芳江
浅田家章吾・雪枝
桜川ぴん助・美代鶴[※「兼任連絡」の加筆有]
橘晃一・橘眞理子
松鶴家千代若・千代菊
中禅寺司郎・滝喜世美
高波志光児・光菊
新山悦郎・春木艶子
南道郎・国友昭二[※追記]
コロムビアトップ・ライト[※追記]

(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 28頁)

 その少し後、ニッポン放送にて幹事座談会を催したという。

二月廿五日、ニッポン放送にて幹事の座談会録音す

司会 並木一路

千太、万吉、三五郎、芳江、万蔵、光児、洋容、美代鶴、染団治、司郎、喜世美、七穂、満哉、英二、喜美江、千代若、千代菊、悦郎、艶子、晃一、眞理子、章吾、雪枝

(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 30頁)

 この音源が残っていれば、当時の漫才師の大御所の肉声が(曲がりなりにも)聞ける事であろう。

 また、創立委員の寄付として「金五百円」を出したという記録や、栗友亭の名簿などにも名前が出ているが、殆ど類似しているので除いた。詳しくは参考文献参照のこと。

 さらに相方を転々とさせ、1957年に、津村朝路なる人物(本名・篠塚朝子)とコンビを組んでいる。この人は元々、春の家金波・銀波という漫才師の片割れであった。詳しくは、春の家金波・銀波参照の事。

 また、1958年の漫才研究会分裂騒動においては、主導者ではなかったものの、相談役として迎え入れられた、と「芸能」などで指摘されている。

 青空うれし氏によると、喜寿近くなっても矍鑠と舞台を勤めていたそうで、漫才界の古老として、ささやかな晩年を彩ったようである。

 目下、最後の消息は昭和44年10月に行われた「東宝名人会」の土曜昼席における「なつかしの演芸」。この時、玉子家源一大朝家五二郎と共に、漫才界の長老として出演し、思い出話と十八番の「ゴリラの安来節」を披露した。その時の様子を、三田純一は以下のように書いている。  

 大朝家五二郎、玉子家源一、林家染団治――若い寄席ファンにはなじみのない名前だが、いずれも漫才界の長老である。  「東宝名人会」の土曜の昼席、めずらしくこの三人の顔がならんだ。「なつかしの演芸」というタイトルだが、司会の青空うれし・たのしのインタビューが主で、かんじんの“演芸”が見られなかったのが残念。わずかに、染団治が十八番の“ゴリラの安来節”をやって、オールドファンをなつかしがらせた。この三人、いずれも大阪で修業し、震災後東京に定住したという経歴であるのも、漫才は西から、という芸能史の一コマをうかがわせて興味があった。  

(「朝日新聞・夕刊」 昭和44年10月21日 9頁)  

 これが、現在確認できている中では最後の染団治の動向である。なお、この時、司会を務めた青空うれし氏は、公演があった事は覚えてくださっており、本人曰く、「天才(リーガル)と一緒に企画を練っていた時、一つ趣向を凝らして、漫才の長老ばかり集めたら面白いんじゃないんか、ってんで、この会に呼んだんだ」とのこと。

 その後は、昭和56年に、没した芸人たちを記録するために作られた極楽寺の芸人名簿まで消息が分からなくなる。

 この数年のどこかで亡くなったのは間違いないようだが、詳しい所までは分からない。しかし、昭和51年に、LP「東京漫才のすべて」が出た時には、対談者の一人として招かれていないので、それ以前には没していたものだと思われる。

 東京漫才のリーダー格だった漫才師の消息が、最後まで分からないというのは、何と情けない話だと思われるかもしれないが、念ながら、これが漫才研究の現状である。全く資料がない中、綴っていることをご留意願いたい。


生没年、活躍、逸話、関係者、些細な情報でも喜びます。

  情報ヲ求ム

 
得意の紙立てを演じる染団治

(引用 國學院大學 研究開発推進センター

 芸 風

 染団治といえば何と言ってもゴリラのマネである。彼はこの芸を看板にして五十年近くも活躍したというのだから、如何にゴリラのマネが受けたかであろう。

 このゴリラのマネが生まれたきっかけを小島貞二は、

 本人にきいたところによると、何でも震災直後に上京したころ、九段の靖国神社の祭礼に、ゴリラの見世物があった。つぶさに観察したあげく、早速舞台で形態模写をやったところ大受けで、これを「ゴリラの安来節」にまで発展させたのが、絶対の売り物になったのだという。これで染団治は五十年メシを喰った。

(「大衆芸能資料集成 7巻」131頁)

 と、述べている。また、朝日新聞の記事「いつになつたらわれらの春に 藝界下積物語」の中にも、

ある時、靖國神社のお祭りにゆくと、見世物がずらりと並んで居る中にゴリラの見世物があつた。このゴリラを見て……『こいつを真似すると面白い』と。気づき、ゴリラの動作を熱心に観察、それから上野動物園のゴリラの係へと磨きをかけ、その物真似を舞台で賣物にしたところ果然ヒットして賣出したといふ。

(「朝日新聞 夕刊」1937年5月15日号 5頁)

 などと、似たような事が記されている。が、その一方で、染団治本人は、「婦人倶楽部」に掲載された「夫婦漫才の生活打明け漫談會」の中で、

 染團治 私がゴリラをやつた動機は、富士見町の藝者でゴリラの表情をするのがゐたんです。二十一か二位のね。何處で覚えたと訊くと、靖國神社の大祭に何時でもゴリラの見世物が来る。そこへ毎日通つて覚えたといふんです。私のは舞薹でゴリラの顔をしてふざけたりするのですが、その藝者のは樫の棒を握つて立ち上るところから、物を食ふところ、そりや巧いものでした。私はそれにヒントを得たんです。
 徳 田 その藝者は美人でしたか。
 染團治 さうでもなかつたです。何處かゴリラに近い顔でした(笑聲)さて私は考へた。このゴリラを一つ商賣にしようと思つて、それから一週間ばかり誰もゐない所で、鏡の前で一生懸命研究しました。さうして漸く出来上がつたのですが、我ながら浅間しい表情だと思ひましたね。然しお客は引繰り返りました。(笑聲) 

(「婦人倶楽部」昭和14年8月号 226頁)

 また、少し言葉は違うが、「人を笑はす商賣ばかりの座談會」の中でも、

ゴリラが生まれるまで

染團治 どうも早く来る筈でしたが、掴まつてしまひまして――。
馬 風 君のゴリラの話をやつたらどうだらう。どういふところから考へついたか。
染團治 九段の靖國神社へまいつた時に、富士見町へ行つたんです。いゝ咽頭のどの妓がゐるからといふので、交際で私も行つたんですが、確かに咽頭はいゝが、おでこでネ。それが「ゴリラをやりませう」といふんでやつたが、それが私以上なんですよ。女で、凄いもんでした。それに教はつたんです。
記 者 ゴリラの産地が違ふぢやありませんか。
染團治 或いはさうかも知れない。

 (「実業の日本」昭和14年1月号 173頁)

 と、証言しており、小島貞二や朝日新聞のそれとの間に、若干齟齬が出来てしまっている。

 大体の話の流れはほとんど一緒で模倣の対象が本物のゴリラか芸妓かの違いに過ぎない事であるにもかかわらず、これだけ意見が別れるのだから不思議なものである。

 私としては後者の染団治本人が語った説のほうを取る。だが、熱心な修練と研究の末に自家薬籠中の芸にしたのは、間違いのない事実であろう。

 さらに、その見事な風貌は相方のツッコミや罵倒のいいネタの種となったそうで、その言葉だけでも相当数存在した。

 雅 子 顔の悪口は七つか八つあります。
 徳 田(註・司会) 一寸こゝで並べてみて下さい。
 雅 子(テレて)さう言はれると出ませんわ。(笑聲)迚も氣の毒で……。
 染團治 いゝさ。マヒしとるよ。(笑聲)
 照 美(註・千代田) どんなのがおありになりますの。
 染團治 おありになるといふ程のものぢやありませんよ。(笑聲)先づスポンヂ、豆絞りの手拭ーー(笑聲)。
 雅 子 それから夏蜜柑の皮、蜜豆、杓文字、シャボテン、南京豆、軽目焼の裏。(笑聲)
 松 緑 軽目焼の裏はいゝですね。甘くて穴があいてる。
 雅 子 唐モロコシの喰べ粕といふのもある。

 (前述「婦人倶楽部」昭和14年8月号 226頁)

 また、幼い頃から芸事に通じていたせいもあってか、踊りや曲芸も身についていたそうで、これらの諸芸もネタとして度々取り入れられていた。

 その中でも「ドジョウ掬い」と細長い紙を鼻の上に立てる曲芸「紙立て」は得意だった模様で、残された文章や写真などで度々目撃する。それらの芸は流石のゴリラには及ばなかったが、それでも人気ネタの一つとして認知され、場所や時間によって、臨機応変に演じていた。特に安来節は「ゴリラの安来節」という形でも演じられていたそうである。

 そんな芸を見た一人に、演芸研究家の清水一朗氏がいる。氏が見た記憶によると、

相方にさんざんやりこめられてボヤク漫才で、キリネタはその三味線と唄で安来節を操りで踊る。小さな平笊を持ち、舌をペロペロと出しながら踊るのですが、雷門助六の操り踊りとは違った鮮やかなものでした。お終いに曲が早間になると余りない髪の毛を額にたらして、ゴリラの真似になり舞台を廻り相方の膝に抱きつくので押し倒されて終ります。ゴリラは桜川ぴん助も得意にしていましたが、染團治師の方が良く似ていたと思います。

 と、いう風に舞台を勤めていたそうで、本人に直接伺った時には、「舌出し三番叟の要領で舌を出すんですね。舌をペロリと。これが愛嬌があってよかったですよ」と、自らも舌を出して再現なさってくれた。

 門 弟(目下制作中)

  直弟子

 林家 染太郎・染次郎
 林家 染松・明石 須磨子
 林家 染寿
 林家 染芳・愛子
 林家 染次・染子
 林家 染一
 林家 染好・好子
 林家 染代(最後の弟子だという)

  孫弟子(染松の弟子)

 香川染団子・染千代


 出演記録 

 (目下調査中)

 昭和11年6月22日に行われた『寄席氣分に浸つて”笑”に過ごす一夜』という番組に、芦乃家雁玉・林田十郎、河内家一春・浅田家キリン、花柳つばめ・横山円童らと肩を並べて、出演を果たしている。横山円童・花柳つばめも後年、東京の人になったのでこの資料は貴重である。

 夜八時
大阪新世界 芦辺劇場より 掛合漫才「寄席中

 初夏行進曲 小川雅子、林家染團治

二人が街に出かける、仲のよいつがひどり、女夫ぶし賑やかにやつてきたが、杉山流の水泳で腹より深いところは不都合とあつて今度は山へ
〽山は夏がれ麓は小ばれ、夏は裾野の放し駒、ひとりわびしうてオーイと呼べば、憎くや山彦聲ばかり

(「朝日新聞 朝刊」昭和11年6月12日号 7頁) 

 これ以外にも度々出ているが、目下調査中のため省略。

 

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