さがみ三太・良太

さがみ三太・良太

真打昇進時のさがみ三太・良太(右)

スリーアンバランス(斎藤正道、清水粒太、みなみ義雄)

 人 物

 さがみ 三太さんた
 ・本 名 鈴木 猛男
 ・生没年 1939年3月17日~ご健在
 ・出身地 静岡県 浜松市

 さがみ 良太りょうた
 ・本 名 鴇崎 義泉
 ・生没年 1933年6月15日~2015年5月11日
 ・出身地 群馬県 館林市

 来 歴

 「さがみ三太・良太」は、平成まで活躍した貴重な浪曲漫才を演じるコンビであった。達者な三味線とキレのあるツッコミを武器に活躍、昭和の一時期、セントルイスやツービートの対抗馬と目された事もある。

 両人共に浪曲師の出身で、浪曲の腕前は本式であった。その見事な腕前を茶化す所に面白みがあったという。

 三太の実家は『三亀松』という静岡の料亭。大叔父(祖母の兄)に伊集院太郎左衛門という浪曲師がいた。この『三亀松』の屋号については、1987年の漫才大会に掲載された室町京之介のエッセイに詳しいので引用しよう。

西も東も地続きだ、ガンバレ三大・良太  都々逸と寿司は江戶前に限ってんだろう、私ァ浜松の生れですが、今度一族で店を出すんですが、店の名を「三亀松」としたいんで是非許していただきたい。そして一生懸命勉強して日本一の歌舞伎座で独演会をやりたいと、相模大郎の愛弟子の三太が頼みに来た。俺は嬉しかったね。直く承知をして、歌舞伎へ出る時はタダで出てやるから、しっかりやんな、兄弟も女ばかりでなくコイツのケツを抱いてやってくんな」と、日本一の大芸人、柳家三亀松が言った。その三亀松も師匠の相模も、悲しい事に師匠の二代目まで今は亡い。なのにどうだ、彼の抜群のセンスと闘志と芸力は、先輩知己を今や人も集めず灯の消えた浅草に、ただ一軒父祖伝承の寄席、木馬亭に一ヶ月20日間も、しかも独力で漫才大会を開いて全芸界を驚かしたのである。そして今は日本一の雷おこしが建てたゴロゴロ会館へと発展したのである。亡き師に代って漫才協団代表参議院議員トップこと下村泰と彼を熱愛する日本で一人しかない風俗漫談の坂野比呂志と自分の事の様に喜んでくれるファン諸氏の庇護まで得ているのである。しかも故郷の浜松の「三亀松」は、遂に三亀松ビルまで建設するの成功をとげているのである。  
 愛児の成長に眼を細める八十六才の老母を想うと涙無しではいられない。私は癪に障るけど世に云う寝たきり老人だが、近く起きて三太良太を援け様と思う。

 今や笑いの世界はテレビ局だけが顧客の関西ものの世界だが、三太良太よ、仲間にも激を飛ばして 関東を昔のセンスに帰してくれ。
 今日は孫の幼稚園の運動会、私も耳の穴をカッポじいてジンタの音に泣かざなるまい。

10月10日体育の日 演芸作家 宝町 京之介

 幼い頃は比較的裕福に育てられたそうである。家が料亭で、大叔父が浪曲師であった関係から芸事が身近にあったという。

 経歴は『東西浪曲大名鑑』に詳しい。以下はその引用である。

 静岡県浜松市の料亭”三亀松”を経営する父親の7人兄妹の3男。父が 商売柄、芸事が好きだった故か猛男も子供の頃から芸事が好きだった。が、浪曲よりもむしろ落語に興味をもち、将来は噺家になろうと決心していた。6年生頃には座蒲団に座って落語を演ったり、シーツをテーブル掛け替りに浪曲を唸ったりした。
 彼が中学3年の時、父が他界した。母の父、猛男にとっては祖父に当る人が無声映画の弁士をした事のある人だったので、祖父に打明けて彼は芸の世界に進みたいと頼んだ。祖母の兄が”伊集院太郎左衛門”という看板の浪曲師だった事も、彼はこの時知らされた。祖父の口ききで、初代相模太郎の門下に彼は16歳で入門。”金時”という芸名をもらい、入門3ヶ月目に秋父劇場で初舞台を勤め「野狐三次」を読んだ。5年の年期を終って”五郎”と改名、彼は”涙”だけの浪曲にあき足らず、常に、”笑”を研究するために寄席に通った。師の太郎も関東にあっては無類のケレン読みの名手だったのも幸いした。民放が始まって 「素人天狗道場」の司会を勤めたり、太郎の倅武の付人で放送局に出入りする内に、プロデュサーに五郎の個性を認められて他の番組にも出させてもらった。昭和35年頃、浪界に不況の風が吹きまくった。世はTV時代を迎え、ニューメロディの音楽が若者を狂気させた時代だ。将来についての浪曲芸の行方に悩んでいた五郎は、司会、漫談の勉強に挑戦し始めた。

 とある。浪曲漫談に転向した背景には元来のお笑い好きと浪曲不振、師匠の息子で兄弟子の相模武(後の二代目相模太郎)のマルチな活躍も影響を受けたという。

 師匠の相模太郎は厳しく、失敗するとげんこつが飛んだというが、一方で何かと如才のない三太を可愛がっていたそうである。三太も三太で師匠を畏怖し、時には即興のとんちや機転で師匠を唸らせたという。

 長らく、師匠や師匠の倅の二代目太郎について歩いていた。その頃に覚えた浪曲やケレンの材料が、後年の武器となったという。

 しかし、浪曲不振はおさまる気配もなく、さらに1972年に師匠の太郎と死に別れてからは、浪曲会と距離を置き、お笑いの世界へと飛び込むようになった。

 間もなく師匠の所にいたさがみ良太と再会。「お笑いの世界で生きよう」と意気投合し、コンビを組んだ。

 1974年6月、ぶっつけ本番のような形で漫才コンビ「さがみ三太・良太」を結成。師匠の「相模」を拝借して、「さがみ」。師匠の十八番だった「灰神楽三太郎」から「三太」を貰い、「良雄」は相方と合わせる形で「良太」と改名。これを芸名とした。

 双方共に元浪曲師とだけあってか、三太がフシとボケ、良太が三味線とツッコミとうまく役割分担をすることが出来た。

 相方の良太は元三味線曲師。館林出身とあるが、巡業先で生まれた可能性が高い。

 両親は「松前家正之助・亀千代」と名乗った漫才師。父親は浪曲もやっていたという。但し、大日本漫才協会には所属をしていなかった。

 この正之助・亀千代は謎が多く残る不思議な存在であるが、どうも八木節出身の芸人だったらしい。1936年6月23日、堀込源太が前橋放送局から「八木節」を放送した際、鉦と合いの手の芸人として「松前家正之助」として記録されている。

 幼い頃から両親について歩き、芸を覚えた。旅芸人の子どもだったというべきだろうか。そのため、非常に多くの芸を諳んじていたと聞く。

 その経歴は『東西浪曲大名鑑』に詳しいので、引用をする。

群馬県館林の出身。父親は芸名を松前家正之助、母親は亀千代という漫才師である、父が昭和22年に他界。義泉は母とコンビを組んで見ようみまねで祭礼の舞台を勤めたという。彼が16歳の時、北海道の興行師に招かれて母と行った折に、一行の中に居た木村重成という浪曲家が、頼んでいた曲師が来ないで困っているのをみて、三味線に心得のあった義泉が、無理に頼まれて重成の曲師を勤めた。無理やりにやらされたが、ともかく20日間の巡業を、彼は漫才をやりながら、重成の浪曲三味線を弾いた。この事が、彼を浪曲の道に入らせるキッカケになった。レコードやテープを集めて、本格的に浪曲三味線を勉強しはじめた。重成はそれ以来彼の音〆を気に入り、本筋の師匠に付くべきだとすすめ、相模太郎の合三味だった、佐野とよを紹介してくれた。その後重成の言う佐野とよを文京区に訪れ、訳を話した。とよは義泉を師匠の太郎の住む日本橋に案内して、2年間の年期で入門させた。昭和30年3月、義泉が23歳の年である。やがて太郎の倅武の合三味を勤めるようになり芸名を “南良雄”と名乗った。或るときは 佐野とよと太郎の二丁三味線も勤めた。入門してから3年目に、彼は浪界幕内のムジュンに耐えられず、考えた末に暇をとって相模の許を去った。再び漫才の道に戻って友だちとコンビを組んだり、コントの芸を勉強している時に、浅草演芸ホールで、 これも浪曲の将来に悩んで相模の所を辞めた兄弟子の五郎と会った。

 幼い頃から親について旅回りをし、芸事を仕込まれる。

 1947年に正之助がメチルアルコールの摂取により急逝。急遽母親の相方としてコンビを組み、14歳で初舞台を踏む。「そばで見ていたから、親父のネタは全部知っていた」と、『「東京漫才」列伝』にある。その後しばらく、母子漫才で巡業などをしていたが、母親が一線を退いた為コンビ解消。

 東京にいた姉の元に居候をして俳優学校へ通っていたが、幼い頃から三味線の心得があった事もあって、浪曲の三味線を会得し、曲師となった。

 早くから曲師だった関係もあり、相模太郎からは厚遇を持って迎え入れられたという。三太に言わせると「こっちは使い走りで給金は小遣い程度のものだったけど、あっち(良太)は一人前の給料をとって、一人前の待遇を受けていた」。

 1958年、相模の下を去り、コメディアンに転向。相模の亭号を返上して、「みなみ良雄」と改名した。

 同年、売れっ子の女流浪曲師、東家三楽嬢と結婚、間もなく子供が生まれている。

 コメディアンにならんと、東洋興行に近づき、東洋劇場などのストリップ小屋や演芸場などに出演するようになる。

 この頃の修行時代は情報が錯綜しており、コントグループや劇場を出入りしていた模様か。

 1963年にできたじん弘とスリーポインツに参加して、キャバレーまわりのを手掛けたこともある。この時、一緒になって入ってきたのが萩本欽一であった。

 萩本欽一脱会後も暫く在籍したが、まもなく独立し、斎藤正道、清水粒太(清水武男)と共にスリーアンバランスを結成。リーダーとなって、松竹演芸場や『大正テレビ寄席』などにも出演するようになる。

この頃の舞台に接し、台本を提供したこともある故・遠藤佳三氏によると、「それぞれの味があって面白かったですし、良太さんのね、三味線がまた効果を引き立てて、コントグループとしては、決して悪いものではなかったですよ」。

 上の写真は遠藤氏から直々に頂いた写真である。遺品となってしまった。

 その後も演芸場やキャバレーまわりなどでコントブームの凋落やグループ内の内紛などに悩まされるようになった。

 1970年代には「コント・コンビネーション」というコントグループを組んでいた。このコントに感動して、弟子入りを乞うた兄弟が今の「酒井くにお・とおる」である。後年、二人は大阪へ移籍するが、生涯良太を師匠として尊敬していたという。

 1974年にコンビを結成し、「さがみ三太・良太」となる。

 音楽漫才が既に凋落をはじめている中で、あえて浪曲漫才に挑戦。そのチグハグな感覚と、二人の愛嬌がたちまち評判となり、東京漫才のホープとして迎え入れられた。

 1976年3月、第24回NHK漫才コンクールに初出場。『浪曲七変化』を披露。この時の同期はツービートであった。

 翌年の第25回コンクールを『夢はデッカク』で出場したが、これは振るわなかった。

 1978年、この年もツービートと共に漫才コンクールに出場し、『三太・良太の一年生』を披露したが、こちらも準優勝で終わった。

 この結果に不満を持った二組は今回を限りに出場を取り止めている。

 1976年、フジ放送演芸大賞最優秀ホープ賞を受賞している。この時、ホープ賞に選ばれたのはツービートであった。

 堅実的な人気を集め、浅草や寄席で活躍をしたが、セントルイスやツービートに比べると漫才ブームに乗り切れず、地味な印象を残してしまった。

 遠藤佳三は『東京漫才うらばな史』の中で、

ツービートはその後も過激路線をひた走りに走って、若い層を中心にファンを増やし、一方、三太・良太は浪曲を過剰なまでに前面に出し、年配層の支持を固めた反面、若い層を手放さざるを得なかった。

 と、このコンビの表と裏を鋭く分析して見せている。

 一方、漫才ブーム終焉と共にコンビ解消や漫才を捨てた同期勢と比べると、堅実で息の長い漫才コンビ振りは信頼と実績を集める事となった。こうした地盤の強さが最大の強みだったといえよう。

 1985年より、ゴロゴロ会館を拠点に漫才の勉強と公演を目的とした「ザ・演芸」を開催するようになる。

 公演当初は赤字続きで家を抵当に入れるほどの覚悟を決めたが、相方の良太や家族、仲間たちの支援もあって、徐々にお客が入るようになり、出演者も増えた。

 後年、相方や仲間と共に全国津々浦々に出張する「ザ・演芸キャラバン」を結成している。ここから巣立った若手芸人も多い。また、この功績が吉本の林正之助に認められ、吉本の劇場に呼ばれたこともあった。

 1987年11月21日に開催された「第18回漫才大会」で真打披露が行われ、漫才協団の幹部に昇進。以下はリーガル天才によって記された激励の言葉と略歴である。

おめでとう!三太・良太さん リーガル天才記

 たいしたものだ!格式をいまだに重んじる気風のある浪曲界から、自由奔放の漫才界へ転んじて、当初は相当に面喰ったであろうお二人が、いつの間にか漫才の空気にも馴れ、いつの間にか漫才界に新しい風を吹き込んで異色のムードある舞台をつくってしまった。
 お客様は、機関銃のような若手のおしゃべりのあと、三太・良太君の舞台がかもす雰囲気でホットするらしい、浪曲への郷愁と毒のない静かな語り口、これがお客様には、こゝち良いのでしょう。
 三太は静岡県浜松市の出身で昭和三十一年に相模太郎師に入門、浪曲修業に入る。
 良太は群馬県館林市の出身で昭和三十二年相模太郎師に入門、三味線修業に入る。
 二人は文字通り兄弟弟子の間柄で同じ道を目指し同じ夢を抱きつゝも、どこかでお笑いへの転向の意志もバッチリ合致していたのだろう。
 流れを素早くキャッチしての転向であった、それだけに、キャリアの裏付はあるにせよ、まことに上達は早かった。昭和五十一年に演芸大賞・最優秀ホープ賞を受賞し、ぐん/\頭角を現わした。
若手の為の発表の場作りにも殊の外熱心に努力している。幹部昇進は一段と飛躍のステップとなり「人情味のある、大人の笑いと涙をも誘う」独自の舞台作りを目標にすると語っている二人に、乞う応援、乞う御期待をお願いいたします。

 真打昇進後も、漫才大会や放送をベースに堅実な活躍を続けていた。

 1990年代に入ってからは貴重な浪曲漫才として、テレビやラジオに度々出演していたが、2003年、「これからは好きな事をやろう」と両者の意見が合致し、円満解散。

 三太は古巣の浪曲漫談や司会に戻り、マイペースな路線で活動することとなった。一時期、静岡に引越したこともあったが間もなく戻ってきている。

 また、1990年代後半より、日本演芸家連合の幹事などにも就任し、同業者同士の交友を促すなどの功績もあった。

 三太は老齢のため、一線を退いているが、引退したわけではない。今もご健在である。

 良太は浪曲に復帰した妻、東家三楽嬢の曲師として活躍。

 また、2003年頃より、娘のいずみとコンビを結成。東洋館などの劇場への出演の傍ら、喜劇「浅草21世紀」にも参加。老熟した演技を見せて、存在を示していた。

 2013年ころまで舞台に出演していたが、老齢の為に一線を退く。それから間もなくして、2015年7月に死去。それと前後して妻の三楽嬢も亡くなった。

 その死は弟子の酒井とおるのブログによって公表された――が、最近ブログが閉鎖されてしまった。

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