晴乃ピーチク・パーチク

晴乃ピーチク・パーチク

ピーチク・パーチク(右)

 人 物

 人 物

 晴乃はるの ピーチク
 ・本 名 直井 利博
 ・生没年 
1925年9月28日~2007年10月23日
 ・出身地 東京 北千住

 晴乃はるの パーチク
 ・本 名 手塚 清三
 ・生没年 1926年10月26日~2000年9月8日
 ・出身地 山形県

 来 歴

 戦後活躍し、一世を風靡した「ピーチク・パーチク」張本人。東京漫才のスターと謳われた「チック・タック」の師匠でもある。若いころは、直井オサム・大沢ミツルという芸名で活躍していたのは知られざる話である。

ピーチクの遍歴

 ピーチクの経歴は、富澤慶秀『東京漫才列伝』に詳しい。以下はその聞き書きをまとめたもの。

 栃木県出身――という資料があるが、これは父親の出身地で、ピーチク本人は東京出身。父親は栃木の農家の末っ子であったが、志ありて上京。苦学の末に区役所職員になった、身持ちの堅い人物であった。

 10歳の時に母親と死に別れ、大きなショックを受ける。このことは、直井少年に大きな心の傷となり、長らく孤独の影を落とす事となる。

 実母と死別後、父は後妻をもらったが、直井少年はこの後妻との折り合いがつかず、浅草の劇場や映画館へ入り浸るようになる。

 浅草の華々しい芸能や漫才、映画の世界に夢中になるうちに、芸能界への憧れを抱くようになるが、厳しい父親の目を気にしていたという。

 戦時中、勤労動員に駆り出され航空機製作会社に回され、旋盤工の手伝いとなる。この会社で日本画家や学者たちと交友し、大きな糧となった。

 両親は一足先に栃木へ疎開しており、親との確執と距離を置くようになれたのも、心の自由を得られた一因であろう。

 1945年8月、召集令状が届き、香取海軍航空隊へ出向くように命じられる。荷物を整え、入隊先に向かった刹那――8月15日を迎え、これという事をすることなく、終戦を迎えてしまう。

 軍隊解散後、両親のいる栃木の家に転がり込み、父と共に農業をはじめる。父親は栃木の疎開先で農地を借りており、そこで野菜や米を作り、食いつないでいたという。

 それからしばらくして、帰京を志すようになる。父には身持ちの堅い税務署員を嘱望されていたが、芸人の夢断ち難く、1948年、芸能界入り。親にはずいぶんと反対されたという。

 ただ、根強い願望に加え、敗戦のショックや時代の変遷もあり、父親も遂に折れて役人嘱望も遂に言われなくなったという。

 伝手を求めて、生まれ故郷である北千住の劇場を訪ねたところ、勤労動員で一緒だった同僚と再会。同僚はアコーディオン奏者になっていたそうで、この人の紹介で地方まわりの一座に入団。その後、「旗八郎とスバル楽団」という一座に司会漫談として入団、東北を巡業。

 1949年、踊り子として一座に入ってきた清枝という女性と出会い、仲睦まじい関係に発展。この人が後年の妻となった。

 1952年秋、東京に戻り、清枝と結婚。後年、二児を授かっている。

 この頃、漫才に転向し、「直井オサム」と名乗る。手塚清三パーチク)と組む前は小宮凡人と漫才をやっており、柵木眞『私のネタ帳パート2』の付録である名簿の中に、「直井オサム・小宮凡人」とある。但し、このコンビは本当に短期間の、インスタントコンビだった模様である。

 1953年6月、劇団時代の仲間である手塚清三とコンビを組み、「直井オサム・大沢ミツル」を結成。直井オサムが、ピーチクであるのは言うまでもない。

パーチクの遍歴

 最晩年まで活躍したピーチクと違い、資料も少なくわからない点がある。『文化人名録』などを読むと、「昭5・10・26」と書いてある。これは年齢詐称であろう。『芸能画報』(1959年1月号)掲載のプロフィールに、

ミツル ①手塚清三 ②大正15年10月26日 ③山形県 ④演芸畑を遍歴後、昭和28年漫才に転向、現在に至る。

 とある。ココではこれに従った。

 出身は山形。生涯、山形弁が抜ける事はなく、標準語とも山形弁ともつかない不思議な口調が特長的であった。

 幼少期の動向は謎が多いが、真山恵介『寄席がき話』によると、実家は農家だったそうである。

 戦後まもなくコメディアンとなり、森川信の一座で修行を始める。玉川一郎『よみうり演芸館』(『読売新聞夕刊』3月1日号)に、

 ミツル自身も森川信の一座にいた事があるから漫才界に多い軽演劇出身派だ。

 とある。

 また、ドサ回りをやっていた一時期、歌手もやっていたそうで、『週刊平凡』(1973年2月1日号)に、

娘にはないしょですが、私も漫才師になるまえは、沢清の芸名でうたっていたんですよ……

 と、語っている。

 1953年6月、ドサ回りで一緒だった直井利博とコンビを組み、「大沢ミツル」と名乗る。直井と出会った劇団というのは、「旗八郎とスバル楽団」だろうか。また、『アサヒ芸能新聞』(1954年5月3週号)の中に、「昨年6月、司会者同士がコンビを組んだ」というようなことが書いてあったりする。

コンビ結成から解散まで

 スタートこそ遅かったものの、喜劇出身という前歴に加え、千太・万吉、トップ・ライトといった先人たちの辿った道を行く東京漫才の王道コンビとして売り出す。

 都会的センス溢れるネタと「行ったかや」「聞いたかや」という造語でケムを巻く漫才で人気を集め、放送などにも出演するようになる。

 早くから人気を集めた反面、パーチクの訛りは早くから悩みの種だった模様で、松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月4週号)の中でも、

大沢ミツル・直井オサム

立体。両人共司会者出身。コンビを結成して漫才をはじめたのはこの間のこと。ミツルにちょっと甲州辺りのナマリが残るのは残念。トップライトに万事引き回してもらっているそうだから将来を楽しめる。最近新進の男性立体が次々と発生してケンを競っているのは重々。

 と批評されている。

 1955年、漫才研究会発足に伴い、入会。初期メンバーとして名を連ねた。この頃、その実力と人気を買われて、ビクターの専属となったほか、同年、日刊スポーツ新人賞を受賞している。

  1959年10月、第6回NHK漫才コンクールに出場し、『物言えば唇寒し』で、優勝。以来、東京漫才の新鋭として歌謡ショーを中心に活躍。『大正テレビ寄席』など、テレビ番組などにも出演をした。

 明るく、嫌みのない漫才として人気を集めたものの、達者なピーチクに比べ、パーチクの朴訥さがどうしても目立つ舞台になりがちであった。そこが魅力といえば魅力だったところもあるようだが、柳家金語楼の倅で「大正テレビ寄席」のプロヂューサーをやっていた山下武は『大正テレビ寄席の芸人たち』の中で、

 達者なピーチクはいいとして、相棒のパーチクがいかに見劣りすることは一目瞭然。このため、ピーチク一人が奮闘すればするほど空回りに終わった、ほとんど片肺飛行の感すらあったものだ。ピーチクは何かというとオカマ染みたしぐさが得意。洋服のエリを抜いて、中腰のモンキー歩きで爆笑を呼んだだけに、パーチクの無芸・無能が目立って仕方がなかった。これほど漫才に向かなかった人も珍しいのでは……。

 と、ボロカスこき下ろしている。然し、この山下氏は、自分の主観と好き嫌いが凄まじく激しいので、苦手と思ったものは必要以上に攻撃する癖があったことを差し引かなければならない。

 今残っている音源を聞くと、少し訛りこそあるものの、達者なピーチクをうまく引き立てる相手役として相応に立ち回っており、ここまでひどいものではない。

 1960年、「オサム・ミツル」から「晴乃ピーチク・パーチク」と改名。玉川一郎『よみうり演芸館』(『読売新聞夕刊』3月1日号)の取材で、

 直井オサム・大沢ミツルでチャンと売ってたものをなぜ買えたのかとキツモンに及ぶと、この時、オサムは少しもサワガズ、
若い世代にアッピールすべきだと思いまして」という。
「若い世代がピーチク・パーチクがいいというの?」
「若いというよりオサナイというべきでしょうね。小学校へあがる前の小さな子でもピーチク・パーチクといえば、こうなんとなくサエズっている楽しいトリみたいに感じるじゃないかと思いまして、ハイ。オサム・ミツルの漫才を、じゃア、小さなお子さんのアタマに残らない。つまり、大きくなってお金を払って、見に来たり聞きに来たりして下さらない。遠い将来のお客様に対するPRなんです。聞いたかや?」

 とある。

 1963年5月12日、橋幸夫ショーの司会として金沢観光会館出演中、暴漢に襲われる事件(橋幸夫傷害事件)に遭遇。

 橋を庇おうとして、右後頭部を切りつけられ、パーチクは全治10日の傷を負った。新鋭スターの傷害事件は大見出しで報道され、パーチクも被害者として名前が出た。

 以下は『読売新聞』(5月13日号)に掲載された記事の引用。住所も掲載されているが、こちらは省いた。

 【金沢発】12日午後9時10分ごろ金沢市本多町、市観光会館で開かれていた”橋幸夫ショー”フィナーレに出演していた歌手橋幸夫さん(20)(本名橋幸男さん)が観客席から軍刀を振りかざしてステージにかけ上がった男に襲われ、両手と肩に切りつけられた。男は司会の青空パーチク(36)(本名手塚清三さん)にも切りつけ、二人は同市西側町石野外科医院に収容されたが橋が2週間、青空も右後頭部に10日の傷を負った。

 ここでは何故か「青空パーチク」となっている。これは誤記であろう。

火宅の人、ピーチク

 長らく司会漫才、東京漫才のスターとして、第一線で活躍を続けていたが、後述するピーチクの浮気やコンビの不振のため、振るわなくなり、1971年5月、コンビを解消してしまった。

 このコンビ解消は非常に紛らわしい記載が多く、「1973年解散」と記されている資料もある。

 然し、『週刊平凡』(1973年2月1日号)に「晴乃は46年5月に現役を退き」とあること、1971年9月にピーチクが弟子の晴乃チックとコンビを組んでいる事から、「1971年解散」が正しいようである。

 この解散の一因になったのが、ピーチクの不倫であったというのだから、元祖火宅の人である。その経緯にはどうしても様々な憶測や悪口が絡みつくため、どれが本当なのかわからないのが現状である。

 ここは暴露サイトでもないし、そういうことは興味がないので、余計な記載と詮索は避けるが、大体の経緯を記すと――

 1952年秋、東京に戻り、清枝と結婚。長男と長女を授かる。

 1964年9月、バーのホステスと仲良くなり、妻がいるにもかかわらず、恋愛関係に発展。

 1965年夏、妻にその不倫関係が露見。当然、妻は激怒し、愛人がそれを庇う形で対立が出現。ピーチクは妻子の待つ本宅に戻らず、愛人宅を出入りする日々が続く。

 1965年以降、幾度となく解決方法を模索したが、妻と愛人の関係が悪化し、復縁の可能性が難しくなる。

 このころから、ピーチクの特異な女性遍歴や妻と愛人の対立を週刊誌やワイドショーがすっぱ抜き、面白おかしく書き立てるようになる。

 この騒動により、ピーチクは大きく名を汚すこととなり、漫才や司会の仕事も減少。家庭事情に踊らされ、漫才や仕事に熱を入れることができなくなってしまう。

 1971年に協議離婚成立。愛人宅に転がり込むものの、1972年3月、愛人にも去られ、すべてを失う事となった。『ヤングレディ』(1972年7月31日号)に掲載されたスキャンダル記事には、

 最初の妻と別れ、年下の愛人に去られ、コンビも解消した晴乃ピーチク、四十七歳。

 と書きたてられている。

 全てを失ったピーチクは、やはり2年前(1969年)に別れた弟子の晴乃チックとコンビを組んで、「晴乃ピーチク・チック」を結成。森繁久彌劇団の脇役やテレビコメディの仕出しなどをする傍ら、漫才を続投していたが、こちらも長く続かず、1973年頃、コンビを解消している。

 以来、ピーチクは5年近くスランプに陥り、忘れ去られたタレントとして辛酸を嘗め尽くす事となる。

 一方、パーチクは、コンビ解消後は芸能界を引退し、「S・Tプロダクション」を設立。その社長として第二の人生を歩み始める。

 経営は順調だったらしく、10年以上経った、1986年に行われたNHK漫才コンクール内の企画「NHK漫才コンクール優勝コンビ」に出演した青空千夜一夜の解説でも、「現在はプロダクションのような事をやっているようです」と語られている。

 1972年、一人娘の満恵が歌手デビューを宣言し、ちょっとした話題になった。関係者の話によると、その人柄は真面目で、引退後は堅実な生活を送っていたと聞く。

絵描きになったピーチク

 不倫騒動でバッシングを受け、仕事も給料も激減したピーチク。不遇をかこっていた中で好きな絵画、制作に没頭するようになる。

 初めは新聞紙に真っ直ぐな線を引く初歩的な練習から手を付け、次いで有名人や映画スターのなぞり書き、模写、色塗りと3年の間似顔絵の勉強に没頭した。

 また、酒場などで似顔絵を書く商売などして、絵心と度胸を付けた。

 1976年ころより、「似顔絵漫談」で本格的にカムバック。当初は似顔絵にまごついたり、おしゃべりが続かなかったりと、苦労を重ねたが、見事に克服し、独特の話術を形成する。

 1979年4月、東宝名人会の企画で玉川スミと即席漫才を結成。歌って踊る達者な漫才で観客の喝采を得た。

 1980年ころ、何故か名前を直井おさむに戻している様子が『日本演芸家連合名簿 1980年度』より確認できる。しかし、この改名はすぐに取りやめとなった。理由はわからない。

 以降は晴乃ピーチク名義で似顔絵漫談を続投。松竹演芸場を拠点とした他、国立演芸場開場時に知り合った桂米丸に引き立てられ、落語会などにも出演するようになる。

 また、喜劇役者の経歴を生かして、松竹演芸場の舞台で喜劇公演を行った事がある。

 1987年7月上席より、落語芸術協会の準会員となり、寄席に出演するようになる。それからしばらくして正会員に昇格している。

 モデルの要点を見事に押さえた似顔絵やイラストと、当意即妙な話芸は、仲間からも好評だったそうで、

晴乃ピーチクの似顔絵漫談は圓歌から「牧野周一を超えるのでは」、談志からは「天才」の折紙付。

 と『国立劇場演芸場』(1989年4月号)の中で紹介されている。口の悪い圓歌・談志に褒められたのならば、本物であろう。

 1990年、貯めた百万円で独演会「色物にて候」を開催。卓抜した似顔絵漫談と円熟した話芸が評価され、第45回芸術祭賞を受賞している。

 1992年、画家、山川美代の絵画教室へ通うようになり、油絵を会得。

 1998年、二科展に初入賞して以来、4年続けて入選。画家としても認められ、東京かわら版や『国立劇場演芸場』などのカットを担当。

 80過ぎた後も矍鑠と寄席や落語会に出演し、似顔絵漫談を披露し続けていたが、2007年、体調を崩し、9月10日、肺癌のため入院。

 同年10月6日、病院の許可を貰い、府中で行われた演芸会に出演。これが最後の舞台となった。その2週間後、10月23日、肺癌のため、死去。

 10月27日、葬儀が行われ、棺の中に画材が納められた。出囃子であった「雀の学校」に見送られ、あの世へ旅立った。

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