世志凡太とザ・モンスターズ

世志凡太とザ・モンスターズ(左端・世志凡太)
人 物
人 物
世志 凡太
・本 名 市橋 健司
・生没年 1934年1月4日~2025年11月18日
・出身地 東京 豊島区
来 歴
世志凡太とザ・モンスターズは1960年代に活躍したコミックバンドの一組。一時はザ・ドリフターズやクレイジーキャッツに並ぶ人気があった。筆者は世志凡太に世話になったため、その供養としてこの項を記す。
世志凡太の経歴は田崎健太氏の『全身芸人』に詳しい。さらにネットなどにも転がっているので気になる人はそちらを見ていただければ。
実家は呉服屋であったという。
戦時中は栃木県に疎開。当人からは「何度も爆撃機に追われて田んぼの泥の中に飛び込んだこともある」とかいう悲惨な話を伺ったことがある。
戦後、東京に戻るものの実家は焼けており、洋服屋稼業も一からのスタートとなった。当人から断片的に聞いた話では――
「売るものがないから焼け跡から使えそうなものを拾ってきたり、焼跡の炭で火を起こして配給のまずい品をやりくりしてなんとかここまで生きてきたものです」
近所の青年がジャズマンだったこともあり、ジャズの基礎を覚え「子供がいた方が米軍の待遇がいい」と10代にして米軍キャンプに出入りしていた。この中でベースを会得したという。進駐軍慰問の噺ではこんな所を思い出す。
「進駐軍相手のジャズ演奏はいい金になりました。それよりも食料が得られるのがデカかった。パンにチーズ、コーラにチョコ。今では普通のそれですが、当時は芋の葉を食っていた中で、これが出てくるんですから、そりゃもう無我夢中でした」
「僕はまだあどけない少年だったこともあってか、米兵はボーイボーイって可愛がってくれましたよ。特に子がいる米兵なんかは優しかった。後、黒人兵も優しかったですね。自分たちが差別されているから、敗戦国の日本人に同情するところがあったんじゃないかと。一番イヤったらしいのは日系人でしたね。同じ顔つきをしているのに『俺らはお前らとは違う』みたいな態度をとってくる。当時は本当に嫌な気分でしたねえ」
「ジャズマンたちは米軍から食料をこっそり持ち出すんです。でも普通に持って帰ると怒られる。じゃあどうするかというと楽器ケースやドラムの皮を抜いて、その中に入れるんです。今では楽器を汚しているとか怒られそうですけど、当時はそんな気にしている暇はなかった。その持ち帰った飯が命の綱なんですから。」
その後は小石川工業学校に入って建築家を志したが、ジャズが好きで、ベースを会得。進駐軍慰問やキャバレーまわりのジャズバンドで腕を磨いた。
1957年、原信夫のバンドの専属司会者としてデビュー。
「一仕事5万円と聞いて喜んで飛び込みましたよ。当時の月給はおろか、年収にも匹敵するような額でしたから」と当人から伺った。
そこから司会者で笑の腕を磨き、司会漫談や歌謡ショーに出ていた玉川良一や三木のり平などに勧められ、コメディに進出。
その後は、テレビ黎明期のスターとして活躍。喜劇役者としても大成した。吉本新喜劇の黎明期に参加したこともある。
玉川良一とは仲が良く、「玉川さんが漫才辞めてピンになって以降はよくつるみましたね。ネタを色々提供しましたよ。あの頃はギャグにお金を払う時代でしたからね、僕はネタを売って金を稼いでいたことがあります」とかなんとかうかがったことがある。
1960年代、キャバレーのバンド需要やクレイジーキャッツ、ドリフターズなどのコミックバンド人気に便乗して、自身もコミックバンド結成を考えるようになった。
1966年秋、「世志凡太とザ・モンスターズ」を結成。
ベースの世志凡太をリーダーに、トン・齋藤(ピアノ)、酒井ヤスオ(ドラム)、パール・伊勢(ギター)、大谷淳(珍楽器演奏)で結成された。
筆者が当人から伺った話では「コメディの仕事も一段落したのと、当時コミックバンドが流星のただ中にあって、いいビジネスチャンスになると思ったから。僕自身、ベース弾けるし、バンドマンとも仲良かったから、チームを組むのも苦ではなかったです」といった感じの経緯であったという。
大谷淳のみコメディアン上りであり、コメディのよしみで引き抜いたという。
人気者のお笑い参入ということもあり、当時の雑誌でも話題となった。『週刊平凡』(1966年11月10日号)に――
クレイジー・キャッツのむこうを張って、世志凡太が
「ほんじゃまあ、こっちは怪物でいくか」
とつくったのが、コミックバンドの”ザ・モンスターズ”。
怪物と名乗るだけあって、使用する楽器も、西洋便器に弦を張ったバンジョーならぬベンジョーをはじめ、台所用品一式をあつめたドラム。棒にビールやラムネ、一升ビンからシビンまでぶらさげたビブラホンならぬビンブラホン。タライでつくったベース、スコップのギターなどあやしげなものばかり。
「ヘソが茶をわかすほどおもしろい音楽をおきかせしますヨ」
とは、リーダーの世志凡太からのごあいさつ。
洋風便器に弦を張って弾きまくる「ベンジョー」やスキー板に弦を張り、ベースのように引く珍芸、家財道具を打ち鳴らす珍芸などを十八番にした。
『週刊明星臨時増刊』(1967年6月29日号)に詳しい芸風が出ている。
奇抜なアイデアという点では世志凡太とザ・モンスターズが抜群だ。人間ばかりか、一式12~13万円でできたという珍妙な楽器が、抱腹絶倒のシロモノ。2年ほど前、凡太とその仲間たちがバカッ話をしてるうちに、「とてつもないコミック・バンドを作ろうじゃないか」という意見がまとまった。
苦心惨憺のあげく旗上げした編成を紹介すると、まず凡太のビンブラフォン。1升ビン、ジョニ赤のビンなど7本をリボンでぶら下げ、これをシロホンみたいに叩くときれいなドレミファが出る。次がトン斎藤のラーメン屋台型ピアノ、 胸には車輪をつけ、横に引き手がついて移動自由。「普通のピアノは、1音に3本弦がついてるが、これを2本にしてハンマーに金属板を張った。可愛らしくて高い音が出るオリジナル製品で、ちゃんと1鍵ある」お値段6万円の苦心作だ。
パール伊勢の奏でるベン・ ジョーは、けだし逸品中の逸品。西洋便器の枠にハープの弦を張り、これをやさしく頬に押し当てて弾く。 どこのトイレでかっぱらってきた? 「ふざけちゃいけない、思いついたのはホテルのトイレだったが、まぎれもない新品だ。苦労したのは最近これがほとんどプラスチック製になってたこと。木のヤツでないと音が出ないので、八方探し回ったあげく、やっと深川くんだりで見つけた」という。
酒井ヤスオのドラムは、食堂用ワゴンに鍋、金ダライ、バケツなどを並べたものだが、金属板の厚味が平均してないと、ドン・バン、バシャン! といい音が出ない。また大谷淳のベースはスキーの上下に弦を張って作った。とにかくこの珍編成で、『おおスザンナ』『クンパルシータ』から『バラが咲いた』『夢は夜ひらく』まで、一応何でもこなすから大したもの。
ゲテモンというなかれ、メンバー全員がジャズマンの出身だから、奇抜なアイデアと正確な音階をどう結びつけるかで涙ぐましいばかりの研究をした。勝負はこれからである。
さらにアメリカの囚人服を参考にして、白とグレーの横縞のワンピースにハイソックスというユニフォームで高座に上がり、出てくるだけで客は沸いたという。
この辺の話を前に伺った際には――
「僕はずっとテレビや舞台で生きていたから『人気を得るにはアイディアが必要だ!』と思いましてね。なんでもアイディアをまとめては突っ走ったわけです。ある意味では著作権や持ちネタなんて観念の薄い、なんでもありの時代だったから許されたんでしょうね。僕だってよそ様のアイディアを拝借したことあるし、僕がやっていたネタを他人に取られたこともありますよ」。
1967年6月には正力亨オーナーに頼まれ、巨人戦の余興でコミックバンドを演奏するなど人気は絶大であった。
さらに同年9月3日には立川談志の推挙を得て、『笑点』にも出演。また、人気を買われる形で日劇などにも出演している。
1967年末、東京ぼん太主演の喜劇映画『ニューヨーク帰りの田舎ッペ』に出演。これが数少ないチームでの活躍を見られる作品だろう。
人気コミックグループの一組として数えられたが、世志凡太が興行師転身を考えたことやチーム内の意見の食い違いもあり、1969年頃にグループを解散。
世志凡太は一度芸能界から距離を置き、株式会社市橋プロモーションの社長に就任。弟子であったせんだみつおや上京してきたばかりのフィンガー5などを育て上げ、一躍名プロデューサーとしてうたわれた。
さらに、浅香光代と事実婚をして長らく仲良く暮らしていた。浅草にビルを持ち、浅香ビルとして経営をしていたのが懐かしい。
残りのメンバーは音楽界に戻ったが大谷淳のみコメディの世界に残り、老練な脇役として活動を続けた。
メンバーの一人は2010年代まで生きていたらしく、「たまに連絡くれます」と世志凡太当人から伺ったことがあるが、今はどうなっているやら。

