林家染松・明石須磨子

林家染松・明石須磨子

林家染松一行

 人 物

 林家はやしや 染松そめまつ
 ・本 名 鈴木 六
 ・生没年 ??~1980年代?
 ・出身地 関西?

 明石あかし 須磨子すまこ
 ・本 名 石川 きく
 ・生没年 1900年11月5日~1977年
 ・出身地 東京

 来 歴

 明石須磨子・林家染松名義での出演や話が残っているが、染松が組んだのは別人のスマ子であったことが判明した。

 ここでは浅草オペラで活躍していた明石須磨子を取り上げる。曰く、染松と組んだかもしれないが、違う可能性もある、という事である。

 但し、須磨子自体は夫の藤村梧朗と漫才をやっていた経験があるので、まったく関係がない、というわけではない。

 染松の前歴はよく判っていないが、林家染団治の弟子。

 キャリアは長かったと見えて、昭和ひと桁台には早くも喜楽松男・林家染松のコンビで「乙女の身投げ」(ツルレコード)、「数へ歌」(シスター)に吹き込みを行っている。

 この頃は関西にいたようであるが、後年東京の林家染団治の門下に参じた模様か。漫才では師匠譲りのゴリラの物真似を得意としたそうで、波多野栄一『寄席と色物』に、

染松・須磨子 染団治の弟子でやはりゴリラが売物だった

 という記載がある。

 明石須磨子は浅草オペラのスターであり、美貌の女優として謳われた人物。国立図書館所蔵の『日本歌劇俳優写真名鑑』に詳しい。

 渡邊裁縫学校卒業後、旭少女歌劇団に入団し、日本館で初舞台を踏む。

 同劇団幹部の鈴木康義に将来を嘱望されたが、思う所あって浅草の根岸歌劇団に入団し、所謂浅草オペラの人気女優として君臨する。20歳前後で、同じく浅草オペラの人気者であった藤村梧朗と結婚、1921年には長男が誕生している。

 その後、休養を挟みながらも夫の藤村悟朗と共に行動していたが、1935年頃、漫才に転向。

 染松と組んだ理由は依然としてハッキリとしておらず、組んでいない可能性も無きにしも非ずであるが、藤村の病気療養なども事情があったようである。

 それでも、なぜ染松と組んだのか(という可能性があるのか)までは判らない。

 ただ、このような記事は残っているので、参照として引用する。『都新聞』(1935年6月26日号)より引用。

オペラから漫才へ轉向五人組
名も五彩會として誕生

藤村梧朗が、今を盛る漫才屋になつて、明石須磨子と共に義太夫座の舞臺に現れたと思つたら、これに続いてオペラ華かなりし頃を懐しむスターの中から漫才に轉向(といふよりか)する者続出、近く一團となつて華々しくデビユウする顔触れをあげると、木村時子、高井ルビー、丸山夢路、牧勝也等で、これに本職畑よりも一二枚加へて五組を編成即ち藤村、明石の組の他は、牧にバージニヤ、高井と丸山、木村にトミーといふ工合で、清水の組は目下交渉中だが、これに纏まらなかつた時は富士蓉子、日出子の組が入るかも知れない、かくて團體名を五彩會と名づけて第一回公演は来月初旬、帝国ホテル演藝場か市政講堂で行ふ……

 1938年には染団子・染千代が入門する。二人の経歴は、また別稿に記載する。この時の相方は、「須磨子」という別人であったと染団子氏より聞いた。

 明石須磨子は1942年に皇軍慰問を最後に、「病気」を理由に引退。染松は林家須磨子という相方に変え、漫才を続投。チラシなどでは、染松・須磨子とあるので非常にややこしかったりする。

 明石須磨子を名乗った人物は、染松の妻であるという。本名・豊島スマ。そこから「須磨子」を名乗ったらしいが、凄まじい胆が据わっている。

 芸界から一線を退いた須磨子は夫・藤村と仲良く暮らしていたが、1955年1月18日に夫・藤村が都電に轢かれ、急死する不幸に見舞われた。今でも御徒町公園に慰霊碑が残っている。以降は子供たちと菩提を弔う日々を過ごした。

 一方、染松は戦後一時期まで「林家染松一行」を率いて漫才を続けていたが、後年に一線を退き、興行の方へと移ったという。

 それでも芸界との関係を持ち続け、最晩年の1977年から1980年代まで京成高砂にあった「極楽寺」の芸能塚担当理事を勤めていた。

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