桂三五郎・河内家芳江

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桂三五郎・河内家芳江

 

右・芳江 左・三五郎

 人 物

桂 三五郎かつら さんごろう

・本 名 大村眞太郎
・生没年 ??~1960年代?
・出身地 ??

河内家 芳江かわちや よしえ

・本 名 大村 ヨシヱ
・生没年 ??~1960年代?
・出身地 ??

 来 歴

 このコンビもわからないことが多いが、戦前・戦後の一時期、落語芸術協会にいたので、本名は判明している。桂三五郎は本名を「大村眞太郎」といい、芳江は「大村ヨシエ」という。姓が一致しているので夫婦でコンビであろう。

 桂三五郎の方は名前の感じから噺家出身だと推測する。ちなみに桂三五郎という噺家は明治時代に存在したので(月亭春松「落語系図」より)、もし噺家上がりならば二代目桂三五郎ということになる。

 河内家芳江は本名の芳江から芸名をつけたのか、はたまた、当時の一大勢力であった河内家芳春という漫才師の関係者か、その辺ははっきりとしていないが、多分後者の筋だと思われる。

 河内家は上方漫才の元祖である玉子家円辰から独立した一派で、この一門から河内家鶴春、一春、ミスワカナといった優秀な漫才師たちが輩出された。

 当初、河内家芳江は同門であった河内家鶴春と組んでいた。岡田則夫氏の『続・蒐集奇談』を覗くと、河内家鶴春・芳江のコンビで吹き込みをやっている。曰く、

河内家鶴春は初代河内家芳春(※「笑魂系図」によると、玉子家円辰門下  大正十二年三十七歳の若さで死去)の門弟。レコードは少なく、ショウワレコード、「滑稽数え唄」「新旧問答・金問答」の2枚が判明している。わざとらしさがまったくない渋い芸で、私はこの人は名人クラスだと思う。レコードはたまにある

 とのこと。

 岡田氏に詳しく尋ねてみた所、後年、「磯節くづし・鴨緑江節」というレコードを新たに発掘したそうで、吹き込みした時期は大体、昭和初年頃だそうである。となると、河内家芳江も初代芳春の門弟ではないだろうか。となると、二人はもともと大阪の漫才師として、活躍していたようである。

 コンビ結成年は不明であるが、戦前は吉本興行に在籍していたことは確定している。また、落語芸術協会に所属して、寄席に出ていたことも、当時の『都新聞』などから確認する事が出来る。

 國學院大学研究推進機構研究開発センターが研究資料としてホームページに掲載している「靖国神社臨時大祭記念写真帖」より、昭和十五年四月に行われた演芸大会にこのコンビが出演している様子が窺える。

 『靖国神社臨時大祭記念写真帖』

 当時、この大祭には、桂文楽やリーガル千太・万吉などといった、人気や名声をある芸人が多く出演していた。それを踏まえて考えてみると、戦前はそれなりに人気があったのではないだろうか。

 戦中戦後の動乱をどう切り抜けたかは定かではないが、文化庁から出された『寄席興行出演順資料のディジタル化による保存』(備考  文化庁  落語協会  平成十九年刊行)の中にあるデータによると、1954年4月に芸術協会に復帰しているのが確認できる。

  1956年11月中席まで三五郎・芳江として活躍しているものの、その直後、なぜか芳江の名は消え、代わりに雅子という表記に変わっている。かと思うと、1956年の5月中席で、三五郎は新たに駒千代という芸人と新コンビを結成している。だが、半年もしないうちにまた三五郎・芳江に戻っている。そして、また落ち着いたかと思うと、1958年4月中席で今度は三五郎・美津江と名前が変わっている。この辺りから徐々に出演が減り始め、1960年10月には、ヨビ(普段は出番が貰えない控えの芸人)へと格下げになった(437  備考)。なお、この時のコンビ名は三五郎・芳江。ここまで変遷が激しいコンビも珍しい。

  この格下げがきっかけになったのか、それ以来二人の名前は芸術協会の名簿からプッツリと消えてしまっている。そのあとの消息は不明。

 途中で新たな相方として迎え入れられた駒千代という人は浅草駒千代という人物であろう。

 戦前の写真を見ると三五郎はスーツを着ているが、戦後はもっぱら紋付を見に纏っていたようである。芳江は見る限りずっと着物姿で高座を務めている。

  研究会当日の写真を覗くと、

 大阪からの転入組で福助踊りの始まり始まり

『サン写真新聞』より

 とあり、芳江が三味線を弾き、三五郎が踊るスタイルの舞踊漫才であったということが確認できる。しかし、不幸にして、もうその頃には舞踊漫才の領域はぴん助・美代鶴、章吾・雪枝らによって占められてしまっており、思うような活躍ができなかった模様。寄席の顔付けを見ても、前述した二組と比べると出番も浅く、掛け持ちも少ない。

 これは当時の舞台を見た人々が共通して口にしていたことであるが、その芸は陰気で華のないものだったそうで、記憶に残るようなものではなかったとのこと。

 この陰気さが、明るい芸の持ち主であった二組と比べられてしまい、下に見られがちになってしまったのではないだろうか。ましてや、当時の芸術協会は陽気な芸人が多く、新作落語や漫才が売りだったので、それらも要因の一つかもしれない。そうでなければヨビに格下げなどされないだろう。

 ある意味で時代の流れについていけなかった戦前派の漫才師と言ってもいいかもしれない。満哉・七穂などと同じく、残酷な運命に翻弄されたコンビだと考える。

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