香島ラッキー・御園セブン

香島ラッキー・御園セブン

ラッキー・セブン(右)

晩年の二人

人物

 人 物

 香島かしま ラッキー  
 ・本 名 香島 慶一

 ・生没年 1909年4月12日~1980年以後
 ・出身地 北海道生まれ、東京育ち

 御園みその セブン
 ・本 名 八代 喜三男 (整弘とも)

 ・生没年 1909年1月31日~1979年頃?
 ・出身地 東京都

 来 歴

 東京漫才にとどまらず、戦前を代表する名コンビの一組である。吉本の歴史やわらわし隊を論ずる上で彼らを無視することなど到底不可能――それくらい立派なコンビである。

 そのくせ、消息が分からないのは、両人共に喜劇畑に行き、漫才師としては些か不燃焼気味だったことに起因するのかもしれない。

漫才以前

 他の漫才同様に、二人の前歴は謎が多いものの、ある程度は判明している。特にラッキーの方がよく揃っている。

 基本的なプロフィールは、「レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版」に詳しい。まず、ここから引用しよう。

 香島ラッキー 本名香島慶一、明治四十二年四月十二日北海道に生れ東京にて育つ。神田専修商業學校卒業して三越本店の社員となる。幼少の頃より錦心流の琵琶を習ふ。

(「レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版」 300頁)

 続いて、御園セブン。ラッキーと比べると、やや前歴に謎が多い。

 御園セブン 本名八代喜三男、明治四十二年一月三十一日、東京に生る。

(「レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版」 300頁)

 出身はかくのごとし。元は歌舞伎役者だったらしく、『サンデー毎日』(1936年9月20日号)掲載の『笑ひの人國記』に、

 このコンビも、ラブ・伸みたいに、ラッキーに、鹿島セブン、つまりラッキー・セブンだ。
「二人でならぶというんですがねえ。私一人だと、年がら年中、質屋に通ひたくなるようなもんですよ。ラッキー君の方が、大分、分がいゝですねえ」
と、ひがんでゐる。
 ラッキーは、浅草で生まれて、 小さい時から、芝居ずき、親にたのんで、市川猿之助一門に入れてもらったが、物心つき、生意氣となる年ころ、段四郎、前の團子と喧嘩して、なァんだ、歌舞伎の傳統なんざ、今に見ろッ!と憤然ととび出しちまったが、そのまゝ漫才になっちまった。
「どうも、てめえの方が、今に見たようなもんですねえ。漫才が好きでなったんだ、なんていふと笑はれますかな」と、本人はいつてゐる。

 と、あるのが確認できる。

 さらに、『読売新聞』(1935年7月9日号)に――

御園ラッキィと鹿島セブンは音年の暮吉本専属になつた漫才界の新進、浅草で人気を煽り昨年秋AKより初放送したがBKからは今夜が初御目見得である、ラッキィは廿七歳、森英二郎の門下で御園英二郎と云ひ松竹蒲田にゐた、セブンも廿七歳、本所生まれ榎本芝水の弟子になつて紫水と云ふ、関西へ来て喜劇の田宮貞楽の門に入り次郎と名乗つてゐたが、一昨年漫才に転向した、両名の漫才の名付け親は吉本の林弘高氏である、目下京阪の吉本各席へ出演中である

 注意すべきは、1939年頃まで、ラッキー・セブンの名前が逆さまだった事である。御園ラッキー・香島セブンと名乗っていたりした。これは後述する。

 「週刊NHKラジオ新聞」(1950年9月16日号)には、

ラッキーは明治四十三年東京生、商業学校を出て日本橋三越本店の店員になつたが、芸能人になるために喜劇界に入り、昭和八年漫才を志して吉本興業を振り出しにセブンとコンビとなり(中略)なお、ラッキーは十二才から二十五才まで錦心流の琵琶を習い、免状をもつている。

ヤシロ・セブンもラッキーと同年、芝で生れて神田で育つたというチヤキ/\の江戸ツ子。幼年は歌舞伎界に入りラッキーと同じく昭和八年吉本興業へ入り、同じ道を歩いて、今日に至っている。

 とある。ややこしいのは、御園セブンの本名で、戦前の名簿は「喜三男」なのに対し、戦後の著作権台帳(「文化人名録(第十版)」)などでは、

矢代セブン 本名 八ツ代整弘

 と、あったりする。前置きが長くなってしまったが、結構無責任なものである(清水一朗氏に問い尋ねたところ、「芸人は大福帳とか名簿に縁起のいい名前や当て字を書いたりするから案外あてにならないんですね」との事)。

コンビ結成と人気者

ラッキーは、三越本店を退社して、関西の喜劇役者、田宮貞楽に入門。その一座で、喜劇役者をやっていた所、同じく喜劇役者をやっていた八代喜三男と意気投合し、漫才に転向。

 1933年12月、「ラッキー・セブン」を結成。吉本興業と専属契約を結んだ。当初は亭号が逆だったようで、「御園ラッキー」「鹿島セブン」といった。名前は東京吉本社長・林弘高が名付けたという。

 1934年12月24日に初めてラジオ出演を果たした時も、「香島セブン・御園ラッキー」というコンビ名で表記されており、『都新聞』(同日)のラジオ欄にも、

漫才 實況放送 
御園ラッキィ 香島セヴン

◇御園ラッキーさんは本名八代喜三男(廿六)と云ひ元新劇俳優、昭和八年十二月漫才に轉向
◇香島セブンさんは本名香島慶一(廿六)もと錦心流の琵琶の師匠をしてゐたが後関西の田宮貞楽門下となり、喜劇役者として舞台に立つ、昭和八年十二月漫才に轉向両名とも吉本専属

 とあるのが確認できる。以来、1930年代後半まで、「香島」と「御園」がバラバラな状況が続く。

 ちなみに「香島ラッキー」「御園セブン」の名に落ち着くのは、新興演芸部へと移籍する1939年前後と推測される。

 コンビ結成後、メリハリのある話芸とフレッシュな姿でたちまち人気を集め、吉本のホープとしてめきめきと頭角を示す。標準語でフレッシュにしゃべり立てる漫才は「インテリ漫才」の別称を取り、高い人気を集めた。

 コンビ結成当初は柳家金語楼の庇護を受け、日本芸術協会の定席に出演。寄席の漫才師としても腕を磨いたリーガル千太・万吉などともよく共演している。

 1934年12月24日、JOAKに出演し「実況放送」を口演。東京出身の漫才師で初めて「漫才」という新名称で放送に出演したコンビとなった。

 1935年7月、ポリドールより「インテリ漫才・数学問答」を発売。

 1935年7月9日、JOBKに出演し、「数学問答」を放送。

 1936年6月、ポリドールより「実況放送」を発売。

 1936年7月、ポリドールより「数字問答」を発売。

 1936年7月、テイチクより「泥棒三日天下」を発売。

 1936年8月、テイチクより「混線スポーツ」を発売。

 1936年9月、テイチクより「試験地獄」を発売。

 1936年10月、永田キング主演の「かっぽれ人生」にコンビで出演。劇中で漫才風の滑稽な掛合を披露している。

 1936年10月、テイチクより「カフェー幽霊会館」を発売。

 1936年11月、テイチクより「オリムピック時代」を発売。

 1936年12月、テイチクより「水泳用語」を発売。

 1937年1月、テイチクより「金の世の中」を発売。

 1937年2月、テイチクより「家庭風景」を発売。

 1937年4月、テイチクより「妹の結婚」を発売。

 1937年6月、テイチクより「ホール通ひ」を発売。

 1937年7月、テイチクより「三問答」を発売。

 1937年8月、テイチクより「漫才師の夢」を発売。

 1937年9月、テイチクより「街のスケッチ」を発売。

 1938年2月、テイチクより「夢の恋人」を発売。

 1938年8月、ビクターより「防空演習」を発売。

新興演芸部への移籍と戦争

 長らく吉本興業の人気漫才師として、活躍を続けていたが、1939年3月、発足したばかりの新興演芸部へひそかに移籍。雲隠れをするように移籍をした為、芸能界を揺るがす大事件となった。

 その詳細は色々あるが、手身近に『読売新聞夕刊』(1939年3月29日号)で報じられた雲隠れの事を紹介しよう。

笑はぬ漫才連
コンビで逃げたラッキー、セブン

 吉本興業でモダン漫才として賣れッ子の鹿島ラッキー、御園セブンの両名がこの間昭和劇場の舞薹終了後、突如姿を消してお約束のAKからの放送にも姿を見せず代役をさせた、吉本では大騒ぎをし八方手を盡したが依然行方不明、そこで吉本東京支社はやむなく、
「ラッキー、セブン両名は契約期間中に付萬一他の舞薹へ出演する場合は法律問題へと惹起する」
旨の注意書を興行関係者に配布したものだが、これは最近レヴュウに代つてシヨウ形式の演藝薹頭の波に乗る某方面の手が伸びた結果と見られる

 因みにこの雲隠れで当然吉本は激怒。「一切の劇場出演放送出演の禁止」「確認取れ次第訴訟」といった強い警告と報復措置を行った。

 この一件と前後してミスワカナ・玉松一郎、浅田家日佐丸・平和ラッパも雲隠れ。「新興演芸部引き抜き事件」である。

 以来、新興演芸部と吉本はひどく対立するようになり、長く遺恨が残った。以下は、新興演芸部移籍を報じた『都新聞』(1939年3月31日号)の記事。

既報、浅草昭和劇場に出演中、突然姿を消した吉本興業の漫才香島ラツキー、御園セブンの両名並びに関西で動揺を傳へられてゐたミスワカナ、玉松一郎コンビ等の行方に就いては、今度新しく出来た新興キネマ演藝部入の噂が飛んでゐたところ、果してこの二組は同演藝部入りが決定、何れも向ふ三ヶ年の契約が成つた旨が浅田家日佐丸、平和ラッパのコンビの入社と共に正式に發表された

 新興演芸部移籍後は、松竹系の劇場に立ち、ミスワカナ・玉松一郎などと並ぶ人気漫才師として一世を風靡した。

 なお、これと同時に吉本に訴訟を受けていたが、最終的に「新興演芸部は一度吉本に芸人を返した上で、再契約を行うこと」「この判決を受理する場合は他の訴訟を放棄すること」と事実上の和解を行っている。

 新興演芸部移籍後、司会漫才の傍らでテイチクの歌手、水島早苗などと大人数で舞台に出て、漫才を演じる「オペレッタ漫才」を展開。『僕等の残菊物語』『僕等の勝鬨日記』『僕等の学生時代』など、『僕らの○○』と題した一連のシリーズもののコメディで人気を集めた。

 1940年8月1日、昭和書房から『ラッキー・セブン傑作漫才集』を発行。

 1940年頃より、コンビ活動が停滞し、ラッキーは歌手の白樺富美子、セブンは水島早苗とコンビを組んで行動するようになる。

 但し、コンビ自体は解消したわけではなく、新興演芸部で行われていたコメディーなどでは普通に共演している他、漫才大会や放送などでは普通にコンビを組んで出ている。

 1940年10月、敵性語排斥運動に乗じ、御園セブン改め世文と名乗るようになった――と、『京都日出新聞』(1940年10月20日)の中で報じられた。一方で、普通に御園セブンとして出演しており、心からの解明というわけではなかったようである。

 1941年6月には再び世文とコンビを組み直す。ラッキーは世文と違い、中々改名をしなかった。

 1943年2月、悪化する戦況に忖度する形で、「楽貴・世文」と改名。この改名は苦しい決断だったらしく、「らっきょ・せんぶり」というコンビ名にするか、とラッキーが言ったほどであった――と『漫才世相史』などにある。

 1943年、ラッキーは応召され、コンビ解消。残されたセブンは、新興演芸部の同僚、桂小豆――玉川スミとコンビを組んだ。このコンビは8か月ばかりの短いコンビであったが、スミにとっては印象的な相方だったそうで、『ちょっと泣かせて下さい』の中で、

そのうちに、ラッキー、セブンのラッキーさんが召集され、セブンさんと組んで八ヵ月ぐらい一緒にやりました。セブンさんは物静かな人で、とても仕事熱心な方でした。私に漫才というのは、こうしてやるものと、その神髄を教えて下さった人です。そのセブンさんが召集されたとき、私は“行かないで下さい”と泣きながら哀願したものです。そのセブンさんも、今から四年ほど前に亡くなりました。

 と好意的に印象を記している。セブンも間もなく応召され、戦地に旅立った。

 1944年12月、ラッキー復員。京都座の舞台に立っているが、この時、相方が居なかったため、漫談『魂の味』で舞台に立った。

 1945年、無事に終戦を迎えたラッキーは関西へ移住し、焼け残った劇場や復興するラジオ放送などに出演する傍ら、司会や漫談なども行っていた。

 1947年に長男・正男、1949年には長女・節子、1954年には次男・宏司に恵まれている。

 一方、セブンは単身上京し、喜劇映画などに出演。1948年、旧友・伴淳三郎に誘われる形でコンビを結成。伴淳三郎『伴淳放浪記』の中に、

 “新風ショウ”がつぶれた時は、ひばりちゃんだけはなんとかしてやろうとおもった。サトウハチロー先生をわざわざ上野まで連れていって、彼女の歌をきかせたこともある。
  金のない悲しさ、とにかくバンドを集め、漫才のラッキー・セブンのセブンだけを引き抜いて、わたしとこれはコンビだ。こうしてわたしは”ブキウギ・バッテリー”てものをつくりあげた。

 とある。しばらく、このコンビで活動していた模様で、『藝能娯楽新聞』(1948年6月29日号)に、

 凸凹コンビで、人氣を呼んでいる伴淳三郎は下谷の住人、相手のラッキー・セブンは大阪の住人で、無論住宅難で家も部屋もかんたんにあろう道理がない。
 ラッキーは伴淳の厚意と友情で池の端の伴淳の家に厄介になつている筈であるのに、ロック座が、はねても、歸へろうともしないでおみこしをすえたまゝである、ラッキィ君どうして、歸らないんだいときいたら、ぼくは、楽屋が住居です、と云う、だつて、伴淳さんの家にいるのだろうときけば、それがね、伴さんも、そして又奥さんがあんまりよくして呉れるのでわるくて歸れないから、こゝに泊り込みです……よ、義理堅い伴淳とラッキィの友情も舞台以上に離れがたいものだが……ホントは伴淳と奥さんが、あんまり仲がよすぎてあてられ、関西にのこして来た女房が戀しくなつて楽屋で女房の夢を見乍らおい、のどがかわいた、水!水! は、どこまでもデコボコらしいと云う實話です

 と、ゴシップが書きたてられるほどであったが、美空ひばりの独立や相方・伴淳三郎の映画進出のため、コンビを解散し、帰阪。その後は、「矢代セブン」「八代東作」といった名前でコメディに出演。

コンビ復活と解消

 1950年、NHK『気まぐれショーボート』放送に際し、秋田実の斡旋で「ラッキー・セブン」のコンビを復活させる。以来、放送やドラマでも活躍するようになる。

 1951年、宝塚新芸座へ入社し、漫才の他に喜劇役者としても活躍した。漫才師としては1959年頃まで、コンビを組んで達者な所を見せていたが、再び独立路線を歩むこととなった。 

 当時を知る澤田隆治氏曰く、「ラッキーセブンは、ラッキーさんが話芸が達者だったんですが、どうしても頭よさそうに、賢そうに喋るネタを好んだものやから、結局漫才は長続きしないで、司会の方にいってしまいましたよ」との事である。

 セブンはコンビ解消後は引き続き、宝塚新芸座に所属をして、喜劇やテレビ・ラジオの仕事などをこなしていた。

 1971~4年に発行された『文化人名録』(第15、16版)にはまだ名前が残っている。但し、次号の第17版(1978年)には出ていない。

 1983年に発行された、上記の『ちょっと泣かせて下さい』の中に、「そのセブンさんも、今から四年ほど前に亡くなりました。」とある。1978,9年頃に亡くなった模様。

 ラッキーは、松竹に移籍。民放黎明期に「ピカソ化粧品提供・おしゃれクイズ」の関西版の司会、

 1961年頃、香川アンナと、1963年頃には東五九童とコンビを組んで、大阪弁と東京弁の不思議な掛け合いをする漫才を展開し、人気を集めたが、1965年頃に解散。

 その後は細々と司会業と喜劇役者業を続けていたが、いつしか一線を退いた。但し、芸能界へ籍だけは置き続けており、1978年の『文化人名録』(17版)などに、その名前を確認する事が出来る。

 晩年のラッキーは京都の観光会社に勤めて余生を送ったらしく、『大衆芸能資料集成』に掲載された島ひろしとの対談の中に、「セブンは三、四年前に亡くなり、ラッキーは観光会社にいるそうです。」とあるのが確認できる。また、山川静夫『上方芸人ばなし』ではキャバレーの支配人をやっている、と記されている。

 1980年に発行された『上方演芸人名鑑』をみると、引退こそしていたものの健在であったようだ。それ以降に没したのは間違いない。

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