新山ノリロー・トリロー

新山ノリロー・トリロー

ノリロー・トリロー(右)

真打昇進披露口上
左から、秀才、トップ、トリロー、ノリロー、悦朗、天才

近況(右・ノリロー 左・青空うれし)

人物

 人 物

  新山にいやま ノリロー
 ・本 名 渡辺 徳夫(現在は泉)
 ・生没年 1936年1月1日~2022年12月19日
 ・出身地 朝鮮

  新山にいやま トリロー
 ・本 名 横沢 栄司
 ・生没年 1934年6月5日~没
 ・出身地 東京 目黒

 来 歴

 戦後活躍した漫才師。大きな眼鏡をかけて、イカサマ英語をまくしたてるノリローと大柄でヌーボーとしたトリローの対比で受けた。立川談志が高く買っていた漫才でもある。ノリロー氏は健在で、東京漫才に関する記録や証言、資料を度々頂戴している。

ノリローの経歴

 新山ノリローは、当時、日本の統治下にあった朝鮮にて、刑務官の父と主婦の母親の三男として生まれる。出生名は、山崎徳夫。次兄は、法政大学名誉教授で、マルケス『百年の孤独』やボルヘス『伝奇集』などの翻訳で知られる鼓直。先年亡くなったのは知られた話であろう。

 家族の関係で、幼い頃は朝鮮半島に居住。父親は刑務官をやっていたが、親族が経営していた清水財閥の番頭に転職したという。

 兄・鼓直との関係や幼少期の話は、本人のインタビューで伺った。

※2018年11月 入谷のドトールで収録 ノリロー→ノリ 喜利彦→喜利

 なるべく聞いた通りに書いていきますが、分かりやすく相槌を入れたり、話の順列を編集しています。悪しからずご了承ください。
 また時代的な話題で日本統治下の朝鮮半島や戦争の話などが出てきますが差別を助長するものではありません。歴史的な背景の発言としてそのまま掲載致します。

喜利 ……師匠は昭和十一年の一月一日生まれだそうで。

ノリ うん。ピンピンピン(一一年一月一日)なんだね。それで兄貴たちは、一番上の兄貴が山崎大……と書いてヒロシと読むんだが、これが大正十五年、二番目の鼓直が五年(※一月二十六日)だから、五年間隔で生まれているという事になるかねえ。

喜利 お生まれは三人とも朝鮮ですか?

ノリ 朝鮮だよ。うん。親父とおふくろが知り合ったのも朝鮮だもの。

喜利 ちなみにご両親は当地で何をなさっておられたのですか。

ノリ 親父は元々刑務官で、後に清水財閥って所の番頭に転向をしたんだな。この清水ってのが、おふくろの方の親戚で、福山市の人だったとかなんとか、そう聞いてるよ。多分おふくろはこの人を頼って朝鮮に来たんじゃないのかな? 元々看護婦かなにかやっていたけど、親父と結婚して、俺が物心付いたときには風呂屋をやっていたよ。

喜利 その風呂屋の名前は?

ノリ ……うーん、忘れたね。流石に。でも、未だに覚えているのは風呂が湧くと客を入れる前に俺に入らせる。それで熱いかぬるいかを判断するんだからとんでもない親だよ(笑)そのせいで俺は今でも風呂が嫌いでね(笑)今でもカミさんとお風呂を巡って喧嘩しちゃ言われるよ、「あんたくらい風呂嫌いな人は珍しい!」(笑)

喜利 (笑) それで、師匠とお兄さんは苗字が違いますが、これは養子の関係だとか。

ノリ そう。一番上の兄貴が山崎を継いで山崎、二番目はおふくろの実家の名前を継いで鼓。そんで俺がその母親の母親の養子に入って、石川徳夫になった。

喜利 それは生まれた時からですか? それとも戦後ですか。

ノリ 戦前戦前。というか、生まれたら養子にするとかなんとかいう約束になっていたんじゃないの。だから俺も兄貴も幼い頃から鼓に石川って呼ばれていたよ。山崎って呼ばれた事は一度もない。仮に友達が来たりすると、「山崎さん、石川くんいますか」だもの(笑)思えば変な家だね(笑)

喜利 どうして祖母の家の養子に入ったんですか?

ノリ 詳しい事はよく知らないけどね、おふくろは元々鼓って名前で当然両親がいるんだが、お父さんの方が道楽者でね、祖母が愛想を尽かして離婚したのね。祖父さんの方は鼓寅次郎、例の寅さん(※男はつらいよ)と一緒だ(笑)祖母さんの方は石川うた、という名前だった。祖母さんは広島県福山市古野上町って所に家を持っていて、俺も長らく本籍はそこにあった。祖父さんは離婚した後に、多分おふくろを頼って付いて来たんだろうな。朝鮮の家にいたよ。もうその頃は中風で寝ていてね、ほら、オンドルってあるだろう?

喜利 朝鮮の暖房器具ですよね。

ノリ そそ。そこに横になっているのは、覚えているよ。この人は敗戦前に亡くなった。

喜利 養子ということは貰われて……。

ノリ 違う違う。名字だけ後を受け継ぐ、まあ、名前養子だね。だから普通に俺らは名字は違うけど同じ家に住んで、同じ家庭で育ったよ。本当に、本当に変な家さね。そんな家で育ったんだよ、俺らは(笑)

喜利 なるほど……。師匠は馬山の生まれだそうですが、直さんは晋州の生まれだと『現代人名情報事典』(平凡社)にありましたが。

ノリ 勉強になるねえ(笑) その晋州ってのは、朝鮮でも有名な温泉地帯でね、親父はそこに別荘を持っていたんだよ。それはよく覚えている。だから、直さんはそこで産まれたんじゃないのかなあ。でも本宅は馬山にあったよ。

喜利 当地ではどんな感じの生活を送っておられましたか。

ノリ 幼かったから何とも言いようがないけど……。親父が清水財閥の番頭だし、おふくろは風呂屋だからわりかし裕福な家庭だったとは思う。あと、清水財閥の社長が子供がいないもんだから、兄貴と二人よく可愛がってもらって家に泊まりに行ったものだよ。

喜利 お名前は……?

ノリ えー、なんだっけなあ……清水、清水……思い出せないね。ただ、福山の人だとは覚えている。朝鮮でも有名な財産家で、三階もあろうという洋風の豪邸に住んでいてね。兄貴と俺は可愛がられた。でも、俺はその人の家に行くのが嫌でねえ(笑) 夜、シェパードに追っかけ回されたり、変に暗かったりして、幽霊が出るんじゃないかと思ったよ(笑) 兄貴もその家と清水さんのことは覚えているはずだよ。

喜利 因みにその清水財閥は何をなされていたのですか?

ノリ 軍需工場だよ。うん、朝鮮半島の海沿いに大きな工場持ってね。俺が覚えている限りではダイナマイト、手榴弾、イワシの缶詰、ね。そういうもの作っていたよ。

喜利 それで大きくなったら当地の学校へ。

ノリ そうね。馬山国民学校という日本人学校に入学したよ。分校だけどね。日本人学校だから日本人ばかりだったけど、同級生に一人だけ当地の子がいたよ。「孫」っていう名前をよく覚えている。多分お金持ちの子か何かじゃなかったのかな。

喜利 なるほど。二人のお兄さん達も同じ感じで。

ノリ そうそう。兄貴たちも同じだね。特に直とは、学歴は高校まで殆ど一緒。

喜利 その後の進学は?

ノリ うん。二人共、馬山中学校っていう学校に進学したね。それで一番上の兄貴はそこを卒業して間もなく将校見習いとして出兵したんだよ。その時、皷家の刀を研ぎ直して、軍刀として指していったのは覚えている。直さんは在学中に敗戦だったから……。

喜利 お兄さんは出征して、どちらの方へ飛ばされましたか。

ノリ 呉。広島の呉の軍港でね、将校見習いとしてアレコレしている内に終戦さ。だから兄貴は得をしたんだ。引揚げの苦労をしなくて済んだんだからねえ。

喜利 戦時中、空襲とかありましたか?

ノリ まあ、威嚇射撃みたいなのをやられて、何回か逃げた経験はあるけども、大空襲みたいに火の海を彷徨ったという経験はないね。そういう点では、まだ平和だったかもしれない。

喜利 その後、終戦で引揚げと……大変だったとご推察致しますが。

ノリ 大変なんてもんじゃなかった。俺でさえあんな苦労はないと思った事はない。ましてや兄貴なんかもっと大変だったろうね。思えば直さんは一番の苦労人だよ。

喜利 失礼ではありますが、その頃の話を少しでもしていただけると……。

ノリ そうねえ。あんまり思い出したくはないけども……。ジープで市場に来たアメリカ人を見た時は物凄く驚いたねえ。なんせ鼻が高くて目が大きい。鬼のような存在さあね。それで、敗戦直前に、親父は清水財閥の資産を日本に移送する役目を任されて、一度日本へ帰ってまたコチラを迎えるという約束になっていたんだが、もうそれどころじゃなかったね。まだ朝鮮半島の南だったからよかったけど、本当にあの引揚げの頃は混乱と無秩序の塊だった。そうとしか言いようがないね。

喜利 命からがら……。

ノリ 命からがらさ。それでお金を払ってさ、なんとか石炭船に乗せてもらったのよ。無論、いい船なんかじゃない、輸送船以下のものさ。そこでシケにあったり、浸水があったりで、爺さんと妹の遺骨を海の中に落としちゃった。まあ、とにかく、引揚げは大変だったよ……(感慨深そうな表情を浮かべる)。そのせいか、俺は引揚げ以来、韓国へ行ったことがないよ。行きたいとも思わないよ。兄貴もそうじゃないかな。いくら故郷とはいえね、なんかあの時の苦労が思い出されるようで、尻込みするよ。今でも行きたいとは思わないね。

喜利 ……こういう事聞くのなんですけども、妹さんは何というお名前で。

ノリ 良子(よしこ)。この子はなぜか山崎良子といったね。すぐ下の妹だから、市場なんかに行くとこれをけしかけてね、おふくろにあれをねだるように言え、これをねだれ、と言ったもんだ……それである日、スモモとじゃがいもの天ぷらを食べたら、食い合わせが悪くて赤痢に罹っちゃって、その日の内に死んじゃった……。五歳だったから可哀想なことをしたものだよ…………でも、妹は引揚げを見ずに死んで、逆によかったかもしれない。あんなに大変なものにぶつかったら、さらに悲惨な死を遂げたかもしれない。逃げに逃げて、それで、まあなんとか下関に辿り着いたわけだ。

喜利 その後はどうなさいました。

ノリ おふくろと直と三人で、福山に行った。おふくろの実家だね。しばらくそこにいたんだけど、まあ引揚者だし周りは焼け野原だし折り合いがつかなかったんだろうね。それで親父の実家である埼玉の坂戸って所へ引っ越した。当時、坂戸って所は大変な田舎でね、十二歳くらいまでランプで生活をしていたよ。

喜利 電気がなかったんですか?!

ノリ なかったねえ。それで親父は坂戸の役所に再就職して、引揚者住宅に入居して初めて電気のある文化的な生活が出来たものだよ。

喜利 ははあ。それでお兄さんは帰国後にどちらの学校へ?

ノリ 直さんも俺も川越高校さ。兄貴の時代はまだ川越中学だったかな。卒業前後で川越高校になった気がする。この学校も大変な所でねえ、なんせ昔の川越城の跡にあるんだから。しかも、当時住んでいた家から坂戸駅まで四十分、川越駅から高校まで四十分近くかかったんだから、よく歩いたものだよ。それでこの高校には西川って英語の先生がいて、兄貴と俺の両方の授業を受け持ったんだ、俺はよお出来が悪いから、いつも西川先生に怒られるんだよ。
「おい、石川、お前は鼓と違って出来が悪いぞ」って。まあ、こちらはやる気が無いんだから当然なんだけどね(笑)

喜利 (笑) それで卒業後に今の外大に行かれたと。

ノリ そだね。東京外国語大学、当時は東京外事専門学校っていった。そこに行ったよ。金がなくてねえ、直さんは奨学金でやっと進学したんだよ。下宿する金もないから、坂戸から通っていたんだ。当時は東上線が一時間に一本しかなくてね、兄貴もおふくろも早起きして通ったもんだよ。その苦労たるや高校の比ではなかったよね。当時の東上線なんざ、ディーゼルだし遅いし、客は多いし、時間はかかるしね。そんな中でよくあそこまでやったものだ。だから直さんは本当に苦労したんだね。兄弟の中でも。

喜利 一番苦労なされたと。

ノリ うちの兄貴が一番苦労したね。でも、長男と三男と比べるとよくできた男でずば抜けていたね。卒業する時も二番とかそんな優秀な成績だったんだよ。

喜利 その後は大阪に行かれたとか。

ノリ いや。岡山へ行ったんでしょ。倉敷紡績に就職してね。卒業後すぐに荷物をまとめて、さ。

喜利 どうして倉敷紡績に?

ノリ そりゃ稼ぐ為だろうねえ。当時倉敷紡績っていえば名門だったしね。それに親父は役人とはいえ薄給だし、俺も高校とかで金が必要だったから、そういう事情もあったんだろう。兄はね、本当にいい人で俺が芸人になった後も仕送りをしてくれたんだ。今でも感謝しているよ。

(※倉敷紡績は大阪に本社があるため、そこがゴチャゴチャになっている可能性もある。要検証)

喜利 一部資料では直さんは岡山出身だと書いておりますが。

ノリ そりゃ兄貴の勘違いだろう。或いは本籍の問題じゃないの? 間違いなく朝鮮の生まれだよ。上の兄貴だって朝鮮生まれなんだから。

喜利 本籍の問題とは?

ノリ うん。鼓って家は元々ね、侍の家なのよ。岡山はそのルーツというのかなあ、かつてそこに居たというべきかな。例の寅次郎さんがね、よく巻物を出しちゃ「ウチは宇多天皇の流れをくむ家柄なんだぞ!」なんていっていたけどね。佐々木源氏っていうのがあるけど、その流れらしいんだね。だから、兄貴の家の家紋は丸に吉っていう珍しい紋章なんだよな。今でも兄貴はその家系図の巻物を持っているんじゃないのかな? ちなみに、俺が継いだ石川の家も、元は石川徳十っていう偉いお侍の家だったらしい。俺の「徳夫」って名前はこの先祖を元につけられた、と聞いたね。石川の家は福山だ。

喜利 じゃあお母さんはお侍さんの家柄で。

ノリ そうね。すごい大人しい人だったよ。俺らが送金してもそれを使わずに貯めてさ、「徳夫、これ持っていきなさい」って、そっとくれるような人だった。

喜利 なるほど……。因みに戦後、が一番上のお兄さんはどうなさっていたのですか。

ノリ まあこれが与太郎でね(笑) 復員後に農協に入ったんだけど問題を起こしてね。家族に不義理をして、家出したんだな。この不義理のせいで親父もおふくろも苦労をしたんだ。もっとも、兄貴は男っぷりは良かったし、髪なんざオカッパル(歌手の岡晴夫)を真似てリーゼントにしちゃって、ズボンを履いてね、今で言えば流行の最先端を行くようなやつで、それこそ村一番のなんとかさ(笑) モテないはずがないし、遊んでばかりいたさね。でも、まあ、その後は改心したのか、従兄弟とよ、旗の台で印刷屋を経営して、こちらは結構うまく行った。この従兄弟もまた変わり者で、特攻隊上がりの奴だった。思えば戦争で生き延びた連中の寄せ集めさね。時代が時代なら非国民だよ(笑) 俺もね、上京して虎ノ門舞踊学校に通っていた時分、ここでバイトをしていたんだよ。交番の上にあった狭い部屋でさ、兄貴と従兄弟と三人で雑魚寝をしていた記憶があるよ。その兄は、死んで、もう十三年近く経つけどね……。

喜利 ……となると、若き日の家計やら何やらは直さんが肩代わりなすっていたということでしょうか。

ノリ そうだね。そうなるよねえ。一番上の兄は親に借金するわ不義理するわでしょ、俺はまだ幼かったし、稼ぐ手段もない。そうなると家の負担の肩代わりをしていたのは直さんだ。思い返すと、真ん中の直さんは本当に苦労をしたんだね。ずっと親と俺に仕送りを続けていたしね。その仕送りは師匠の悦朗親父が預かっていて、その中から色々配分されていた。前座の時分は電車賃百五十円しか出してもらえなかった事がある(笑)

喜利 お兄さんが独立なされた際、何か思いましたか?

ノリ そうね、なんか思うかって別にそこまで不思議ではなかったし、格段の驚きはなかったけどねえ。まあ兄の事だから、夢を捨てる事は出来なかったんだろう。俺だって親父のススメを蹴って芸人になったんだから(笑) 大学教授になったのは、倉敷紡績勤めを五、六年してから(※『幻想文学』(五九号 二〇〇〇年十一月号)のインタビューに「学校を出てから七年くらい会社勤めをしていましたが、今で言う落ちこぼれで、早くやめたくて仕方なかった」とある)じゃなかった? 最初は龍谷大学に助手として入ったんだね。そこから先生の生活をはじめるようになったわけで。

喜利 龍谷大学ですか。

ノリ うん。その頃になると、俺も漫才をやっていたし(一九五八年コンビ結成)、上の兄貴も印刷屋をやり始めていたからね。まあ、その後も入金を続けていたけどね。龍谷大学に就職して、倉敷から京都へ移った。確か東大寺の前に住んでいたんだよ。俺もそこそこ売れ始めて大阪公演に来た時、兄貴の家に寝泊りしたことがあるよ。

喜利 そして、その後はみんなそれぞれの道を。

ノリ そだね。兄貴は本当に教授になったし、俺は漫才になってしまったし(笑)それも兄貴が翻訳で俺が語学漫才なんて、これもまた変な話だよな。黒田節を英語でやるなんてネタをやっていたんだからよお(笑)

 引揚後、父親の故郷、埼玉県入西に転居し、そこで生まれ育った。入西小学校、中学校を経て、川越高校に入学。演劇音楽を専攻し、音楽家の夢を志す。

 1954年、同校を卒業。大学進学を薦める父の反対を押し切って上京、虎ノ門音楽舞踊教室に入学した。

 長兄と従兄弟が旗の台で経営していた印刷会社でバイトをする傍ら、1年ほど音楽やダンスなどを習っていたが、挫折。

 本人曰く、「タイツ履いたらがに股で嫌になっちゃった」、「プロになろうとしている奴との実力の差を思い知らされた」。真山恵介も似たようなことを書いているが、自嘲の面もあるだろう。

 夢破れ、暫し失意の日々を送っていたが、1955年、友人の家に居候をしていた古今亭圓菊(当時、むかし家今松)に紹介され、新山悦朗・春木艶子に入門。

 本人曰く、「本当は漫才なんか下らないってバカにして相手にしてなかったんだけど、三食メシを食わせてもらえるよという甘い言葉に誘われて入門したんだから、まあふざけた話だよね(笑)」。

 師匠の内弟子となり、相方が見つかるまではギター、三味線持ちや前座のような事をして修行に励んでいた。この頃、二つ目に昇格したばかりの立川談志や三遊亭円楽と交友関係を結んだ。

 前座修業の傍ら、勉強の一環で、元役者で兵隊漫才出身の漫才師と組んでいたというが(本人が思い出した所によると、宝小判と組んでいた漫才の入江将太だといっていた)、師匠の忠告で解散。

 その後、師匠から相方を探すように言われ、虎ノ門時代に知り合った横沢を誘い、「新山ノリロー・トリロー」を結成。

 結成理由を聞くと、「トリローは北沢彪の演劇学校に通っていたんだけど、これが俺の通っていた舞踊教室のすぐ上の階でね。それで知り合った。コンビの話を持ちかけた時、当然嫌がられたけど、おまんま食わせてもらえる、って言ったらコンビ組んでもらえた」との事。

 この前後で、古今亭円菊と同居していたという。曰く、「これを知る人はもういないだろうね。圓菊さんの家族も知らないでしょ。晩年、圓菊さんに言われたよ。ノリさん、あんたとは女房よりも付合いが古いよ、って(笑)」

トリローの経歴

 トリローは、ノリローの三つ上。もう没しているという。

 実家は園芸業を経営していた――とノリロー氏の弁。但し、「あまり身の上のことを言わねえ奴でしたね」。

 立教大学経済学部に進学するような秀才児であったが、大学時分に演劇にこり始め、役者・北沢彪が運営する演劇教室へ入門。

 後年、大学を中退し北沢の弟子のような形となる。演劇教室が開講されていた建物のすぐ上の階にあったのが、虎ノ門舞踊学校であった。その生徒の一人が渡辺徳夫で、後年相方となる新山ノリローであるのはいうまでもない。

 大学中退後、役者の卵としてエキストラのような事をしていたが、なかなかうだつが上がらない所へ、新山ノリローと再会。漫才師になるよう勧められる。役者としては「そりゃ北沢さんの弟子だし、上手いといえばうまいけど、如何せん、シリアスな新劇をやるっていう感じじゃないよねえ」と、ノリロー氏の弁。

 当のノリロー氏曰く、「悦朗オヤジから、お前も相方を探せって言われて、色々模索したんだけど、その時に思いついたのが舞踊学校時代に知り合った横沢だ。こっちから連絡して、漫才師になってくれ、と頼んだら、当然相手は嫌がった。そりゃまあ嫌がるよねえ。当時は漫才なんて下に見られていたし。でも『うちのオヤジは三食食わせてくれるぞ』っていったら、コンビを組むって話になったんですよ」。 

 間もなく新山悦朗門下に入り、1958年2月、コンビ結成。「新山トリロー」と名乗る。芸名の由来をノリロー氏に伺った所「ノリローは俺の本名、徳夫から。トリローは語呂合わせと、その頃三木鶏郎さんが人気あったからね、トリローって名付けたんですよ」。

 初舞台は浅草木馬館であった。その後は、師匠の家に出入りする傍ら、南千住の栗友亭で修業を積む。同期にはクリトモ一休・三休がいる。

 ノリロー氏曰く、「師匠の家は荒川の尾久にあったんだね、家は悦朗オヤジが建てたそうだけど……変な家でねえ。そこに間借りをしていたんだね。都電に乗って南千住までいくんだけど、その行き帰りの小遣いしかくれねえんだ(笑)一回大雨で三ノ輪まで中々たどり着けず、悲惨な目に遭ったことがあるよ。」

 当時にしては珍しい颯爽とした若手漫才で人気を集め、新鋭コンビとして注目を集める。デビューから3、4年もすると司会漫才の仕事が回ってくるようになった。折しも歌謡曲ブームと司会漫才の需要勃興に伴い、フランク永井、こまどり姉妹、水原弘などの司会を勤め、全国巡業や寄席などで漫才の腕を磨いた。

東京漫才の御三家

 1961年に年季明けして独立、1962年には佐藤事務所設立に伴い、牧伸二と共に専属となる。

 テレビ・ラジオをはじめ、コマ劇場の喜劇公演や漫才横丁、映画にも進出。大空平路・橘凡路、東まゆみ・大和ワカバと共に松竹演芸場の喜劇公演のレギュラーに抜擢される。

 1962年、ノリローは、師匠行きつけの美容院の娘と結ばれ、渡部姓となった。トリローも結婚している。

 1963年11月、「東京漫才変遷史」に出演。

 1965年、第13回NHK漫才コンクールを「おてもやん」で優勝。その背景には、後輩・大空なんだ・かんだの優勝が絡んでいるという。

 その前後の経緯をノリロー氏伺った所、

「おてもやんってネタは25分近くある長いネタでね、漫才コンクールのためにどこにもかけずに秘蔵していたネタだった。これだけやってやろうって気になったのは、前年の大空なんだ・かんだの優勝が悔しかったからでね。かんだの奴は、浪曲漫才だ、あんな古臭い……と内心バカにしていたら、俺たちが優勝最右翼と謳われた年に初出場、初優勝してしまったんだから……それでなにくそって思って、このネタを作り上げたんだね」

「どんなネタか? おてもやん、って熊本の民謡があるでしょ。おてもやん、あんたこの頃嫁入りしたではないか……って。これの歌詞を珍妙に解釈するネタでね、ゲンパクナスビのイガイガドン、ってので、原爆で死の灰が降ったら、ナスビがイガイガになった。それをおてもやんが食べたら、『ドン!』ってこれがオチ(笑) ウケにウケたけど、NHKで原爆が引っかかっちゃって、杉田玄白が持ってきた変なナスビを食べたら……って変えてやったことがある。」

 以来、語学をひっくり返すネタやインテリジェンスな漫才をぶら下げて、東京漫才のホープとして活躍。

 1960年代後半より、「ノリロー・トリロー、京二・京太、みつる・ひろし」の三組が、「東京漫才の御三家」と呼ばれるようになり、三組共に鎬を削るようになった。

 また、立川談志とも仲が良く、談志ひとり会や談志の番組などにたびたび出演。その一端が『談志楽屋噺』の中で取り上げられたりしている。

 毒蝮三太夫と談志が立ち上げたまむしプロが出来た際には、斡旋されて入社している。

 1972年、漫才協団の推薦で二代目真打昇進。多くの漫才師やタレントが列席、口上には新山悦朗が並び、弟子の出世を喜んだ。

 1974年頃、漫才協団の青年部部長に就任。それから間もなくして、幹事に昇格。ノリロー氏によると、「(青空)一夜さんに可愛がられたから、コンビで理事になって、俺が理事長に、なんて話も出たけど、コンビ解消でなくちゃった」。

 長らく東京漫才の人気者として、幹部として舞台や運営に携わってきたが、1984年解散。解散理由はコンビ仲の拗れであったという。

 ノリロー曰く、

「トリローは、副業で飲み屋やっていてね、それが成功したせいで、漫才に力を入れなくなっちゃった。それで、ネタや舞台もマンネリ化しちゃって、トリローとの仲が悪くなってしまった。その態度に腹が立って、ある時、松竹演芸場の楽屋裏で喧嘩して相手ぶん殴つちゃった。そしたら、打ちどころわるくて包帯を巻くケガになっちゃってね。そこから俺もトリローも厭になっちゃった。談志や蝮が別れるな、って仲裁を入れてくれたけど、結局別れちゃったよ。もう耐えられなかった。
そしたら、後でね、後輩のビートたけしなんかが、『ノリローさんが相方に馬乗りになって喧嘩した』なんて吹聴していているんだよ(笑) 弱ったよ。」。

 一方で、コンビ仲の難しさも語ってくれた。

これはうれしさん(うれし・たのし)なんかも知っているだろうが、コンビってのは本当に難しいんだよ。今、おぼん・こぼんがコンビの関係をネタにしているが、コンビで仕事が出来るだけ、それはまだいいんだ。
 本当にコンビが仲が悪くなると、相方を殺したくなるくらい嫌だ。
 でも漫才は仲が良すぎても面白くない。最近の若手が仲良しコンビとか言っているけど、それは変だと俺は思うよ。対立なくしてどう相手をネタにして笑いを取ってやろうっていうのか、ってね。それがなくなったから、何でも人を傷つけない笑い、とか変な事が出てくるのかもしれない。
 まあ、うちの場合は俺とトリローの気性が合わなくなったこと、これは完全に俺の偏見だけど、トリローは晩年歯を悪くしてね、仕出しの弁当のたくわんをくちゃくちゃ食うんだよ。普通ならなんも気にならない事が、もう仲が悪くなると、殴りたくなって仕方ない。これが限界にまで達すると漫才コンビは割れてしまうんだね。もっとも金銭問題とかもあるんだけど……

トリローの晩年

 コンビ解消後、トリローは、漫才界から引退。前から交遊のあった女性と再婚し、引き続き飲食店を経営していた。「その店は、結構儲かってたらしいよ」とのことである。

 然し、最晩年は患ったそうで、「トリローは糖尿を悪化させて足切っちゃったんだよね。新山トウニョーですなんて洒落を言っていたそうだけど、やっぱ糖尿の関連の病やら体調不良やら悩んだそうだよ」。それから間もなくして没したという。妻も亡くなり、コレクションの一部は売り払われたと聞く。

ノリローの流転

 談志の勧めで大場タマオ(灘康次とモダンカンカンのメンバー)と組み直し、「新山ノリロー・タマオ」となる。このコンビで国立演芸場や「立川談志ひとり会」などに出演したが、コンビの息が合わず、2、3年ほどで解散している。

 当人いわく「談志の紹介だし、モダンカンカンのメンバーとも懇意の仲だったから、楽観視していたけど、案外うまくいかないもんだね」。

 タマオとのコンビ解消後は、演芸協会に入会して司会者稼業、「新山ノリロー劇団」を結成し、喜劇公演を行うなど独自の路線を歩み始めた。

 この頃、ノリロー劇団に出入りしていた古い仲間の宮田章司とコンビを組み、「新山ノリロー・宮田章司」として活動していた事もある。

 ノリロー氏曰く、宮田章司とは古い仲で、こまどり姉妹の専属司会からでね。俺たちと陽司・昇司、ダーク大和、この三組がこまどりの専属司会だった。だから、色々気心も知れていたんだよね。別にコンビを組みます、って表明したわけではないけど、仕事も結構あったし、ラジオやテレビも出た事があるから、まあコンビの内に入るんじゃないんかね」。

 宮田章司が江戸売り声で独立したのを機に、コンビ解消。当人曰く、「数年ばかり気ままな放浪生活」を過ごした後、船村徹の事務所に入り、作詞活動や司会などを行うようになった。

 この頃、森信子・秀子の妹、森サカエと仲良くなり、友人としてよく飲み歩いたそうな。

 この事務所で、『のれん酒』『人情酒場』『裏切りのブルース』などを作詞。作詞家としてもデビューする。

 2010年代より再び表舞台に戻り、気ままに当てぶりや司会漫談をする日々を過ごしている。

 筆者は2019年に出会った。ほんの少しであるものの、私の取り持ちで、青空うれしや若葉茂など古なじみの漫才師たちとの交友を復活させることが出来たのは、ちょっとした功績だと自負している。

 2022年12月19日、白血病で亡くなった――と『中日スポーツ』に訃報が掲載された。筆者が知人経由で遺族の談話を聞いた時には「18日の12時」というような事を聞いたが、夜12時という事だったのだろうか。何はともあれ、亡くなったのは事実である。

 実は亡くなる直前の9月、一度電話をしていた。その時「ちょっと心臓をやっちゃってねえ、月に何回か入院して薬売ってもらってんだよ」と笑っていたが、まさかそれがお別れになるとは思わなかった。

 筆者個人としては東京漫才史を語ってもらった、大切な大切な恩人であった。

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