香川染団子・染千代

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香川染団子・染千代

左・染団子 右・染千代

 人物

香川 染団子かがわ そめだんこ

 ・本 名 柳田 久子
 ・生没年 1928年3月18日~没?
 ・出身地 香川県 宅間町

香川かがわ 染千代そめちよ

 ・本 名 山下 ミヨ子
 ・生没年 1930年9月23日~没?
 ・出身地 香川県 宅間町

 来 歴

 その名前から、東京漫才の大看板、林家染団治の弟子のように見えるが、実際は染団治の弟子の林家染松・明石須磨子の弟子で――染団治から見れば、孫弟子に当たる。かつては貴重な女性同士のコンビとして人気があったという。

 染団子は林家染松・明石須磨子に入門し、1938年5月早くも初舞台を踏む。真山恵介によると、染千代と組む前は百面相の桂一奴の娘、染奴とやっていたとの事である。

 染千代は染団子より少し遅れて入門し、1939年に染千代とコンビを組んで初舞台を踏んだ――と『芸能画報』(1959年4月号)に書いてあり、引用すると、

染千代 ①山下ミヨ子②昭和5年9月23日③香川県④林家染松、明石須磨子に師事。昭和14年染団子とコンビで初舞台を踏む後二十年来のコンビで現在に至る

染団子 ①柳田久子②昭和3年3月16日③香川県④林家染松、明石須磨子に師事。昭和13年5月初舞台を踏み後同14年染千代と組む

 上記のようになるが、寄席研究家の真山恵介はこのコンビ結成に異を唱えており、

 例の空襲(註・東京大空襲)で浅草田島町の家がポシャンになり茨城県大津へ逃げていた時、染千代が尋ねて来て新しいコンビを結成した

(真山恵介『寄席がき話』)

 と、全く意見が違う、食い違いが生じてしまっている。

 また、「林家染千代・染団子」と名乗っている資料もあるが、香川名義の方が多いのでそちらに従った。亭号の由来は出生地の香川県から、か。

 二人共三味線を得意とし、「野崎村」の曲弾きなどを巧みに見せる傍ら、染団子の威勢のいいボケに、おっとりとした染千代がツッコむ独自の芸風を確立した。その頃の芸風が松浦善三郎『関東漫才斬捨御免』にあるので引用する。

◉香川染千代 染団子

スウツでギターを持つて歌謡漫才をやつている〆子和子に比べるとこの方は純日本版。〆子和子がホットケーキとすればこちらは栗ぜんざいの味女流の中では最も年若い部類に入るもので林家染松一家の看板。
若い娘だから今が何でもおぼえる盛りだしら二人とも浮いた話一つなくただ舞台大事と稼いでいる。
びっくりする程の美人でもないが「鬼も十八」の例えで派手な振袖で三味線合奏。(まだまだ)等をやっている舞台は大阪の青年をフラ/\っとさせてしまう(上手下手というのでなくなんとなくいいなあと感じさせるわけ)
染団子が最近特にうまくなって来たが舞台なれがしてきたのであろう。女流漫才は全て綺麗ごとで行かなくてはならぬ為に、爆笑をとるという事は仲々難しいものであるが、最近の染団子には客をつかむコツが呑み込めてきたらしい。林フラワーショウとして北海道東北方面迄出掛けて行っているから、地方の青年層に断然おなじみが多い筈。
人気のカーブが上昇しているにもかかわらず、師匠林家染松夫妻の指導宜しきを得て、絶対に余計なおしゃべりをせず幕内の行儀作法は極めてお宜しい。感心。

『アサヒ芸能新聞』(1953年11月5週号)

 浅草をホームグラウンドとし、松竹演芸場などに出演する傍ら、「林フラワーシヨウ」もやっていた。青空うれし氏曰く、「マセキ芸能が創設した当時、内海桂子なんかと共に所属していたと記憶している」との事であった。また、林プロダクションなる事務所を経営した、と名簿の中にある。

 女同士のコンビでは珍しく寿解散や結婚解散をする事なく、安定した活躍ぶりを見せていた。長らく漫才協団に所属していた故に、一九八〇年代まで漫才協団の名簿や大会に出ている様子が確認できるが、1983年を境にぱったりと消息不明となる。一体どうしてしまったのか、一向に消息のつかめないコンビではある。

 余談も余談であるが、このブログに出てくる「とたけけの演芸漂流記」(http://totakeke302.blog.shinobi.jp/)の一節、

漫才は…売れてない芸人ってやっぱり受けない。本当に笑いが出ない。
芸だけ見れば別にそんなに悪いものではないのに、である。
アタシが見ていたその漫才師さんは染千代、染団子という女性2人組の三味線漫才。お名前の通りで染千代=美人、ツッコミ、染団子=不美人、ボケという役回り。もう40年くらい前なので、亭号も忘れてしまって、探そうとしても見つからないんだなこれが。

 とは、このコンビが事だと思う。誰か伝えてやってください。

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