華玉川(中国奇術・雑芸)
人 物
華 玉川
・本 名 華 玉川
・生没年 1880年頃~1945年3月10日?
・出身地 中国 広東省
来 歴
華玉川は戦前活躍した中国系の奇術師・雑芸家。中国商人から俳優、寄席芸人となり、さらに幇間「桜川華玉川」という外国人タレントで売った人物。達者な日本語と愛嬌で吉原の名物男であったが、東京大空襲の夜に焼死を遂げた。
生年と出身地は『同盟旬報』(1937年8月号)より割り出した。今日では不適切な表現があるが、原文ママで紹介する。
支那人も献金
浅草区新吉原京町一の一六幇間櫻川の弟子で中華民国人の華玉川(五七)さんは四日朝日本堤署を訪れて北支派遣将士慰問金として百円の現金を申出た、同人は中国広東省光塔街生明治三三年日本に渡り爾来丗余年間寄席芸人から幇間をつとめ半生を日本に暮してゐる
また、『話』(1939年5月号)掲載の座談会「日本よいとこ 支那人話の會」という中で自身の経歴を面白おかしく語っている。曰く――
華玉川 では、お話しします。私は広東省生れで親爺は商人です。私は年がまる五つの年に母に亡くなられまして、それから十の時に、後妻が出来まして子供が出来ました。私とは非常に気が合はない。非常に揉めて居ります。学校ももう癪に障る。あまり勉強もしなくなってしまったので、神戸にゐる伯父さんが『それでは俺が日本に連れて行って勉強さしてやろう』と云ふので『それでは行かう』と私は神戸に来まして、中華会館に身を置いて勉強をしました、それから僅三年の間にお父さんが死んでしまったので支那へ立ち帰り、多少の財産を貰って、また神戸へ逆戻りして帰って来ました、その時は金を掴んで居ましたので、遊びの友達が出来ちゃったですネ。福原の遊郭に遊びに行きましたヨ。
李彩 オヤ/\、ソロ/\始まりだヨ。(笑声)
華玉川 福原に行った時、何んと歌が好きで、芸が好きで、歌を稽古する。その時分の歌は『琉球おじゃるなら草履はいておじゃれ』とか、『さりとはつらいネ』『しのゝめのストライキ』それから磯節『磯で名所は大洗様よ』あゝ云ふ歌が流行った。毎日夢中で唄歌って、毎日踊りの稽古してネ、遊びが止められなくなってしまった。金は使ってしまふ。もう伯父さんも『こんな道楽遊びして、親の金無くしてしまって、国へ帰れ』『国へ帰らぬ』『それでは、出てくれ』『おゝ出ますとも』と云ふわけで、ポンと自分は出てしまった。宿屋に泊ってブラ/\してゐると、日本の遊び友達がやって来ましてネ『どうだ、そのくらいに君覚えたら役者になれ』『それはよからう』と云ふので大阪に乗り込みました。天満座と云ふのに村田正雄……今の井上正夫の師匠、井上はまだ小僧だった……その人の座に入って舞台で歌ったです。その看板が馬鹿に好い男に描いてネ。(笑声)
悠玄亭玉介や桜川忠七の本でも「この人は中国の若旦那だったが身を持ち崩して幇間になった」と語っているが事実のようである。
結局家を追い出された華玉川は役者となり、さらに寄席芸人となる。初舞台は1901年だというのだから古株も古株である。寄席に出るようになった経緯は以下の通り。
華玉川 女殺しだと云ふのでお客がゾロ/\と入って来て、見ると女殺しでなく犬殺しだと云ふんです。(笑声)珍らしかったネ、支那人の芸人は初めてだったのです。それが明治三十四年です。それから京都の木村武雄と云ふ古い女形が『今、景気が悪くて困ってゐるから、どうか貸してくれないか』と云ふので京都の大黒座に出ました。そして歌ばかり自慢で唄ったのはよかったけれども、終ひには毎日歌って居ると自分でも気がさす。数が少いからネ。そこで、また大阪に逆戻りして、芝居の役を拵へて貰って立廻りやった。所が立廻りの我々の売物は、頭の辮髪が売物サ、その頭を掴んで役者は引っ張る、お客は悦ぶ。私は癪に障って嫌になってしまった。『止めませう』と云った処が、長濱と云ふ大阪の大親分が、『それでは寄席へ出ないか』と云って呉れました。李彩さん、知ってゐるでせう?
李彩 私は大阪の角座に出てゐましたヨ。
華玉川 それで、私は『寄席なら剣舞を覚えて居るから、それをやりませう』と云うて『残月一声』を歌った。恰度夏の事でしたが、印度更紗の薄いので股引拵へて、そいつをはいて『孤軍奮闘国を破って還る。一百の里程絶壁の間。我が剣既に折れ馬既に斃る。秋風骸を埋む故郷の山』とポンと叩いたら股引がベリ/\と破れてしまった。所が私夢中になって居るから判らない、前に現はれてお客はワアー/\と云ふ。(笑声)自分は剣舞を賞められて居ると思って居ると、女のお客はクスクス下を向いて居る。楽屋へ入って来ると、楽屋でも笑って居る。
小李彩 剣舞が受けないで、あそこが受けたんですネ。(笑声)
華玉川 そんな事があったがネ、剣舞をやって居る間は人気が立って居た。
高田 その時分、三遊亭さんと御一緒でしたか。
遊三 私はその時分は地方に出て居りました。
華玉川 今の東京の円遊さん、立花家橘之助さんが一枚看板でしたネ。
遊三 文南京と云ふ名前を付けたのは、その頃でせう。
華玉川 文南京の方が変って居て面白いと云ふのでネ。それで今の円遊さんが『東京へ行ってくれませんか』と云ふ。自分も『行きませう』と東京に連れられて来て、寄席に出て、まア色々踊りも踊りました。当時、家内を連れて歩いて居ましたが、家内は大阪天満の元は芸者で、おゆきと云ふ三味線引きです。その時は明治四十三年で、東京に大水害がありましたネ。それで私は上方へ行って、京都の芸者で変ったのを連れて来て、今度は泥鰌掬ひ、出雲名物泥鰌掬ひ、そいつを踊りましたネ。後の出雲節はよほど後で、十五六年前から私は踊りました。それから、一座で名古屋へ行ったり、まアおゆきと喧嘩したり、女のために泣いたり笑ったりしましたヨ。
『上方落語史料集成』によると、「文南京→馬玉川→文南京→華玉川」という変遷を繰り返したようである。
一番古い記事が『大阪毎日新聞』(1902年8月30日号)の記事で――
◇三友派の定席も来る九月一日より開演する事となりしが、久しく東上中なりし笑福亭福松も帰阪し、また今回五代目橘家円太郎、東長次郎の両人及び清国人文南京と云ふ者も一座に加はりて出勤する由。
とある。しかし、11月には「馬玉川」と改名し、この名前で一年ほど高座に出ていた。当時のゴシップにも――
◇幾代亭の支那人馬玉川は近頃祇園町の友太夫に就て大に浄瑠理を稽古して居るが、毎夜廻らぬ舌で高座へ持出して居るげな。
◇幾代亭の支那人馬玉川は一昨夜堀川菊の家のカケ持に辻馬車を雇うて帰りがけ唄をうたふやら喚くやらして居る間に車夫が新調の毛布を失ひ弁償金五円を取られて弱つて居た。
といった話が掲載されており、早くから注目を集めていたことが判る。元祖外国人タレントと言ってもいいのかもしれない。
高座では剣舞と曲技を表看板に、俗曲・義太夫をカタコトで歌ったり、べらんめえを真似したり、時には奇術風の芸を一つ二つ見せたり――と怪しい中国人を売りにして観客を笑わせていたようである。
1903年の冬、仲間から「文南京の方が変って面白い」と勧められて、また文南京に名前を戻した。1903年12月の「新京極寄席だより」という連載に――
◇幾代亭は来春一月から同席定連中に馬玉川改桂文南京、桃川桃燕と外に久しく大阪へ行つて居た枝鶴とが加はると。
とあり、翌年1月の香盤から「文南京」で出演するようになる。この時には既に一角の芸人になって居たらしく、忙しく掛持ちをしていたほか、「中国人芸人」を看板にして一座を組んで巡演するなど、足跡を残している。
こうした活躍が初代三遊亭円遊・立花家橘之助に認められ、1904年9月には早くも上京をしておひろめをしている。
◇東京へ出稼ぎをなしたる祇園新地、先斗町芸舞妓はスツカリ芸名を改め、舞妓津多、芝栄、芸妓小ゑい、玉勇、いし、米鶴、きん子、玉之助、でる葉、小愛と称し、鴨川連と号して円遊、橘之助、円右、三福、むらく、キクタ、花堂、支那人馬玉川等の一座にて十六日より神田の立花、本郷の若竹、京橋の金沢席へ出勤。
ただ、この時は単発の上京だったらしく、定着までには至らなかった。
1905年頃、「華玉川」と改名。本名を芸名にしたらしい。以来、40年に渡ってこの名前を表看板にする所となった。
◇英人ウオーターシャーマン、米人ヂヨセフファーロンの両名は、大阪登り文之助、残月等と共に、当地三遊派の圓遊、圓喬、小圓朝、圓蔵、三好、華玉川、金馬等の一座に加わり、今一日夜より神田の川竹、両国の立花の両席に出勤すと。
『東京朝日新聞』(1906年3月1日号)
この二度目の上京の時は、一度目よりも長く在留していたようであるが定住には至らず、翌年春には再び三友派の寄席に出演している。
この後、夫婦で上京し、浅草に居を構えた。三遊亭円遊や橘之助の後援もあり、三遊派に身を置いて、引き続き怪しげな中国曲芸や音曲を演じていた。
1907年にまとめられた森暁紅『芸壇三百人評』の中に――
百七十三 チヨツ笑かしやァがらァ、わけの解らねへ言をさえづりやァがつて、悪く刎ッ返へりやァがつて、イケ八釜しいチャン/\坊主だ、去年の秋の病ひに……フツ隅の方でドウスル/\ッてやつが有る。馬鹿ッ。
と滅茶苦茶辛辣ながらも人気者の一人として取り扱われている。
以来、東京の寄席やお座敷のほか、橘之助や円遊、三遊亭遊三の一座に入って全国を巡業するなど、人気色物として目覚ましい活躍を続けることとなる。
長らく寄席に出て居たが、1915年頃、幇間に転向。寄席不況や思う所あっての転身であったという。「日本よいとこ 支那人話の會」によると「寄席不況で客が入らなくなり、困っている所に、下谷黒門町の金属師・鈴木彦太郎という人物が『お前、たいこもちになったらどうだ』と勧めてきた」ので、幇間になったという。
中国人でありながら、日本語が達者で「東雲節」「磯節」などを歌い踊る、声色も上手で、手踊りも東八拳も達者で舞踊もいける――時には奇術や曲技を見せるという達者ぶりでたちまち人気者となった。
その後、正式に桜川一門に入門し、「桜川華玉川」という面白い名前で幇間の仲間入りを果たしている。
売れっ子幇間であった一方、なかなかのやり手だったそうで、貰った祝儀をパッと使わず、銀行や高利貸しでうまいこと回し、その利上げで食っていく――という財テク的な一面も持っていたという。
桂文楽『あばらかべっそん』に「華玉川は大変な財産家で、吉原の幇間で彼から金を借りない者はいない」と言わしめる程であった――とある。
後年、日本人の後妻さんをもらい「満寿見屋」なる茶屋を経営。太宰治の弟子で知小説作家として知られた小山清は、幼い頃から華玉川と面識があったそうで「清ちゃん」と可愛がられたという。
小山清『櫻林』という私小説の中に「桜川華玉川は支那人の幇間で手品を売物にしてゐた。大男でいつも支那服を着てゐた。その年も京二の君津桜の初午の催しで、得意の手品で私たちを堪能させてくれたが、声色、手踊なんかよりはこの方が子供たちには人気があった。」――小山清から見た華玉川の姿が描写されていたりする。
1930年代に入り、日中戦争が起こるようになると「敵国人だ」と心無い言葉を投げかけたり、憲兵に睨まれたり――と苦労を重ねた。
一方で相変わらず吉原では人気があり、生活そのものは豊かだったという。そのせいか、「もう日本に40年もいるのだから、日本国籍が欲しい」と座談会でボヤくほど、親日家であった。むしろ中国に帰っても何も無いから、日本に残りたい――というのが本音だったのかもしれないが……。
その戦争が深まるにつれ、吉原の華やかさも鳴りを潜めるようになり、自身の茶屋を含め、多くの女郎街やお座敷が閉鎖された。
1945年3月10日、浅草・吉原周辺を襲った東京大空襲に巻き込まれ、命を落とした――という。
桜川ぴん助や悠玄亭玉介の噂では「一度逃げ出したが、家にある金の存在を思い出して、戻ったらやられた」といい、一方、『白線随筆』では「満寿見屋という引手茶屋を経営していたが、丁度そこにお座敷がかかっている時に、空襲に逢ってその家族と共に逃げ出して、不幸にも焼死んでしまった相だ。」とある。