春風亭小柳三(珍芸)

春風亭小柳三(珍芸)

珍舞踊を披露する小柳三

慰問中の小柳三

 人 物

 春風亭しゅんぷうてい 小柳三こりゅうざ
 ・本 名 西宮 吉之助
 ・生没年 1898年11月15日~1970年8月1日
 ・出身地 名古屋?

 来 歴

 春風亭小柳三は戦前戦後活躍した珍芸の芸人。声色や漫談、珍舞踊など落語よりも珍芸で人気を集めたが、戦前早くも中央を離れて名古屋へ移籍。名古屋を拠点とする芸人になった。戦後は「小柳演芸社」なる会社を設立し、名古屋興行界の顔役として活躍を果たした。

 経歴等は不明。小柳三と面識のあった関係者に話を聞いた事があるが、誰一人とて前歴を知らなかった。

『古今東西噺家紳士録』をみると、「横浜の桃太郎と謳われた昔々亭桃太郎(三遊亭千橘)の甥」らしいとあるが、詳細は不明。ソースは三遊亭圓生の思い出なので、これもまたいささか頼りない。

 1918年頃、四代目春風亭柳枝に入門。「春風亭青枝」の芸名をもらい、睦会で修業。

 1920年11月下席の広告を見ると「青枝」のままだが、1921年1月15日付の広告を見ると、「小柳三」になっている様子が確認できる。この間に改名したのだろう。

 若い頃から落語よりも珍芸や声色を得意とし、それで活動をしていた模様か。

 1923年9月の関東大震災を機に、東京への出入りが減少するようになる。被災を経て、名古屋へ移籍した模様か。

 当時、名古屋には文長座を筆頭にいくつかの寄席があり、多くの落語家がたむろしていた。桜川ぴん助やなんやらもこの頃の仲間であろう。最終的には文長座の専属のような形で名古屋に骨を埋める事となった。 

 1924年12月、オリエントレコードより『舞台の面影』を発売。名前の通り、俳優の声色を演じたものであろう。

 源氏太郎氏が晩年まとめたメモによると「1927年、小柳三芸能企画創立」とある。小柳三の門下生だった氏の事、嘘ではないと思うが――

 1930年12月、オリエントレコードより『声色小唄沢正の面影・声色吹き寄せ』を発売。小唄三味線は名人と謳われた吉柳小歌。

 名古屋での人気はなかなかのものだったそうで、名古屋公会堂で興行を打つほどであった――と1933年発行の『名古屋市公会堂』の中の芸人リストの中にある。

 またこの頃、日本芸術協会に所属をし、漫談や珍芸、声色で寄席に出ていた事がある。ただ数年で退会している。

 この後、どういう訳か「西宮小柳三」と改名。色々な筋から文句が出たのだろうか。理由は知らない。

 以降は、声帯模写や珍芸、珍舞踊を売りにしながら、興行師と二足草鞋で活動することとなる。

 日中戦争勃発後は、慰問の斡旋や自ら慰問に赴いて金を稼ぐビジネスを行っていたようである。

 1938年11月、名古屋新聞の斡旋で慰問に出発。「陸恤庶發第七二二號 船舶便乗願ノ件申請」(1938年10月25日)にリストが残って居た。生年はここから割り出した次第。

一、往路 昭和十三年十一月二日 宇品發(龍興丸)塘沽行 
二、復路   同  十二月上旬 塘沽發     宇品行
第一次第三班 名古屋新聞社北支慰問團
技量   藝 目  藝 名   名 前   生年月日         
上   歌 謡   豆千代 福田八重子 明治四十四年一月二十日生
上 アコーデオン      尾上隆治 大正三年十一月十四日生番地 
上   落 語   小柳三 西宮吉之助 明治三十一年十一月十五日生
上   講 談  寶井馬琴 大岩喜三郎 明治三十六年十一月九日生
中   舞 踊   橘美英 石崎和子 大正十一年三月十一日生
中    同    橘由美 小川菊枝 大正七年四月一日生
中   万 歳 日の出友春 竹本五郎 大正三年十一月十日生
中    同  浅田家朝六 宮本宮三 大正三年三月三日生

 1939年11月、再び中国戦線を慰問。この時の経路や逸話は、加藤次郎『笑はせた戦線に泣く』に詳しく出ている。

 メンバーは、小柳三、歌手の金廣ちぐさ、アコーディオンの尾上隆治、漫才の東海富士・鴎という名古屋在住の芸人たちであった。

 小柳三はこの中の団長だったらしく、にらみを利かせた。『笑はせた戦線に泣く』に――

演芸部員の人々が西宮君を先生と呼ぶ、この先生の一言一行が同時に弟子の言動となる、命令は絶対、然もこれに対して不平不満は些しも持たない。演技場に至れば、先づ先生は会場の設備を見、聴衆を見、其の行ふべきポイントを抑へて弟子に指図をなす。然も弟子は唯々として聞き、諾々として演ずる。其の結果が良ければ共に相抱いで喜ぶ。師弟の情愛実に美しきもの。

 とある。一方、おちゃめな所もあったそうで、自らを「名古屋の上原謙」とうそぶいて笑わせたり、兵隊との応酬を喜ぶ一面もあったという。

西宮君が珍舞踊をやりながら、「僕の顔を見てゝ下さいヨ、立派なものでせう」とやれば、中央の兵士大声で「御前の靴下の裏のやうだ」と。ヒョイと見ると連日の旅で破れた穴に色の変った布で、幾つもつぎはぎが当てゝあつた。顔と靴下、何の関係も無いが、ドッと爆笑、ワアツと歓声。面白いものだ。

 この慰問先で発熱し、一時は野戦病院に送られてしまったというが、幸い回復し、一行共々名古屋へ戻る事ができた。

 その後も慰問へ出たようであるが、謎は残る。また名古屋空襲などで被害を被ったともいうが――

 戦後は本格的に「小柳三演芸企画配給所」を設立し、興行師となった。事務所は中区洲崎町にあったという。

 戦後まもなく、歌謡漫談をやっていた柳家亜坊を引き入れ、専属芸人とした。これが「柳家小三亀松」その人である。

 雷門福助、桂喜代楽など在名古屋の芸人と手を組んで、芸人たちの斡旋や興行の仕事を行っていた。戦後は芸人稼業よりもプロモーターとして活動したとみるべきだろう。

 普段は麻雀が好きだったそうで、暇さえあれば、関係者と卓を囲んでいた――と柳家三亀司氏から伺ったことがある。

 1952年10月、源氏太郎が入門。「春風亭小柳五」と名付けられ、名古屋の各所へ進出した。源氏太郎氏と面識あったのだから、もっと聞いておけば――と今になって後悔している。

 この頃、本妻と別れたそうで、テイチクの歌手・千鶴美代子と再婚。千鶴は美ち奴の妹弟子だったそうで、美ち奴とのレコードを数枚吹き込んでいる様子が確認できる。

 千鶴は歌手稼業よりも「名古屋歌謡学院」の創設者・講師として知られたとか――なんとか。この千鶴との間に二人の男の子に恵まれている。

 ちなみに本妻は、名古屋を引き払って東京へ戻り、芸人アパートと謳われた弥生ハウスに住み込んでいた。ここには春風亭枝雀や桂枝太郎が長らく住み着いていた。

 本妻の娘・川路みどりもまた一時期歌手をやっていたというが、外国人と結婚して引退した――とこれは源氏太郎氏から伺った。

 その後は寄席ブーム、演芸ブームに便乗して大須演芸場や名古屋東海地方の演芸界に大きな力を持ったと聞く。柳家三亀司氏や相撲漫談の一矢氏は面識があると聞くが――

 1970年8月、71歳で没。跡目は妻の千鶴が継いでしばらく経営していたというが。遺族もいるはずだが、気になる所ではある。

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