筑紫家九官鳥(物真似)
人 物
筑紫家 九官鳥
・本 名 内田 一之
・生没年 1902年10月10日~戦後?
・出身地 九州 福岡?
来 歴
筑紫家九官鳥は、戦前活躍した物真似芸人。九官鳥の名の通り、動物の物真似を得意とした。前歴には謎が多いが、僅かに残っている。
梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』によると、前身は九州某所の駅員だったそうである。曰く、
ある時、九州から、鉄道の駅員だという若い男を連れて来たことがある。この男、猫八まがいの動物声色、物真似が天下一品だから上京させて売り出させたい、ぜひ試聴してやってくれと、夜半に私の部屋でニャーニャー、ワンワン、オギャーオギャーとやられて閉口した。この時も上京費の無心だった。あいにくその時は当方も素寒貧だったが、案内状に二銭の切手を貼って三百枚、不要になったのがあった。それを金に替えると言って抱えていった。この駅員、後に筑紫家九官鳥という芸名で、名古屋の寄席文長座にで出演していたのを知っているが、近年は名も噂も聞かない。
この話は、大正中頃――1920年頃の話であるという。
名古屋を経て震災後に上京した模様か。
上京後は浅草や端席の出演で実績を磨き、1932年春、落語芸術協会に入会。寄席の色物として舞台に立つようになった。
当時の寄席広告を見ると、「物真似・筑紫家九官鳥」という形で舞台に出ている様子が確認できる。
江戸家猫八をベースにしたような動物物真似と市井にあふれる風俗物真似を得意としたようである。人気があった割には謎が多く残る。
1935年、PCL映画作成の「ラジオの女王」に出演。子供会の余興に列席し、「おじさんが物真似を演じましょう」という父兄の役で出ている。その中でお得意のあひる、蝉、赤ちゃんなどの物真似を演じている。1、2分足らずであるが、その風貌と芸風を偲べる。
1938年には、陸軍恤兵部の依頼で戦線慰問に出かけている。その時の名簿が公文書館に残っていた。その写しを転載する。ここから生年等を割り出した。
一、往路 昭和十三年十一月十一日 宇品発 塘沽行
「陸恤庶發第七四三號 船舶便乗願之件申請」 昭和十三年十一月貳日
二、帰路 同 十二月中旬 塘沽発 宇品行
第二次北支皇軍演藝慰問團人名表
藝 目 技倆 藝 名 名 前 生年月日
筑前琵琶 上 豊田旭穣 野田静枝 明治廿五年一月一日生
浪 花 節 上 寿々木越造 萩野房太郎 明治十七年二月廿七日生
曲 師 上 鈴木清之進 明治廿三年三月二十日生
漫 談 中 福地悟朗 小野十五郎 明治丗三年十月五日生
物真似漫談 中 筑紫家九官鳥 内田一之 明治丗五年十月十日生
歌謡舞踊 上 鹿島清玉壽 玉置恵美子 大正八年十月六日生
〃 〃 鹿島ぽん太郎 駒村實枝子 大正九年八月廿九日生
〃 上 田中傳二 杉江太刀郎 明治丗四年三月廿五日
とある。
1942年発行の『国民娯楽演芸読本』に当時の人気者として掲載され住所が出ている、戦前戦中の人気は相当のものだったらしい。
しかし、その人気は長く続かず、戦後消息不明となる。