柳亭左喬・三升家三喜之助
左喬と三喜之助(右)
(別の写真を合成したもの)
人 物
柳亭 左喬
・本 名 田中 喜久司
・生没年 1898年~1945年3月10日
・出身地 ??
三升家 三喜之助
・本 名 本多 きみ
・生没年 1890年代?~1943年11月28日
・出身地 東京
来 歴
柳亭左喬・三升家三喜之助は戦前活躍した男女漫才。夫婦だったというが確証はない。左喬は柳亭左楽門下の真打、三喜之助は女道楽の人気者という恵まれた地位にあったが、流れ流れて漫才師になった。戦時中、三喜之助は夭折し、左喬は東京大空襲の中に姿を消したという。
左喬の年齢は「時事年鑑 昭和2年版」より割り出した。「柳亭左喬 田中喜代司 三〇」とある。1899年生れの春風亭柳橋が「29歳」と記録されているので、そこに1つ年を足した次第。
ただ、後の帝都漫才協会の資料や名簿を見ると「田中喜久司」とあるので、名前はこちらの方が正しいのではないか。
弟は常磐津金蔵(麟之助)という常磐津の人物であった。彼とは実の兄弟だったといい、金蔵の経歴(『ラヂオ総覧』)を見ると――「氏の厳父が桐座を経営してゐた関係」とある。座元の子として生まれた模様か。
そうした関係から幼い頃から邦楽や芝居に慣れ親しみ、常磐津麒麟太夫に入門した。『都新聞』(1923年10月13日号)に――
「白梅園に避難した連中に左喬がゐる(常磐津麒麟会の一人で常磐津では小さんにと並ぶ落語界の両大関?)」
とある。麒麟会とは常磐津麒麟太夫(後の兼太夫)という人物が開催していた会で、落語家関係者も出入りをしていたという。
間もなく常磐津をやめて、柳亭左楽へ入門。「柳亭紫楽」という名前を貰い、大正初頭から高座へと出るようになる。
普通に筋はよかったそうで、時には常磐津の一節を聞かせることもあったらしい。当時の睦会が人員不足だった事もあり、早くからとり立てられた。
1921年5月1日、真打昇進。当日の都新聞に「改名せる睦派の落語家、紫楽改め柳亭左喬 ぎん蝶改め富士松銀蝶 枝雀改め春風亭華扇 さん枝改め春風亭柳語楼」とある。
ぎん蝶は昭和末まで活躍した都々逸坊扇歌、華扇は踊りや珍芸で活躍した人物、柳語楼は太神楽の後見をやりながら戦後まで活躍した人物である。
左喬は恵方亭と入喜亭で真打昇進披露を行っている。
1923年9月1日、関東大震災に遭遇し、師匠の左楽共々、田端白梅亭へと逃げた。しばらくの間、左楽の身の回りの世話をして暮らしていたようである。
戦後は師匠が中心となって結成した落語協会に所属。
1927年4月、結成された「柳三遊研成社」に移籍。ここで一枚看板となる。
1928年2月26日、JOAKの演芸放送『掛合噺・カフェ馬鹿囃子』に出演。相方は橘ノラヂオ、青柳燕之助。
この頃、研成社に移籍してきた「枝左松・三喜之助」の三喜之助と深い関係を持つようになった。もっとも、二人とも常磐津関係者だった事もあり、面識は以前からあったのかもしれない。
三喜之助は、「河童」の愛称で慕われた三升家勝次郎の娘である。勝次郎が「本多吉之助」というので、「本多きみ」が出生名であろう。
また、『都新聞』(1944年1月12日号)によると、母親はこれまた浮世節の名人と謳われた宝集家金之助だという。曰く――
◇……常磐津を売物の寄席藝人寶集家金之助の娘と生れ、藝事は本格の師匠にかけなくてはと、父の情けで常磐津三蔵に六つの時から師事、十七歳で三喜之助の名を許されたが、十八歳の時父と共に高座に始めて人気を呼んだのが結局○ひとなり、以来三十余年間、高座の足を洗ふ機會もなく今日に及んでしまひました
ただ、上の記事に三升家勝次郎が出てきてない点を考えると誤解している可能性はある。
また、『日刊ラヂオ新聞』(1927年11月13日号)に以下のような経歴が出ている。
三喜之助さんは、三升屋勝次郎の娘で本名をおきみさんといひます 常磐津三蔵さんの名取りで一時は寶集家金蔵の絃で、高座をつとめた事もありますが、なか/\腕達者、今月から研成社へ入りました
幼くして常磐津の世界に入り、三味線と唄を厳しく仕込まれた。名人と謳われた人々直々に三味線や唄をしごいてもらえる僥倖にも恵まれた。
17歳で名取となり、「常磐津三喜之助」。さらに父と高座に出るにあたって「三升家三喜之助」と名乗ることになった。
1923年に父が死に、松井小源女と名乗って曲ゴマをやっていた枝左松とコンビを組む事となった。
日本髪に和装に三味線を持った古風な女道楽で活躍。昭和初頭の人気は素晴らしいもので、ラジオにもたびたび出演するほどであった。この件はまた記載する。
1927年11月、研成社に移籍し、寄席へ出勤。この頃より左喬と本格的に関係を結ぶようになった模様か。
1928年5月下席、左喬は「三升家勝次郎」を襲名。襲名できたのは三喜之助の存在ありきだったのは言うまでもない。
その後、1年ほど勝次郎で活躍するものの、1929年春、研成社が瓦解。勝次郎も干される形となってしまった。
柳亭左楽を背いて他団体に移籍したのが問題になったかわからないが、結局勝次郎は寄席に復帰できず、「柳亭左喬」と名前を戻す羽目になった。
その後は六代目雷門助六の一座に入ったそうで、ここで助六の旅巡業などについていたらしい。上の写真は助六一座で撮られたもの。
しかし、その助六も1934年5月に巡業先の静岡で卒倒し、急逝。セガレの五郎(後の八代目)と共にこの現場に居合わせた――と『東京日日新聞』(9月5日号)にある。
後ろ盾を失った事もあってか、落語界への復帰は絶望的な物になり、左喬は落語界から離れてしまった。
一方の三喜之助は依然として人気が高かったが、1934年頃にコンビを解消。枝左松は松平操と組んで漫才師になってしまった。
その後、三喜之助は女道楽で舞台に出て居たものの、以前のような人気は取り戻せず、当人もまた左喬とコンビを組む事となった。
その頃の資料がほとんど残っていないので何であるが、二人とも和装で、三喜之助が三味線を弾いて、左喬がボケるというオーソドックスな音曲万歳だった――という事は、当時の広告などから推測できる。
1940年2月、中国戦線を慰問。『ふるさと』(1940年5月号)に――
演芸員は監督の斎藤守君、浪曲の相模太郎君、それに歌と舞踊の浅草清香さんが洋服、浪曲三味線の戸川富栄さん、漫才の柳亭左喬君、三升家三喜之助さんは和装である。
とある。それ以外にも「落語で兵隊さんを笑わせた」「寒い中を移動した」などと記載がある。ハルピンからロシア国境を2カ月近く回ったという。
1943年、帝都漫才協会再編に伴い、左喬は幹事に就任。名簿では第一部に配属され、「田中喜久司・佐藤きみ」として登録されている。
しかし、その昇進も間もなく、三喜之助は倒れ夭折。その死は数か月後に初めて知られるというわびしい物であった。『都新聞』(1944年1月12日号)に、その訃報が掲載されている。
ひと頃、色物会に人気を集めた女道楽の三喜之助、枝左松の名のうち、三喜之助が昨年の十一月二十八日、急死した事がつい最近になつて初席の楽屋に漸く傳へられました。
◇……常磐津を売物の寄席藝人寶集家金之助の娘と生れ、藝事は本格の師匠にかけなくてはと、父の情けで常磐津三蔵に六つの時から師事、十七歳で三喜之助の名を許されたが、十八歳の時父と共に高座に始めて人気を呼んだのが結局○ひとなり、以来三十余年間、高座の足を洗ふ機會もなく今日に及んでしまひました
◇……さうかうするうちに落語界も変つて、浄瑠璃物より漫才が受ける時代になつては三喜之助も常磐津をあきらめて枝左松と組んで女道楽に転じ、枝左松の廃業後は色んな踊り子と組んで客受けを狙った雑曲○にまで転向年寄りと大在の子どもを抱へて亭主の細い稼ぎばかりを當てにしてもゐられず、漫才に出たり、時には場末の寄席廻りの芝居に頼まれて暗いお囃子部屋で清元を弾いたり長唄をうたつたりと生活と闘いぬいて遂に哀れな一生を持つたのでした
◇……あんな器用な人はいなかつた、三喜之助一人頼めば三人頼むより面白かつたんだから尤もその器用が三喜さんの身を滅ぼしたのかも知れないが……と某席主は述懐してゐました。
残された左喬は細々と慰問を続けて暮していたようであるが、1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれ、火の海の中に姿を消したという。
高見順『敗戦日記』の中にも
十日の空襲で、貞山、李彩、扇遊、岩てこ、丸一丸勝、梅川玉輔が死んだ。講談の装楽、浪花節の愛造、越造等行方不明。(正岡容の消息から)
『終戦日記』(4月5日号)
と記されている。