柳家小志ん(曲独楽)

柳家小志ん(曲独楽)

傘の曲芸を演じる柳家小志ん

ハワイ巡業の写真
右よりとし松、菊川時之助、柳家小志ん

 人 物

 柳家やなぎや 小志こし
 ・本 名 鈴木 俊一
 ・生没年 1919年12月8日~1998年4月2日
 ・出身地 東京 下谷

 来 歴

 柳家小志んは戦前戦後活躍した曲独楽の芸人。幼少期は太神楽の芸人としてスタートしたが、思う所あって曲独楽に転身。後年、落語協会へ参入し、寄席の色物としても活躍した。息子は平成まで活躍した柳家とし松。

 なお、現在も柳家小志んが存在するが、当代の小志んとは師弟関係はない(遺族から了承を得て襲名した)。

『日本演芸家名鑑』によると、東京下谷の生まれ。

 父は太神楽の柳家とし松。弟に鏡味小鉄一門に入った鏡味小長がいる。

 父・とし松は1885年1月15日、茨城の生まれ。本名は寿松。茨城の海老三神楽の家元・間船宮次の二男で、10歳の時に同業者の天下野神楽の鈴木長之介の養子にもらわれ、「鈴木寿松」と改名している。

 大正期に上京し、柳家小さん・柳家三語楼一門に参入し、「柳家と志松」と改名。寄席の色物として高座に立つようになった。

 その長男に生まれた小志んは6歳(1926年)にして太神楽の稽古をはじめ、厳しく仕込まれた。当初は曲独楽ではなく、大神楽の基礎であるバチとマリ、たてものなどを仕込まれた。

 1927年に初舞台を踏み、少年曲芸師としてデビュー。父の稽古もあってか、曲独楽に転身した後も太神楽曲芸を演じてみせた他、茶番や舞踊にも通じていたという。

 デビュー後、柳家三語楼より「柳家小志ん」の名を譲られ、落語家団体にも出入りするようになる。

 そのかたわらで、曲独楽の勉強をするようになった。『新演芸』(9号)で語ったところによると「父が松井源水の後見役をしており、その源水が死んだ事もあり、松井流の曲独楽を継承させるため、自分に白羽の矢を立てた」云々。

 ここでいう松井源水は室谷助太郎の松井源水であろう。明治~大正にかけての名人で寄席の色物の筆頭として人気を集めていた。とし松はその助太郎と仲が良く、後見でその技術を覚えていたらしい。

 なお、小志ん自体は「11、12歳ころに曲独楽の面白さを覚えた」「浅草へ遊びに行った際、松井源水と名乗る人物が口上をやっていたが、口上ばかりで独楽を回す気配がなく呆れて帰ってしまった。家に帰って父に話すと『あれは山師で独楽なんざろくに回せない』と言われた」と独楽の体験を話している。

 なお、とし松は短命だったらしく、10代半ばにして父を失った。若くして家長になった小志んは、弟の小長(鈴木長治)とコンビを組み、少年曲芸として生活する傍ら、独楽を演じていた。

 20歳前後で結婚し、1940年には長男・俊勝が誕生。これが後の二代目柳家とし松である。

 戦時中は主に慰問で活躍。しかし、当人も太平洋戦争勃発とともに兵役に取られ、苦労を重ねたという。徴兵のせいか、弟の小長は友人の鏡味小鉄に預ける事となった。小長は「丸一小長」と改名することとなった。

 その後、5年近く兵隊生活を送り、戦線を転々とした。1945年の終戦は外地で迎えたという。1年ほど外地で抑留生活を送り、1946年9月なんとか復員して、曲芸界に復帰。

 帰国後は、打って変わって進駐軍慰問の人気者となり、わずか30歳にして「進駐軍慰問審査員」に就任。同業者では翁家和楽、豊来家宝楽などがいた。

 この頃から曲ゴマ一本を主体にし、忙しい日々を送ったという。多くの国民が食糧難や金欠で苦しむ中、芸で渡世をしたのだから大したものである。『アサヒグラフ』によると「17代目源水を継ぐのが夢」だったという。

 また、太神楽曲芸協会再編にも力を注ぎ、幹部に昇進。鏡味小仙会長などをよく補佐した。

 1950年にはせがれの俊勝を入門させ、芸を仕込んだ。

 1955年には、大津検花奴・菊川時之助、敷島和歌子と共に「もみじ演芸團」を結成し、ハワイ・アメリカ各地を渡り歩く事となった。当時15歳だったとし松も同行させ、稼いでは内地に送金し、一家を養っていたという。

 進駐軍慰問衰退後は各地の演芸場や余興等で活躍。落語界の色物としても出入りするようになった。

 1974年、太神楽曲芸協会の人事異動に伴い、会長に就任。鏡味小仙は病身の為に小志んに会長の座を譲る事となった。

 1979年、落語協会分裂騒動真っただ中の落語協会に入会。ちなみに倅のとし松は「丸一仙寿郎・とし松」として、1974年に落語協会に入っている。息子の方が協会入りが早いという変則的な関係であった。

 入会後は倅とコンビを組んで、「とし松・小志ん」として舞台に上がった。50年に及ぶ芸歴の中でたたき込んだ枯淡の曲芸や曲独楽で観客を唸らせ、名人としての誉れをほしいままにした。

 寄席芸人の傍らで、大神楽の復興や国立演芸場創設などにも力を注ぎ、茶番や獅子舞の復活なども手掛けた。「雀踊り」や「頼政」など古い芸をよく知っていた事もあり、鏡味小仙と手を組んで復活することに成功している。

 平成に改元後もカクシャクと舞台に出続けていたが、70代を超えた頃から心臓病に苦しむようになり、時折休演をするようになったという。

 1994年夏頃まで高座に出ていたが、心臓病を悪化させ入院。手術を受ける事となった。

 これを機に療養生活に入ったらしく、以降はとし松の一人高座となった。『国立劇場演芸場』(1996年2月号)の中に、

一昨年十一月、父小志んが心臓手術で休んだのを機に一人舞台です。小志んの経過は良好のようです。

 とある。

 しかし、老齢の為か再び病気がちになり、1998年に78歳で息を引き取った。

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