海老一柳語楼(太神楽)

海老一柳語楼(太神楽)

太神楽の後見をする柳語楼

 人 物

 海老一えびいち 柳語楼りゅうごろう
 ・本 名 中村 菊次郎
 ・生没年 1891年1月26日~1954年2月16日
 ・出身地 東京?

 来 歴

 春風亭柳語楼は戦前戦後活躍した落語家兼太神楽の後見。落語家として籍を置きながら、大神楽の方面で出演し、そちらで食っていた――という不思議な人物であった。ある意味では雑芸人といえるかもしれない。

 如何せん売れない芸人だった事もあって経歴には謎が多い。それでも『古今東西落語家事典』などの落語家名鑑にその芸歴がわずかながらに記載されている。

 前歴等は不明であるが、1910年5月、3代目柳家小さんに入門し、「柳家小ぎく」。本名の菊次郎から取ったらしい。

 1917年ころ、東京寄席演芸株式会社の是非を巡って、4代目春風亭柳枝門下に移籍。「春風亭さん枝」を襲名し、睦会へと移籍した。

 さん枝は六代目柳枝が名乗っていた出世名であり、当然出世も見込まれたというべきか。以来、睦会の新鋭として売り出す事となる。

 1921年3月、小柳枝が六代目柳枝、師匠の春風亭柳枝が華柳、柏枝が小柳枝を継ぐ――という三代の襲名で話題となった。師匠の華柳が事実上の隠居名となった関係もあって(高座に出続けたが)、六代目の柳枝の門下に移籍することとなった。

 1921年5月上席、入喜亭で「春風亭柳語楼」に改名。この時、漫才になった柳亭左喬、音曲の富士松ぎん蝶、春風亭華扇も改名している。これが生涯の芸名となった。

 その後も寄席に出続けていたが、関東大震災における寄席の壊滅や落語界の分裂などによって出世街道を外れ、ドサ回りや色物席の芸人になってしまった。結局真打昇進を果たす事なく、その生涯を終える事となる。

 どういう理由かわからないが、大神楽の海老一海老蔵に拾われて、「海老一柳語楼」という名前で高座に出るようになる。

 口が達者で小手先も効いた事から、海老蔵菊蔵師弟演じる太神楽の後見や手伝いをして寄席の舞台に出演していた。 

 戦後は「海老一柳語楼」「海老一菊寿郎」という名前で高座に出ていた。落語家としても出る事はあったというが、前座や二つ目程度の浅い出番だったそうで、古風な前座噺を淡々と演じていたという。

 晩年の様子は『ご存じ古今東西噺家紳士録』の解説書にある都家歌六の回顧録に詳しい。

 当時、芸術協会の会長・春風亭柳橋一門の番頭格というような人であった。  
 明治24年生まれというから、昭和26年に私が前座になった頃の年齢が丁度60歳で、今の私より十数年若い。今考えると、あの当時、名実共におじいさんという感じで、現在自分があのおじいさんよりずっと年上であるとはとても考えられない。(誰だ!自惚れるのもいい加減にしろというのは)。  
 この人には、当時人形町末広の楽屋の太鼓の脇で、「垂乳根」 の”縁”のまくらを教えてもらった。そして一度だけその人形町の高座で『弥次郎』を聞いたことがある。声は大きいが噺は抑揚のない本調子の人であった。  
 当時海老一海老蔵という曲芸の師匠がいて、菊蔵という弟子の後見をしていた。この菊蔵は三代目圓遊(俗に柳橋の圓遊という。彦六の師匠)と立花家色奴(二代目円歌の歌奴時代の弟子で、元女流落語家。のちに娘の小奴と組んで、親子コンビの音曲漫才として戦後の寄席に出演した)の間に生まれた。つまり菊蔵はこの小奴の兄にあたるわけだ。その師匠海老蔵没後、この柳語楼が暫くこの菊蔵の後見をしていた。
 しかし、菊蔵は三歳年下の妹の小奴と違ってあまり芸筋の良い方ではなく、間もなく廃業をして、一時のラーメン屋に勤め、その当時まだ小ゑんといった時代の今の談志さんと二人でその店に行ったことがある。それからかなり後になって新宿の地下道で、この菊蔵とバッタリ会って近所の喫茶店へ入って話をしたが、間もなく風の便りに亡くなったと聞いた。本名を伊藤親利といい、仲間では親坊々々と言っていた。昭和7年の生まれだから、当時40代半ば位だっただろう。  
 ところで、この柳語楼。 初め三代目小さん門人で「小きん」 から「さん枝」。後にごみ六の柳枝門下となって 「柳語楼」。一時「菊寿朗」を名乗ったが、また「柳語楼」に戻ったとある。  
 私は当時三代目三木助門下の前座で三多吉といっていた頃であったが、毎年暮になると、田端の師匠の家に、正月のお供え餅の飾りつけにやって来ていたのを記憶している。  
 昭和29年、63歳で没した。

 生涯人気こそなかったものの、最晩年は海老一に連れ添われる形で何度か雑誌や本への掲載を行っている。姿が割かしみられるのは太神楽の功徳というべきか。

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