二代目一徳斎美蝶(奇術)
十八番の皿回しを見せる美蝶
人 物
一徳斎 美蝶(二代目)
・本 名 栗原 孝次郎
・生没年 1899年3月10日~1976年1月28日
・出身地 東京 中野
来 歴
一徳斎美蝶(二代目)は戦前戦後活躍した奇術師。日本古来の「手妻」を大切にし、長らく寄席の色物として活躍。箱を立てる曲芸や皿回しの他、水芸、傘の取り出しなど古風な手妻を守り抜いた。古風な芸風から「最後の手妻」とも称されたほどである。
経歴は『サングラフ』(1962年6月号)掲載の「人・苦しかった〝屋台引時代〟 日本手品の第1人者 一徳斉美蝶師匠」に詳しい。
一德斎美蝶(本名、栗原孝二郎さん=63才)は明治32年(1889)東京・芝生まれのきっすいの芝っ子 寄席芸人だった父親の花円遊(三代目円遊の弟子)について小学校を卒業すると同時に落語を習い始めた ところがおとなしくて変な孝二郎少年には落語の見習前座で“音”を上げてしまった そして手先の器用な少年は 退屈な楽屋の中で いつしか見よう見真似の「まわし」をおぼえていた もちろん自己流で師匠はいない このとき父を継いで“話し家”になろうか なるまいかと2~3年迷ったという ついに奇術家になろうと決心して 西洋奇術師・松旭斎天外の門をたたいたのは17才のときだった 孝二郎少年は松旭斎天光を名のり 早くも師匠の後継者としての“腕前”を見込まれていたが 大正8年兵隊検査を機会に師匠から離れて独立し 修業に専念 西洋奇術師として寄席や宴会の会場を歩きまわり 口から綿を出す「綿くい」「鳩ナベ」の妙を演じ人気を博していた
なお、演芸評論家の真山恵介は『寄席がき話』の中で「洋家具屋にいたことがある」と記しているが、これは奉公でも出ていたのだろうか。
父は本名・栗原寅吉といい、1870年11月28日生まれ。明治期の講談の名人・三代目蓁々斎桃葉の弟である。真山恵介『わっはっは笑事典』によると「美蝶の祖父は栗原木斎という指物師の名人」だったという。そのため、美蝶は手先が器用で、十八番にした箱積みの箱や、奇術の道具のほとんどを一人でこしらえていた。
寅吉は父の跡を継いで指物をやっていたが指を壊して廃業。周りの紹介で、四代目圓蔵の門人となった。後に初代三遊亭圓遊の門下となり、「三遊亭遊鶴」。
1916年5月に兄が名乗っていた「人情亭錦紅」を襲名している。ただ後に人情亭を返却し、「三遊亭花圓遊」と名乗ったようである。
父がそういう稼業だったこともあり、幼い頃から楽屋へ連れられ、当人も少年落語家のような事をし始めた。二代目圓遊の弟子になり、「三遊亭遊好」と名付けられた――と『寄席がき話』にある。
しかし、栗原少年は口下手で、落語家が好きではなかった。数年ほど落語家の修業をしたものの、どうにもこうにもうまくいかず、父の期待に背いて奇術の世界へと入った。
当時、浅草を中心に活動していた松旭斎天外の弟子になり、「天光」。
松旭斎天外は本名・関根初之助といい、1890年12月20日東京生まれ――と、『日本歌劇俳優写真名鑑』にある。松旭斎天一と快楽亭ブラックに師事し、西洋奇術を得意としたという。
昭和の人気女優・浦辺粂子が初めて芸能界に入った際についたのはこの人である。
独立後、父に代わって一家の大黒柱になった模様。錦紅のwikiに「1918年の睦会の名簿に見えるがその後消息不明、その頃没した模様。」とあるが、後述するように、1940年代まで生きていた。
師匠に数年ついて奇術を習い、はじめは西洋奇術を演じた。後に独立して、「松旭斎天光」として高座に立った。
この頃、養老瀧五郎の元を通い、手妻の基本を教わった。『芸能』(1961年11月号)掲載の藤田洋「一徳斎美蝶」の中で――
―そういう演出で、新しく創ったものがあ りますか。昔どおりなのですか。
「創ったものはありません。強いていえば、 復元したという形はありますがね。いまいつたように、師匠は基道だけしか教えてくれないでしよう。あとは自分でやるわけです」
——養老滝五郎時代には、日本手品は何人ぐらい残っていたのです。
「あの頃でも少なかった。滝五郎師匠と、その弟子の滝三郎、滝之助の三人ぐらいだつたでしょう。江戸時代から、それでも二、三回 は全盛時代があって、日本手品が興行したこともありますよ」
と「基道」を教わった旨を記している。
1923年には初代夫人と結婚。所帯を持った。娘2人に恵まれたそうで、今も東京某所に健在だと聞く。
昭和初期までたくさんのお座敷を持ち、若手奇術師として目されたが、昭和恐慌や寄席不況で高座をあきらめ、料理人をやったこともある。『サングラフ』(1962年6月号)に――
大正12年に二代目藤川力代さんと結婚した 力代さんは下座(三味線)をやって陰に陽に主人の天光を応援した 関東大震災直後の不景気には一時舞台から身を引き 鈴木屋(現在東中野にある日本国結婚式場)という回り舞台をもつ東京でも大きな料理屋に出演して客を集めていた そのとき鈴木屋の社長鈴木磯五郎さんに芸を認められ 演芸部の主任兼板前として生活を立てるようになった 好きな奇術から離れられなかったのである しかし不景気が反映して ついに奇術を断念しなければならなくなった やがて中野の新井薬師付近で飲食店を経営 一時はお客さんが行列するほど繁昌したが “芸が身を滅ぼす”といおうか余裕のできた天光は好きな“芸の道”へ足を向けてしまい店の方はもっぱら奥さんまかせ金にもならぬ小さなステージへ せっせと通った 力代さんは1人ぼっちの淋しさのあまりせっかくの店を閉めてしまった こんどこそは と心機一転 鈴木社長から土地を借り受け 夫婦揃って農業にいそしんだ だが根っからの芸人気質は農業にすべてを打ち込むわけにはいかない 天光は“芸人になにができるか”という社会通念に抗議するかのように今度はオデン屋の屋台を引き始めた そんな根性もあった やがて昭和6年ごろの西洋奇術の全盛時代に 入るそのとき天光は日本の奇術衰退を見たのだ “日本奇術はどこにあるのだ このままでは……。と決意して日本手品“和妻”へ 転向した 西洋奇術時代の“手先の練磨”が 「皿まわし」「箱積み」で功を奏し“和妻ファン”から拍手で迎えられ 華々しい再デビューを飾った 昭和18年6代目貞山文治のすすめで一徳斉 美蝶と改名 和妻の型を守る唯一の正統手品師となった
とその苦労が綴られている。
こうした苦労も相まって、1939年初旬、落語協会へ正式に入会することができた。以来、「松旭斎天光」として高座に出るようになる。この頃、妻の弟を雇い、「一徳斎蝶二」と名乗らせて後見・鳴物をさせた。
1941年6月11日より、東宝名人会に出演。出演は春風亭柳橋、柳家権太楼、神田伯龍、都上英二・東喜美江、古今亭志ん生、照香、金原亭馬生、柳家小さん、花柳かね。
この時、70過ぎていた親父の寅吉は大威張りだったという。『都新聞』(1941年6月14日号)に――
西洋奇術と日本手品の親方をこなす松旭斎天光、名物男の老落語家三遊亭花圓遊の倅だが、奇人の花圓遊とて倅を藝人にしたくてたまらず、本人は堅氣にならうとしてゐるのを無理に自分の畑へ引込んだのも奇人らしいが、その縁故から転向をもぢつて天光と名乗つた次第、ところが仕合せと評判よく、今度も東寶の名人會へ出られるやうになつたので、さうれ見ろと花圓遊大威張り、仲間が笑ぬて、親が甘いから倅の名前まで砂糖みたいになるんだらう
とある。
なお、襲名時期は「1940年」とも「1943年」ともあるのだが、これは両方間違いである。いずれの新聞を全部みたが襲名披露はない。
1943年、講談落語協会再編成に伴い、旧落語協会派の「第一班」に所属。都家福丸・香津代、関東猫八などが仲間にいた。名簿では――
松旭斎天光 本籍 中野区本町通二ノ十 現住所 右同 栗原孝次郎 明治三二年三月十日
戦局が悪化する1944年6月1日より新宿末廣亭で「二代目一徳斎美蝶襲名披露」を実施。各寄席を廻った。
出演は、貞山、文治、柳枝、志ん生、小南、馬楽、志ん橋、関東猫八・八千代など。特に、一龍齋貞山・八代目桂文治の推薦が大きかったという。
中野で終戦を迎え、戦後も現地を離れることなく生活をつづけた。
戦後は復興する寄席や演芸場をはじめ、進駐軍慰問などでも活躍。淡々と曲芸や手妻を見せる芸で人気があったという。
一方、戦時中に覚えた「ヒロポン」が随分ひどい中毒だったそうで、暇さえあれば他人にも打っていたという。その被害者の一人に立川談志がいる。談志は『談志楽屋噺』の中で――
私は、曲芸の一徳斎美蝶さんに、眠そうな顔をしてたら打たれちゃった。「効いたか」って言うから「効きません」と言ったら、また打たれた、追い打ちだ。帰って一晩中寝られなくて驚いた。でも、考えていることが次から次へと、まとまっていくような気がした。
それを兄弟子のいまの小せんさんに喋ったら、「師匠に聞こえたらえらい目にあうぞ」っておどかされて、それっきり。
1957年、奇術協会副会長に選出される。
晩年は「最後の手妻師」「日本手品の第一人者」と呼ばれ、取材を受けた。これによって今も経歴を辿ることができる。上に挙げた書籍たちはその聞書きの一部というべきものであろう。
1960年夏、日劇ミュージックホールの公演に出演。女優達に交じって古風な手妻を演じた所大喝采であったという。真山恵介は『わっはっは笑事典』の中で――
なにしろ、三十五年の夏、日劇ミュージックで、裸の美女たちのあいだにはさまって、この芸をやったところ、日本人はもちろん、青いお目々の外人さんからもワンダフルの連呼を浴び、一ヶ月の予定が、なんと七十日間も日延べ出演したということでも、そのハナヤカさが立証されよう。
しかし、晩年はスケールの小さな寄席では日本手妻の本領を発揮できなかった上に、下座や後見もなかなか並べられない、火や水を使う芸も「やめてほしい」と言われるようになったため、結局曲芸的な芸にとどまった。
これも美蝶は自覚しながらも「よく芸を知った妻や蝶二じゃなきゃ無理だ」と芸のギャップに悩んだという。『芸能』(1961年11月号)掲載の藤田洋「一徳斎美蝶」の中で――
―日本手品では、最後のひとりといわれているのですが、後継者はいないのですか。 「もういないね。若い人もずいぶん来たが、すぐ止めてつてしまう。いくら覚えようとしても、むづかしいだけで、それだけのみいりがないのだから、誰れもやりはしない」
―蝶二さんというのは?
「あれは家内の弟で、家で面倒をみているんだが、(戦争のために)中途を抜いているけれど。もう二〇年ぐらいやっていて、まあできるだろうね。それに娘が二人いて、てい子とはる美にも一通りは教えているんだがね」
―全く後継者がいないわけでもないのですね。下座の三味線は、ふつうの人でもいいんですか。寄席に出る時なんかは……。
「駄目だね。ずっと、三味線は家内、大鼓は蝶二がやっているんだが。ほかの人では芸のツボがわからないけれど、家のものだと、危いなと思うと、そこにアンモンがあって助けてくれるから、安心してやれるんだ」
―すると、失敗の危険もあるのですか。
「そりや、西洋手品のように仕掛けがあるんじゃあないから……。”箱積み”のようなものは、仕掛けがまったくない。ほんとうの技術の結晶ですよ。この商売ばかりは、十年修業しても基道(基本のこと)だけしきや覚えられないし、今でも失敗することがあるね。 二回以上失敗すると、アガつてしまうんで、楽屋に下りてから、師匠でもねと驚かれますよ。仕掛けのないことがわかるでしょう」
―むづかしい芸だということはわかりましたが、日本に一人しかいない、最後の人だというような云い方をされて、淋しくありませんか。何か心細いといつたようなことが。
「もう、思わないね。諦めているんだ。若い 人に教えても、満足なものはできないから」
と語っている。その技量を買われてソ連巡業やアメリカ巡業もあったが、「嫁・蝶二が一緒でなければできない」と交渉がまとまらず破談になった。『芸能』の中でも――
「アメリカの巡演の時も、ソ連の時も誘われたんだけれど、向うじや、あたし一人でというんだが、あたしの方は、三人じゃなければ駄目だというんで、壊れてしまったんだ」
とやるせなさを語っている。
一方、曲芸とも手妻ともつかぬ芸に不思議な愛着を示す人も多かった。直木賞作家・色川武大は『寄席放浪録』の中で印象深い芸人として美蝶をあげている。
東京の寄席で日本手品を名乗る異色の存在に一徳斎美蝶が居た。ずいぶん長い高座歴で数年前まで出ていたから、ご存じの方も多いだろう。
高座歴は長いが、私の知る限り、ネタ数はすくない。積み木のようなものを積みあげて台に立て、掌と扇子を使って掬いとるという奴が本線で、十回に六、七回はその芸をやっていたのではないか。
あとは大皿を掌先でぐるぐる廻す皿廻し。花火を使って唐傘を出したりする一見派手なもの。私は四十年近く彼の高座を見てきたがこの三つ以外に知らない。たまに何か特殊な催しなどで、所作まじりの「啞の釣」という芸をやる。釣竿を持って現われ、与太郎風の壁が釣に行って針で喉をひっかける。釣竿を垂れているときに立小便の仕草を入れたり、たしか松葉家奴も得意にしていたネタであるが、眼鏡をはずし、表情を間のびさせると、意外に田舎の与太郎みたいな風情が出て、面白くないことはない。
が、面白いような、退屈なようなことをやって商売になるというところが、いかにも古風な芸人らしくて、寄席に来ている気分になる。
実際、変わり映えはしないのである。まず大体は高座に出てきてお辞儀をし、下座の三味線に助けられて、大きな箱から積み木をとりだし、ひとつひとつ積みあげていく。高く積んで、蠟燭や飾りを加え、それができあがったところで鳴り物を止め、口上をのべ、積み木の中段のあたりをそっと押して、傾きかかったところで手早く扇子の先を下に当てて掬いとる。
掬いとったものをぐるぐる廻したり、指の先に立てたり、そうした芸が加わって、ここまで持ち時間の半分を使う。
それから、せっかく積んだものを上から順にはずしていって、丁寧に大箱にしまいこむ。そのしまいかたがいかにも几帳面で、客はしんとなってその整理の様子を眺めている。そこのところで時間がかかるから、整理の末に、また新しいことをやるのだろうと思って見ていると、ひとつ残らず大箱にしまいこんで、お辞儀をしておしまいである。
持ち時間の半分ほどを整理に使うというのが実に珍しい芸人で、そういう仕草をおとなしく、まっとうに眺めている私を含めた客というものが、考えて見ると実におかしい。美蝶のことを考えると、今でも思わずにやにやしてくる。
五、六年前だったか、ある芸人から、
「美蝶はもう出てませんよ。いつ頃からか知らないけど、寄席に来なくなっちゃったんです。多分、死んだんじゃないですか」
ときいた。寄席の人はこういうところは、わりにずさんというか、鷹揚である。ところが、三遊亭円楽がいつだったか私の顔を見るなり、
「美蝶がひょっこり楽屋に現われたってえますよ。いえ、噂ですがね。まさか幽霊じゃないだろう、って仲間がいってました」
あの一徳斎美蝶が、実に彼らしく、人生のおしまいの整理まで見せたがっているように思えて、さらにおかしい。
辛口の芸評で知られた立川談志も『談志楽屋噺』の中で「中毒になる素晴らしい芸」と評価をしている。
一徳斎美蝶を覚えている人も少なくなったろう。皿廻しと日本手品の芸人です。
高座はいつも私服で、やせた背の高い、姿勢のいい、ちぢれた毛を短くオールバックにした頭をしていた。高座も楽屋もあまり喋らなかった、懐しい芸人でした。寄席ファンで 寄席に通ってた頃、行く度に美蝶が出てくる、いつでも出演いるから、正直いって飽きた。
やることは同じ皿廻しがほとんどで、たまぁーに立ち高座で火を喰ったり、あとはこれが一番自慢の売り物で、女房と弟を鳴り物に高座に並べての箱と傘の日本手品だ。
これは私しか演り手はありません、とは他人には出来ませんとキザに高座で威張ったが、 それほど演りたい芸とも思わなかった。でも、死ぬと懐しい、何とも懐しい。 美蝶さんがもしいたら見に行く、いま。どんなことがあってもその芸を見に行く。昔、 散々見せてくれた同じ芸を見に行く。その芸でなきゃ嫌だ。芸人というのはそういう、何てぇのかな、さっき言った中毒になる芸人がいるわけです。その一徳斎美蝶が、寄席を引退してしばらくたって忘れられた頃、ひょっこり新宿末広亭の楽屋へ来たらしい。そこには、私の元マネージャー大野善弘君・・・・・・、彼が例の三球・ 照代の地下鉄漫才をつくったんだが、「失礼ですが美蝶さんですか」って言ったら、「そうだヨ」って言ったという……、驚きましたョ。美蝶さんが居たんですヨと大野君。まるでシーラカンスに出会った様に語っていた。
1967年10月21日より10日間、新宿末広亭夜席・池袋演芸場に出勤したのを最後にほとんど高座へ出て来なくなる。それでも5年ほど落語協会に籍を置いていた。
そのため、この頃の若手から見れば「名簿にあるけど見たこともあった事もない不思議な人」であったという。
1972年5月限りで落語協会を退会。その後の数年間は長女夫婦と同居して静かな余生を送っていたと聞く。
長年、消息不明であったが奇術研究家でもある藤山新太郎が調査を続けた結果、長女が健在であることを確認。そこから没年が判明した。