東富士夫(曲技)
東富士夫
十八番の樽廻し
人 物
東 富士夫
・本 名 進士 忠良
・生没年 1912年2月18日~1991年1月1日
・出身地 静岡県 下田
来 歴
東富士夫は戦後落語協会の寄席を中心に活躍した曲芸師。自らの芸を「曲技」と称し、ボール、バチ、皿回し、樽廻しと太神楽とジャグリングの良い所を混ぜた一芸で名人と称された。
比較的長く生き、しかも人気も相応にあったこともあり、経歴は山下勝利『芸バカ列伝』によって残されることとなった。
出身は静岡。実家は下田で漁師をしていたという。
幼い頃に両親が立て続けに死に、叔父夫婦に引き取られた。叔父夫婦の斡旋で慶應義塾普通部に進学し、エリートコースを進んでいた。
しかしこの叔父が大の女道楽であり、クセの強い人物だったそうで、富士夫と何かと対立した。14歳の時、叔父と大喧嘩をした際にお盆で相手をタコ殴りにした――という武勇伝が残っている。
その喧嘩がもとで家を追い出され、上京。炭屋の丁稚となったが、数年で店主が死去。今度は新聞配達員になった。
新聞配達員時代に九段坂上に「俳優見習い生募集」という看板を見つけ、何となく飛び込んだ。
主催者の中澤壽三男・三条八重子というレビュー出身の俳優夫婦の弟子分となり、芝居のイロハや化粧術を覚えた。それからドサ回りの一座に出かけるようになる。
ある一座で道楽息子と意気投合し、帰京。
群馬県の草津温泉で湯治を兼ねての演芸会をひらいたところ、大当たりをしたのに目がくらんで、草津の芸者二人に半玉三人をスカウトして、民謡一座を結成した。しかし、素人同然の一座が上手くいくはずもなく、御難続き。
何とか東京へ戻ってきて紀尾井倶楽部なる寄席に出演して解散となった。その時、偶然出会ったのが東富士子という曲芸師であった。
18歳の時、東富士子に入門し、「東富士坊」と名乗る。
師匠の東富士子は、元々「江川小金」と名乗る江川の玉乗りの名人。幼い頃に江川亀吉の養女となり、玉乗りと空中ブランコ、針金渡りなどを仕込まれた。
明治期の人気はすさまじく、竹久夢二や志賀直哉なども見に行くほどの名人であった。江川の衰退後、「東富士子」として独立。曲技の名人として興行を打っていた。
ちなみに一時期、初代江川マストンと結婚していたことがあり、この間にできた子が二代目江川マストンであった。
東富士子の内弟子となって掃除、雑用、炊事をするかたわらで芸を磨いた。三本バチから仕込んでもらったが、兎に角厳しかったそうで、師匠から手が出ることもあった。
また、師匠が玉乗りや樽廻しの名人だったこともあり、この芸を教えてもらった。
毎日庭に出て、まずは仰向けになって座布団を回す練習から始める。これがこなせるようになったら足の上にトタンを乗せて、更に人を乗せて足を鍛える。それができるようになったら初めて樽を回せる――というからすさまじい稽古ぶりである。
1929年、新井薬師公園劇場で初舞台。撥の曲芸だけだったというが、客の前でぽろぽろとバチを落とすが、諦めずにバチを回し続けるというすさまじい初舞台だったという。
それからも厳しい修業をつづけた。師匠が小遣いをほとんどくれなかったこともあり、あえて「自転車に乗って来てパンクした、と使い先の相手にいう。すると相手は小銭を出してくれる」という作戦で、今川焼や駄菓子を買い、これで腹を膨らませたというのだから、これまたすさまじい修業話である。
1935年に年季明け。「東富士夫」の名前を許してもらった。
この頃、姉弟子(進士とよ)と結婚している。
1939年に吉本興業と専属契約を結び、東京各所の劇場や演芸会に出られるようになった。
1943年8月、応召をうけ出征。この出征のドタバタもあったせいか、富士夫は太神楽曲芸協会に入れず、「夫婦漫才 進士忠良・進士豊子」の名義で帝都漫才協会に所属する始末であった。
1946年2月に復員。その後は自慢の曲芸を生かして進駐軍慰問などに勤しむこととなった。
ただ、この頃の富士夫はなかなか血気盛んだったそうで「面白くないとドロンをする」という事で評判であった。どれだけ割がいい仕事が来ても、審査や観客の対応一つでドロン。当人は「辛抱していれば家の2、3軒は建てられるほど稼げただろう」と笑っていたという。
1946年12月周りの推薦を得て、落語協会へ入会。桂文楽の身内という形で寄席へ出るようになった。
1949年に正式入会を果たし、1949年2月、上野鈴本中席ですでに出演している様子が確認できる。
戦後は、私淑していた曲芸家の松旭斎一光の芸と同じように「高座で一切喋らず、お囃子とジェスチャーだけで淡々と高座ぶりを見せる」という独特な芸に行きついた。
三本の杖を使って杖を回す「スティック」、三つのボールを面白おかしく使い分ける「ボール」、鼻の上に紙を立てて高座を右往左往する「紙立て」、皿回しからしゃちほこ立ちまでする「皿回し」、樽を用意して器用に回す「樽廻し」などが十八番であった。
如何にも粋で、達者である芸は、寄席向きの至芸として早くから評価を受け、寄席でも深い出番を貰うことができた。
1955年公開の「泣き笑い地獄極楽」では丸一小仙・小金、都上英二・東喜美江などと共に寄席の色物のワンシーンに出演。十八番の皿回しを演じている様子が確認できる。
寄席評論家の真山恵介は、全盛期の体技のすさまじさを右のように記している。
もう一つ少ないものに体技、曲技があるが、中でも珍中の珍は、東富士夫であろう。三本ステッキから回る帽子……と、前芸一通りのあと、いよいよお目当てに移る。
フェンシング仕立ての二本の細い剣の先で二枚の皿を回し、一升ビンの中に水を半分入れて、このロにローソクを立てて火をばつける。これを頭の上に乗せ、頭の振り加減でこのビンをだんだん後頭部に移転させ、皿を回している手のヒジを突いて逆立ちをするという大車輪ぶりをお目に掛ける。
この舞台を見てあるご婦人が感極まり
「まあまあ、なんて大変な。あれあれあれ、ねえ、ああよかった。でもほかにお金の稼ぎようもありましょうのに」
と、しみじみいったという。
以来、落語協会の名色物として君臨。多くを語らぬ、落語や講談の邪魔にならない芸に徹しながらインパクトの強い芸として、多くの寄席ファンから慕われた。
若い頃はスーツやシャツで高座に出ていたが、後にはたっつけで高座に現れることもあった。特に大きなこだわりはなかったのだろうか。
私生活では真面目な人だったそうで、樽を寄席に運んでくれる前座に菓子やパンをおごったり、祝儀不祝儀には多くは語らずともそっと現れるような人であったという。
明朗で時間配分も上手だったことから、多くの演芸番組にも出演。落語の前や間で演じる色物として重宝され、毎月のようにテレビに出ていた。
その中で面白いのが、1966年4月27日、NHK『みんなの科学 「なぜだろう」 ―バットを立てる―』に出ていることである。
科学番組で「なぜバットは立つのか」という原理を説明するために色々と物を立ててみた――というのだからおかしい。
1971年に桂文楽が没した後は柳家小さんの身内となった。今の小さん一門の若手たちは色々と可愛がってもらったはずである。
1975年11月、「長年業務に精励し、芸界の模範となった」という理由で黄綬褒章を授与。この時の感銘を「皿回しまわる浮世に目を回し」と句に詠んだ。
1980年、山下勝利の取材を受ける。確かこの記事は『週刊朝日』(1981年1月30日号)に掲載され、まとめた本は1981年に朝日ソノラマから『芸バカ列伝』として発売された。
70過ぎてもなお矍鑠と高座に出続けており、颯爽とした高座ぶりを見せ続けていた。この頃になると「名人」の評が流れるようになり、色川武大、矢野誠一、立川談志とうるさ型も絶賛する存在となっていた。
中でも色川武大はこの人の事を愛していたそうで、『広告批評』(1986年11月号)掲載の「特集 まとも芸・ふしぎ芸」のインタビューの中で――
あ、それと、東富士夫さん。この人いまでも出てると思いますけど、七十歳代で、国宝級ものの色もの。紙を十四のたんざく型に破いて下唇のところにつけ、それで上向きに立たせるんだけど、紙はピンとしてないし、空気が揺れたりするから、なかなか落ちついてくれない。で、あっち行ったりこっち行ったり、高座中を走り回って、それで終り。(笑)それだけ。で、どうしても倒れちゃうから、またやり直す、七十いくつの人が。(笑)あとは、一升ビンに水を入れて、背中と洋服のあいだに立たせて、逆立ちしながら、何も使わず、頭の動かし方だけで、前にもってくる。(笑)これはもう実に感動的で、二度とこういう人は出てこないだろうという、そういう人です。(笑)
と激賞し、エッセイ集『寄席放浪記』の中でも、矢野誠一との対談で――
色川 ええ。それとドサが非常に多かった。ドサの小屋がまた数があったし、七、八組の漫才だけで回っている組がいっぱいあった。浅草の田島町あたりに住んでて、浅草の舞台には何にも出ないのに、地方に行くと浅草の人気者(笑)。
いまの色物でいえば、ピカ一は東富士夫さんだね。あの人は幾つぐらいですか。もう六十過ぎでしょう?
矢野 いやあ、七十過ぎてるんじゃないかな。大変な老舗だ。
色川 とにかく逆立ちして、水の入った一升びんを頭に乗せて動かすんだから。
矢野 ほとんにおとなしい人らしいですよ。
色川 たんざく型に切った紙を垂らさないように、舞台をあっち行ったり、こっち行ったりのドタバタ。紙は動けば動くほど風が起こってくるからね、あれも相当体を使う。矢野また、一高座にあれだけしかやらないという点がね(笑)。
色川 あれはすごいよ、やっぱり。
矢野 それで、一言もしゃべらない。
1998年7月1日より、上野鈴本昼の上席に出たのを最後に休演が続く。その後は単発的な仕事をこなしていたようであるが、1989年に平成と改元した後はほぼ引退状態にあったという。
1991年正月の午前0時15分、心不全のため文京区の日本医科大付属病院で死去。