都家福丸・香津代

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都家福丸・香津代

 

 目次

 ・人物
 ・来歴
  ・漫才以前
  ・二人のなりそめ
  ・漫才師転向
  ・福丸の死
  ・女傑・都家かつ江

 人物

都家みやこや 福丸ふくまる

・本 名 利根谷 福四郎 (旧姓・田中)  
・生没年 明治37年/1904年(逆算)~昭和22年/1947年12月7日  
・出身地 東京?

都家みやこや 香津代かつよ

・本 名 利根谷 多起子 (「たき」という表記もある)
・生没年 明治42年/1909年3月15日~昭和58年/1983年9月29日  
・出身地 東京浅草


二代目 都家 福丸  

・本 名 利根谷 冨美子  
・生没年 昭和11年/1936年~ご健在?  
・出身地 東京

  来歴

 現在では漫才コンビというよりも、達者な女芸人であり、「金八先生」などで、味のある演技を見せた女優・都家かつ江の名前のほうが有名であるが、元を辿れば彼女は漫才で売り出して、その名をほしいままにした、筋金入りの漫才師であった。

 特に東喜代駒に次いで、「東京人による東京人の東京漫才」を――謂わば、関西の漫才師に頼ることなく、東京人向けの独自の芸風を確立し、東京漫才の認知と東京漫才の寄席進出に大きな貢献をしたのは、特筆すべき点である。

 本頁に記すのは、あくまでも、このコンビの動向であり、都家かつ江個人の伝記ではないので、何卒ご了承願いたい。(とはいうものの、一応の動向は書かざるを得ないが)


 ・漫才以前

 福丸は元々、歌舞伎役者・市川市十郎一座に居たそうで、

都家福丸さん…曰く「私は八年前早稲田劇場に立籠つた市川市十郎一座で尾上右之助と云つて出てゐたんですが、万歳に転向し、妻の香津代と二人で共稼ぎしてゐます、近頃ハイカつて(註・ハイカラ?)漫才と稱してをりますが、ネタは万歳と同じことです

(「読売新聞 朝刊」 昭和9年9月4日 10頁)

 と、本人は語っている。その後、地方芝居に転じ、「清川滝三郎」という芸名で活躍していたという。如何にも颯爽としていそうな、二枚目風のいい名前であるが、分かっているのはこれくらいであり、出身地などは依然はっきりとしていない。

 一方、香津代の前歴は、本人の聞書きが残っているので、ある程度辿る事ができる。実家は「都家演芸団」という諸芸全般を得意とした一座を経営しており真山恵介によると、

 あの高座度胸は彼女の父が太神楽の都家四郎で、兄のかなめ・・・らと一座を持ち、また母親が竹本竜造、姉が竹本竜美代といっていずれも身振芝居の太夫。後年の松竹映画の名優柳咲子もこの一座にいた……という系(血)統を語れば、なるほどとうなずかれるだろう。

(真山恵介「寄席がき話」 107頁)

 まさに芸人一家の中で育ったと言えよう。香津代によると、父・都家四郎は女癖が悪く、女が出来ると二年も三年も帰って来ないようなだらしない男であったそうだが、その反面、母(竜造)はしっかり者で、とても厳しい人だったという。(「週刊平凡」9月23日号『都家かつ江が亡き夫の遺言を守って生き抜いたこの涙の24年間』より)

 家族のほとんどが芸人だったせいか、芸人の辛さを良く知っているしっかり者の母親は、せめてこの娘だけは、安定した先生か、医者に就かせなければと考えていた。が、蛙の子は蛙とやら、幼い香津代は母の希望の背き、芸道を希望するようになってしまったという。

 初舞台は6歳の時。「伽羅めいぼく先代萩せんだいはぎ」の若君、鶴千代の役をやったのが振り出しだという。この時、姉も一緒に出ていたと「週刊平凡」に書いてあるが、多分一座の芝居としてやった時に出たものだと思われる。

 その後、浅草の玉姫小学校に入学。先述の通り、芸人ではなく堅気になるよう厳しく躾けられたそうであるが、本人は芸人の夢断ちがたく、親の目を盗んではこっそりと、舞台に出ていた。しかし、13歳の時、親にばれてしまったそうで、

「そんなに芸人になりたいのならおなり。そのかわり、いままでのようなわけにはいかないよ。毎月の食いぶちも、芸事の月謝も衣裳代も、みんな自分でもつんだよ」

(「週刊平凡」49頁)

 と、叱咤される。だが、ここで挫けるような彼女であったなら、後年の女傑は存在し得なかったであろう。「必ずやり遂げる」と、心の中に誓いを立て、芸名を「都家勝代」と改め、芝居に歌に三味線に芸の修業に身を入れ始めたのである。


 ・二人のなりそめ

 そんな香津代と福丸の出会いは、大正13年、香津代が15歳の時であった。ある時、巡業で千葉県野田市に行った折、一座の女優が急病で倒れ、その代役として、勝代に白羽の矢が立った。彼女は無事に代役を務めあげ、大変な評判をとった――と、ここまでは良かったが、数か月後、味をしめたのであろう同じ興行主から「もう一度野田に来てくれ」と頼まれたのである。

 その時の事を香津代はこう回顧している。

 まだ15歳だった彼女が「勝手に行くと家でしかられる」とためらうと、
「家出をしてくれ。あとのことはオレがなんとかするから」
 と強引な口説き。彼女は決心した。とはいえ、母の目がきびしい。銭湯に行くのさえも姉といっしょでなければ、母はゆるさなかった。彼女はついにこの銭湯行きを逆に利用した。姉と家を出たあと、うまく姉をまいて、野田市へ向かった。家出である。

(「週刊平凡」50頁)

 なんとか家出に成功し、野田の舞台に立つことが出来たが、さて開場した途端、警察から呼び出しを食らった。娘を心配した家族が警察へ捜索願を出していたのである。

 これを知って、慌てたのは興行主の方である。約束した時の威勢のいい啖呵は何処にやら、

「オレに誘われたというな。いま共演している清川滝三郎という役者にホレて、一人で家出したといってくれ!」

(「週刊平凡」50頁)

 と、責任を若い滝三郎に押し付け、勝代に口裏合わせるように頼んできたのである。結局、勝代は興行主に言い含められ、言われたとおりに供述すると、警官は机をたたいて怒り出したという。怒りたくなるのも当然であろう。

 ここから先の顛末が大変面白いので、少し長いが「週刊平凡」をそのまま引用させていただく。

「あきれたやつだ。で、その男とは、関係、あんのか?」
 ”関係”といっても、15歳の彼女に意味は解せなかった。ただ、ホレて家出したことになっているから無関係というのもおかしい、と幼心でつじつまを考えた。
「もちろん関係、あります」
「何回くらいだ」
 野田に来たのは2回めだから
「2回です」
「どっちがさいしょ手ェ出した?」
清川という役者の妹役をやっていた彼女は、舞台で「兄さァーん」と呼んで駆け寄る場面があることを思い出した。
「私のほうです」
 あきれ顔の警官を見て、彼女は泣き出してしまった。警官はすぐ彼女の母を呼びつけた。
「ふたりの関係がここまできている以上、生木を裂くようなことをすると、心中いたしかねない。みとめてやりなさい」
 警官に忠告までされて、彼女の母親は腰をぬかすほどびっくりしてしまった。取り急ぎ家へ帰って、夫や息子と額をあつめて相談した。その結果、
「15歳ではいかにも早い。2~3年交際させてから結婚ということにしよう」
 ということになった。その場のがれのウソと勘違いは意外な飛躍をみせて、ふたりはとうとう婚約者となったのである。

(「週刊平凡」50頁)

 嘘から出た実とは正にこのことであろう。こんな顛末で結ばれた二人が、後におしどり夫婦となるのだから、運命とは皮肉ないたずらである。そんなこんなで夫婦になった二人は、漫才の道に近づいていく。

 漫才師転向

 昭和2年、約束通り結婚を果たした二人は本郷駒込に居を構え、新婚生活を始めた。この頃はまだ漫才になっておらず、両者ともに役者や一座の芸人を主軸にやっていた模様である。

 そんな二人が漫才師に転向する転機になったのも、やはり偶然であったという。どうもこのコンビはやたらに偶然が多い気がするが、気のせいであろうか。漫才コンビ結成のきっかけをかつ江本人はこう語っている。

 夫婦が漫才を始めたのは、偶然のきっかけ。ある劇場で漫才のコンビがアナをあけ、なんとか埋めてくれ、と泣きつかれたときである。
「その場つなぎの即興漫才でしたが、評判がいいし、やっていておもしろいので漫才を始めるようになったんです」

(「週刊平凡」50頁)

 1931年には、落語家の団体である日本演芸協会に入会し、その後、落語協会へと移って、寄席の色物として活躍することとなった。暉峻康隆の「落語の年輪」を覗くと、以下のような記載にぶつかる。

(昭和六年)十月になるとまたもや落語界にもめごとがおこり、落語睦会の花形桂小文治は、睦会の営業方針に不満を抱いて脱退し、独立して一派をたて、”日本演芸協会”と称して二十一日に旗あげ興行を催した。小文治を頭目に、柳家小山三こと十月中旬に改名して桂米丸(故五代目古今亭今輔)、かしく、三郎、小文吾、文水、永楽などがその顔ぶれである。また同月、民之助、菊蔵、由之助などの遊楽会も参加、月末には都家福丸、香津子、三遊亭円駒、林金花なども加入した。

(暉峻康隆「落語の年輪 大正・昭和・資料篇」76頁)

 ある意味では、寄席の色物としての「東京漫才」というものを確立した先駆けといっても過言ではないような気がする。

 確かに、東京の漫才師としての寄席出演だけならば、日本チャップリン・ウグイスや喜代駒に軍配を上げねばならないだろう。だが、このコンビの偉い所は初めから寄席の空気を吸い、寄席の伝統との調和を図りつつ、「漫才」の看板を掲げた所にある。

 漫才専門の小屋が立ち並ぶ関西と違い、関東では依然として落語の勢力が強かったこともあってか、東京漫才は寄席の邪魔にならない芸や華やかさが求められた。そう考えると、「寄席の中で生きる漫才」という、東京漫才の方向性の一つに楔を打ったといってもいいのかもしれない。

 こうして漫才師になった二人は瞬く間に寄席の人気者となり、多種多彩な活躍を見せたが、一方で香津代が福丸をやり込めるという女性優位のスタイルをとっていたせいか、あらぬ苦労や誤解も多かったそうで、演芸作家の玉川一郎は、

 いま「一人トーキー」で売っている都家かつ江が、なくなったご亭主の都家福丸と音曲漫才で大いに売っていたころ、当人もそのころは都家香津代といっており、高島田姿で三味線をひいていたのだが、千葉のさる部隊に慰問に行った時というから、すでに日華事変のはじまっていた昭和十二年以後の話である。
 例によって、ペラペラとまくし立てて「ボケ」の役である福丸をやっつけていると、いきなり八字ヒゲの部隊長が立ち上がり、破れるような声で「こらっ、女の分際で日本男子たるものに、なんたる事をいうか。こっちへ来い、ぶった切るッ!」
 と叫んで、ステージにとび上がって来た。
 かつ江も驚くし、福丸は驚いて”いえ、これは商売でして”と弁解すると
「貴様はこんなにやりこめられて、まだ肩を持つか」
 と、こんどはこっちがアブナイ。副官が出て来て、やっと部隊長ドノを別室に連れて行き、るるとして説明すると、やっと了承して
「ばかげた商売じゃ」
 といったという。

(「読売新聞 夕刊」1960年2月8日号 4頁)

 と、香津代の口達者さがかえって夫に対する悪口であり、愚弄に聞こえたという苦労談を紹介している。

 当時は今よりも強大な男性社会であった事を考えると、このコンビの芸は、新しく斬新な一方で、男連中からは勘違いされるという危険性も持っていたのも事実であろう。こういう女性優位の漫才は芸としては本道であるが、紙一重の領域でもあった。

 しかし、人気者であった事は間違いなく、昭和9年には早くもラジオデビューを果たしている。しかも、「寄席中継」という当時としては最新鋭の放送の出演者として選ばれたというのは特筆すべき点であろう。戦前までスタジオ放送が主流だったことを考えると、その人気ぶり、そして色物としての活躍ぶりが窺えるような気がする。

 以下は当時の番組表の概要である。

午後八時卅分より

色物・万歳・講談と 
毎日趣向をかへる寄席めぐり
今夜は末廣亭初中繼

 六月廿八日神樂坂演藝場から中繼を千秋樂とした「東西寄席めぐり」は好評を博したので新秋を期して夜八時卅分からの日本橋人形町の末廣亭を第一夜に、明日は大阪北新地の花月、明後六日は神田小柳亭の順序で寄席めぐりを中繼する。
 人形町の末廣亭は神田の立花と共に下町に於ける色物の代表席であるが末廣亭からの中繼は今晩が初めてである。番組は万年青年柳家三語樓の「物識り」を最初に近頃インテリ万歳でメキ/\売り出して来た協会派の都家福丸、香津代夫婦の「避暑地に残された戀」でAK初お目見得、お次がシカ界の大久保彦左たる三升家小勝老の「曾呂利新左衛門」トリが新作に定評ある三遊亭金馬の「二人癖」と云ふいづれも一流眞打連の顔並べである

(「読売新聞 朝刊」 1934年9月4日 10頁)

 その後も二人は寄席を中心に活躍し、千太・万吉らと共に寄席の漫才としての品格や芸を思う存分発揮していた。

 ・福丸の死

 寄席中心の活躍だったこともあって、終戦を迎えた後も戦前の国策協力を特にとがめられなかった二人は、すぐさま焼け残った寄席に出演し、相変わらずの愛嬌と人気を振りまいていた。が、その安定も長くは続かなかった。

 敗戦の動乱がまだ治まらぬ、1947年5月。その時、香津代はお腹に膿腫ができ、入院をしていた。その手術は困難極まる大手術だったそうで、福丸にも大きな負担がかかった。果たして、大手術は奇跡的に成功し、香津代は元気になったが、問題はここからである。

 その年の冬、それまで元気だった福丸が急性肺炎に罹患し、病状が悪化。そして、12月7日の夜、福丸は息を引き取った。福丸は元々心臓弁膜症を患っており、余り健康体ではなかったそうであるが、余りにも呆気ない死は病み上がりの香津代に大きな衝撃とショックを与えたのは言うまでもない。

 福丸の死の前後の経緯を、香津代は以下のように語っている。

 だが、昭和22年のこと、思いがけぬ不幸がこの夫婦に襲い掛かった。まず5月に、かつ江のおなかに膿腫ができ、たいへんな開腹手術になった。ひとつまちがえば、生命を落とすという重病。ふだんはいばっているが、かつ江を愛していた夫は、毎朝4時に起きて近くの寺に願をかけて愛妻のぶじを祈った。帰ると、子供の世話、病院通い……もともと心臓弁膜症だった夫は、この過労と気疲れですっかりまいった。
かつ江の手術はぶじ終わったとき、それまでの疲れがいっぺんに出たのか、こんどは彼が急性肺炎にかかってしまったのである。はじめのうちはファンが贈ってくれたよい薬のせいか、容体もよさそうだった。だが、運命の日が彼女を決定的に変えることになった。12月7日の夜のこと、夫の症状が急に悪化。そばで見ていられぬほど苦しみだした。
まもなく医者が駆けつけたがすでに手のほどこしようがない。そして、驚いたことにそのとき医者は、当の患者にむかってとんでもない宣告をしたのである。
「申し訳ありませんが、ご臨終です……」

 まわりの者がハッとすると、夫は静かに「知っています」といった。そしてひとりひとりに別れのあいさつを始めた。
「泣きじゃくる娘を呼んで、あの人はこういったんです。”泣くんじゃない。お母さんがいるから安心して死んでいくんだ。泣いちゃいけないよ”って」

(中略)

「私にはこういいました。”これから女手ひとつで生きていくんだからいろいろあるだろう。が、おまえは気が勝ってるからだいじょうぶだよ”……」
 かつ江の夫は「まだ迎えが来ないなぁ、死神は」といった。
「お父さん、もう少し話そうよ」
「もういいよ、もう、どうやらいけそうだ。……じゃァ、みなさん、ごきげんよう。アッハッハッハッハ」
 これが最後だった。
「”そのままが、死に装束や白魚舟”そんな辞世まで残していったんですよ」

(「週刊平凡」50~51頁)

「寿命の交換」という表現は些か語弊があるかもしれないが、妻の大病を回復させようと行動した福丸の優しさが却って彼の仇となってしまい、死ぬ羽目になってしまった、とは何とも皮肉な話であると共に、悲劇ではないだろうか。福丸の死によって、このコンビは今生の別れとなった。

 最愛の夫を失った香津代は、娘の冨美子に二代目福丸を名乗らせて、親子漫才として再出発をし、雑誌「富士」(1950年3月号)の演芸ページなどにも取り上げられたりしたものの、結局、全盛期のような活力は取り戻せなかった。

 結局、芸の問題や娘の成長などが仇となって、昭和27年1月限りでコンビを解消し、香津代は三味線漫談へと転向した。なお、娘の冨美子も後年、花柳流の名取となり、花柳瀧富という名を持つ立派な舞踊家に成長したという。

 香津代にとって、この時期は辛さや哀しみに耐え忍ぶ冬の時代だったのではないだろうか。後年、売れっ子になった彼女は福丸が急逝した直後の事を、

 夫に死なれてからかつ江は、脱け殻のようになった。仕事へ行くにも、飲みに行くにも、片ときも離れたことのなかった夫を奪われた彼女は、死ぬことを考えはじめるようになった。
「2階から飛び降りようとすると、亭主の顔がフーッと目のまえにアップで現れるんです。とうとう死ねませんでした」
 かつ江が、酒をがぶ飲みするようになったのは、このときからである。仏壇のまえにすわり、亡き夫に悪態をつきながら、朝から飲んだ。
「卑怯者! 自分だけ先に死にやがって! 夢ででも出てきてくれたらいいじゃないかァ!」
 線香をあげては、酒をあおった。そんな母親に、娘が、泣きながら抱きついた。
「お父ちゃんがかわいそうだよォ。お父ちゃんは、お母ちゃんの身代わりになって死んでくれたんじゃないかァ」
 夫が死ぬと弟子たちも、ひとり、ふたりと離れていった。

(「週刊平凡」51頁)

 と、告白しているが、頼れるものを失った悲しみと遣る瀬無さが爆発した、随分荒れた生活を送っていた模様である。

 なお、娘とコンビを組み始めた頃から、都家香津代改めかつ江と改名を果たしている。三味線漫談に転向後、名前を変えたという資料もあるが、戦後の香盤を見ると、「福丸・かつ江」名義である。

 ・女傑・都家かつ江

 最愛の夫に先立たれ、失意の未亡人生活を送っていた香津代であるが、いつまでもめそめそと泣き暮らし、そこでへこたれるような女ではなかった。漫才がダメなら、独り舞台で活躍しようと意気込んだ彼女は周りの賛同を得て、「一人トーキー」と言う名前で一人高座に立つようになったのである。

 立川談志によると、「一人トーキー」は、玉川一郎の命名だったそうで、スタンダップコメディのような方向性でやろうと考えていたようであるが、

「一人トーキー」なんてずいぶん古めかしく言葉を創ったもんだが、つまりは漫談だ。スタンダップコメディのスタイル。立って喋る。買い物籠を提げて、”いまの世の中がどうのこうの”っていうネタ。だけど、これがあまりウケなかった。

(「立川談志遺言大全集 14 芸人論二 早めの遺言」147~8頁)

 と談志が評するように、江戸っ子でチャキチャキの女史には近代的な芸風は合わなかったらしく、すぐさま座り高座で三味線を弾く――所謂、「女道楽」のスタイルに戻った。

 その古めかしいと思われるような芸風に戻った瞬間、彼女は再び人気の花を返り咲かせ、テレビ・ラジオの引っ張りだこになったというのだから皮肉と言えば皮肉である。

 漫才時代から得意としていた三味線を抱え、俗曲、端唄小唄、都々逸をひとくさり唄ったかと思うと、世相や身近な話題を持ち出してこれを毒舌で斬り捨てる、また時々客をいびってみせるなど、自由奔放ながらも決して嫌らしくなく、愛嬌たっぷりの芸風は未だに寄席ファンの語り草になっている。

 口こそ悪いが生来の世話好きで面倒見のよかった性格から、多くの落語家や芸人から慕われ、大変気に入られていた。特に先年物故した三遊亭円歌(歌奴)との信頼関係や、林家彦六との老いらくの関係は、彼女の懐の大きさの知ることが出来るエピソードである。

 そのスケールの大きさや独特の話術から、いつの頃から彼女は「女傑」やら「女三亀松」などと呼ばれるようになった。

 また、寄席や落語会で活躍する一方で、映画やテレビなどの出演にも積極的に進出し、枯淡や老熟というものを一切感じさせないアグレッシブな活躍ぶりを見せた。

 その晩年の活躍をあげはじめるとキリがないので、後々追記する事にするが、武田鉄矢主演の人気番組「金八先生」における池内シカと、「大沢悠里ののんびりワイド」のパートナー役は、晩年の彼女を語る上では欠かせない大役である。その活躍から寄席ファンのみならず、若者や女性層からも多くの人気を集めたのはいうまでもないだろう。

 そして、1983年9月29日、晩年に大きな花を咲かせたこの女傑は、脳軟化症のため、娑婆の話題と三味線を小脇に抱えて、最愛の夫の下へと旅立っていった。享年74歳。名物女傑一代、一巻の終わり。

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