関東猫八・照葉

関東猫八・照葉

(國學院「招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究」)

 人 物

 関東  かんとう 猫八ねこはち
 ・本 名 渡辺 政治
 ・生没年 1903年頃~1948年頃
 ・出身地 山梨県

 関東  かんとう 照葉てるは
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 和歌山県

 来 歴

 関東猫八は、戦前に活躍した漫才師。「猫八」と名乗ったように、動物の物まねを得意としたそうで、寄席などに出演した。三遊亭圓生親子と仲が良かったそうで、六代目の随筆に名前が出てくる。

 そんな関東猫八であるが、ラジオに出ていた事もあってか、その前歴をある程度把握する事が出来る。『読売新聞』(1937年3月26日号)に、

「経済は大蔵大臣が日本一だが動物の鳴き真似は私が日本一です」とかつて時の馬場蔵相に氣焰をあげて可愛がられた関東猫八がお内儀さんの照葉とAKから初放送する、関東猫八は甲州の絹問屋の次男坊だが子供の時から富士山麓で動物の鳴き真似を練習し十八歳の時大阪の橘圓坊の門をたゝいて藝道への一歩をふみ出した、以来十年大阪、神戸に地盤を築いたが今度永住の目的で上京したのである

 橘圓坊は三遊亭圓坊ともいい、声色や雑芸などに秀でた人だったと聞く。当時、大阪の吉本には江戸家猫八が度々来演していた事もあり、何かしら関係を持っていた模様である。

 生年と本名は「船舶便乗願ノ件申請 陸支普第三六八九號」より割り出した。名簿に「物眞似漫藝 関東猫八 渡邊政治 三七」とある。

 照葉は和歌山の三味線の娘だったらしく、『都新聞』(1936年12月23日号)にそんなことが出ている。三遊亭圓生によると、元は名古屋の芸者だったそうで、

 あのゥ戦争前に、関東猫八というのが、大阪から先代をたよって、東京へ来たことがあります。色の白い、きれいな男で、関東八千代という女と組んで漫才をやる、そのあとで、やはりものまねをやりました。猫八という名前ですが、江戸家猫八とはまったく別ものです。この人のかみさんが、名古屋芸者なんですね。それで、うちの家内が、いっしょに買物に行ったことがある。そうしたら、家内が、あとで、
「なんでも、はいるところで、みんな値切るんで、あたしァもうきまりが悪くて……あの人といっしょに行くのはいやだよ」
 なんて言ってましたが、名古屋の人は、なんでも一応は値切ってみる。もしもまけたら、それだけ得だし、まけなくてもともとだというわけなんでしょうけども……。

 1937年3月26日、「物真似漫才」でJOAK初出演。

 当時ラジオに出演できるのは相応の実力と人気がなければ、無理だったので、人気を計るバロメータとしてみる事が出来る。やはり人気があったのだろう。そう考えると、猫八と名乗っていても格段ニセモノ扱いされてはいなかったようだ。

 上記の記事に、「以来十年大阪、神戸に地盤を築いたが今度永住の目的で上京したのである」とあるが、その移住は、圓生の伝手を頼りに実現できたものだという。以来、浅草の劇場や寄席へ進出。物真似漫才の一組として、人気を博した。

 上京や仕事の斡旋で世話になった関係から、五代目三遊亭圓生を慕っており、その関係から六代目圓生一家とも仲が良かった。圓生の親類、山崎佳男が記した『父、圓生』にも

猫八に貸した電話番号

昭和十二、三年ごろ、 先代が大変可愛がっていた関東猫八、照葉という動物の物真似をする漫才夫婦がいた。 猫八さんの住居が近かったせいもあってか、毎日のように顔を見せていたが、ある日改まって、
「師匠、ぜひ折り入ってお願いがあるんですが」
「何だい、言ってみな」
「師匠のお宅の電話番号を拝借したいんで」
「電話番号なんぞ借りて、いったいそいつをどうすんだ」

「師匠のとこの番号(四谷局五六二八番)が、私の芸名にぴったりなもんで、名刺に入らせていただきたいと思いまして」
猫八さんの家は同じ四谷区で近いといっても、市電か青バス(今の都バスのこと)で二停留所にある。
「いやァ、電話が掛かったらどうする」
「へェ、まっ、そんなこたァ滅多にないと思いますが、万一掛かりましたら留守だと言って下さい」
「フーン左様か、それでいいんならかまわねェから使いな」
次に来たとき、普通の倍もあるような名刺を持ってきて、
「師匠、お蔭様でできてきました」
「ホウ、仲々立派じゃねェか」
覗いて見ると、関東猫八、住所、の隣に電話番号四谷局五六二八番と、ありもしない電話番号を太目の活字で掘り込んである。
借りるほうも借りるほうだが、その名刺を見てよくできたというも誉めるほう。当時の芸人さんたちの洒落気、茶目気が思い出されてなつかしい。

 猫八と名前が被っている、という言説があるが、彼が主に活動した1930年代は、二代目猫八は、木下華声名義での活動が増えており、先年物故した三代目はまだ子供であった。

 そういう意味では、猫八不在の時分に特に悶着をおこすことなく、活躍できた、と言えよう。これで、本家が東京で大々的な活躍をしていた日には、「二人猫八」などという状態になったかもしれない。

 圓生親子の斡旋もあってか、落語協会の色物として入会し、寄席の高座にも立つようになっている。普通に寄席の色物としては有能であった。

 1939年5月、陸軍恤兵部の依頼で慰問に出かける。「船舶便乗願ノ件申請 陸支普第三六八九號」に――

一、往航 昭和十四年五月四日宇品發(シャートル丸)上海行 
二、復路 〃    六月下旬上海發 宇品行
陸軍恤兵部主催 中支方面皇軍慰問團人名表(第一班) 
藝 目    藝 名    名 前   年 齢  

落  語   瀧川鯉橋   鳥谷久太郎  五四
落語手踊   桂華緑    富士村彦太郎 四四 
落  語   立川談好   田崎操    三五 
物眞似漫藝  関東猫八   渡邊政治   三七 
漫  才   林家染若   斎藤健治   三九  
       壽美の家花香 須田親子   四一 
長唄舞踊   桂の文屋   山路あい子  三五  
落  語   桂文治    山路梅吉   五七 

 1939年夏、照葉と離婚をし、コンビ解消。『都新聞』(8月28日号)に、

 更に猫八・照葉の夫婦漫才は、夫婦別れをし、従つてこの漫才コンビも決裂、猫八はこのため目下相手を懸命に物色中だとある。

 その後は「関東八千代」という人物と再婚し、再スタートを切った。

 戦時中まで活躍をしたが、敗戦に伴い焼き出されて山梨に帰った。

 戦後は「関東猫八一座」を率いて、活躍。『映画芸能年鑑 1947年版』に「関東猫八一座 福地村上吉田(業)巡回興行(代)柏木紅衛(組)個人」とあるのが確認できる。

 1948年8月に出された『新演芸』(11号)に「猫八は郷里で死去」とあるので、1948年頃に没した模様か。

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