関東猫八・照葉

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関東猫八・照葉

猫八(上)・照葉

人 物

関東かんとう 猫八ねこはち

・本 名 ??
・生没年 ??~??
・出身地 山梨県

関東かんとう 照葉てるは

・本 名 ??
・生没年 ??~??
・出身地 愛知県

 来 歴

戦前に活躍した漫才師。「猫八」という名前から、先日古今亭菊之丞氏が、ツイッターで、

 と、呟いておられたが、果たして「類似品」なのか、という所はある。大体、類似品ならば、中央に出て来ないはずなのに(エノケソなんかと名前を並べている辺りを見ても)、この関東猫八はれっきと活躍しているのである。

 そんなことを言ったら、類似品など腐るほど出てくることになる。中禅寺司郎は大辻司郎のパクリ、木下華声は徳川夢声のパクリ――などという偏屈論が通ってしまいかねない。

 ぶっちゃけた話になるが、落語家の名前だって、林家正楽のように東西に別れた事もあるし、桂仁左衛門のような名前もある。ドサ回りが悪用するパクリと意識してつけた名前(私淑的なるもの)という観点は、芸能史の中でもっと考えるべき事象ではないだろうか。

 古今亭菊之丞氏のような聡明な方でも、あやまる事はあるようだ。ただ、これが不見識というわけではない。仕方がないことでもある。むしろ、こういう芸人をないがしろにしてきた我々研究者に非があるのかもしれない。

 そんな関東猫八であるが、ラジオに出ていた事もあってか、その前歴をある程度把握する事が出来る。

「経済は大蔵大臣が日本一だが動物の鳴き真似は私が日本一です」とかつて時の馬場蔵相に氣焰をあげて可愛がられた関東猫八がお内儀さんの照葉とAKから初放送する、関東猫八は甲州の絹問屋の次男坊だが子供の時から富士山麓で動物の鳴き真似を練習し十八歳の時大阪の橘圓坊の門をたゝいて藝道への一歩をふみ出した、以来十年大阪、神戸に地盤を築いたが今度永住の目的で上京したのである

『読売新聞』(1937年3月26日号)

 橘圓坊は三遊亭圓坊ともいい、声色や雑芸などに秀でた人だったと聞く。当時、大阪の吉本には江戸家猫八が度々来演していた事もあり、何かしら関係を持っていた模様である。

 照葉は元々八千代と名乗っていた模様か。三遊亭圓生によると、元は名古屋の芸者だったそうで、

 あのゥ戦争前に、関東猫八というのが、大阪から先代をたよって、東京へ来たことがあります。色の白い、きれいな男で、関東八千代という女と組んで漫才をやる、そのあとで、やはりものまねをやりました。猫八という名前ですが、江戸家猫八とはまったく別ものです。この人のかみさんが、名古屋芸者なんですね。それで、うちの家内が、いっしょに買物に行ったことがある。そうしたら、家内が、あとで、
「なんでも、はいるところで、みんな値切るんで、あたしァもうきまりが悪くて……あの人といっしょに行くのはいやだよ」
 なんて言ってましたが、名古屋の人は、なんでも一応は値切ってみる。もしもまけたら、それだけ得だし、まけなくてもともとだというわけなんでしょうけども……。

 1937年3月26日、「物真似漫才」でJOAK初出演。当時ラジオに出演できるのは相応の実力と人気がなければ、無理だったので、人気を計るバロメータとしてみる事が出来る。やはり人気があったのだろう。そう考えると、猫八と名乗っていても格段ニセモノ扱いされてはいなかったようだ。

上記の記事に、「以来十年大阪、神戸に地盤を築いたが今度永住の目的で上京したのである」とあるが、その移住は、圓生の伝手を頼りに実現できたものだという。以来、浅草の劇場や寄席へ進出。物真似漫才の一組として、人気を博した。

 上京や仕事の斡旋で世話になった関係から、五代目三遊亭圓生を慕っており、その関係から六代目圓生一家とも仲が良かった。

猫八に貸した電話番号

昭和十二、三年ごろ、 先代が大変可愛がっていた関東猫八、照葉という動物の物真似をする漫才夫婦がいた。 猫八さんの住居が近かったせいもあってか、毎日のように顔を見せていたが、ある日改まって、
「師匠、ぜひ折り入ってお願いがあるんですが」
「何だい、言ってみな」
「師匠のお宅の電話番号を拝借したいんで」
「電話番号なんぞ借りて、いったいそいつをどうすんだ」

「師匠のとこの番号(四谷局五六二八番)が、私の芸名にぴったりなもんで、名刺に入らせていただきたいと思いまして」
猫八さんの家は同じ四谷区で近いといっても、市電か青バス(今の都バスのこと)で二停留所にある。
「いやァ、電話が掛かったらどうする」
「へェ、まっ、そんなこたァ滅多にないと思いますが、万一掛かりましたら留守だと言って下さい」
「フーン左様か、それでいいんならかまわねェから使いな」
次に来たとき、普通の倍もあるような名刺を持ってきて、
「師匠、お蔭様でできてきました」
「ホウ、仲々立派じゃねェか」
覗いて見ると、関東猫八、住所、の隣に電話番号四谷局五六二八番と、ありもしない電話番号を太目の活字で掘り込んである。
借りるほうも借りるほうだが、その名刺を見てよくできたというも誉めるほう。当時の芸人さんたちの洒落気、茶目気が思い出されてなつかしい。

山崎佳男『父、圓生』

 猫八と名前が被っている、という言説があるが、彼が主に活動した1930年代は、二代目猫八は、木下華声名義での活動が増えており、先年物故した三代目はまだ子供であった。そういう意味では、猫八不在の時分に特に悶着をおこすことなく、活躍できた、と言えよう。これで、本家が東京で大々的な活躍をしていた日には、「二人猫八」などという状態になったかもしれない。

 戦時中まで活躍をしたようであるが、戦後になると消息を絶つ。どうしたものか。

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