神ブラザース(神ゆずる・たかし・いちろー)

神ブラザー(神ゆずる・たかし・いちろー)

(左より)たかし・ゆずる・いちろー

富士たかし・ひろし(左)

 人 物

 かみ ゆずる
 ・本 名 前原 譲
 ・生没年 
1933年10月8日~没
 ・出身地 東京 虎の門

 かみ たかし
 ・本 名 伊東 孝
 ・生没年 1937年10月30日?(1935年説もあり)~?
 ・出身地 埼玉

 かみ いちろー
 ・本 名 上村 市郎 
 ・生没年 1930年3月5日~2008年7月8日
 ・出身地 北海道 札幌市

 来 歴

 神ブラザースは浪曲師三人によって結成された浪曲漫才グループ。神ゆずるは東家三楽、神たかしは末広友若の息子という浪曲師の御曹司という特異な出身で一時期はすさまじい人気を獲得した。

 ゆずるは四代目東家三楽の養子である。芝清之の『東西浪曲家第名鑑』に経歴が出ている。これで大体の経歴がわかる。

 東京芝虎の門の出身。父親は「一休和尚」の外題で有名な”東光軒宝玉”で、後に母親に連れられて初代東家若燕(現三楽)の許に行った。
 この母親も宝玉の妻であった一千代の弟子で富士栄子という女流浪曲家である。
 だから彼は、オギャーと生れたときから浪曲の中で育てられ、4歳頃から節を口ずさんでいたという。
 10歳の年に養父東家若燕の弟子となって”東家燕童”と名のり、その年に静岡で初舞台を踏んで”池田大助”を読んだという。何ヶ月か過って”若竹”と改名した。東家若燕一座で全国を廻って修業していたが、その頃若燕の支配人をしていた早川小燕平に若竹は芸を仕込まれた。
 戦後、民放の開始とともに一時華やかだった浪曲も、TVの出現しだした頃から急激に下降線をたどりはじめ、多くの浪曲家が廃業していった。若竹はその当時から、浪曲の舞台よりも、なにか浪曲芸を生かしたボードビルな芸を探求すべく、昭和31年に、これも浪曲家の父親末広友若の息子のたかしとコンビを組んで”神ブラザース”を結成した。1年ほどして島津一朗を加えて3人となり、島津がやめた同38年には南洲太郎をメンバーに入れた。同40年には太郎がやめて再び一朗が戻ってきたが、どうも3人ではうまくゆかず、同46年には元通りたかし、ゆずるの2人コンビで”神ブラザース”を10年間続けたが、ある事情があって同53年コンビを解消。以来“神ゆずる”の1人舞台で、司会、漫芸、浪曲と活躍、養父若燕が三楽を襲名した後に継承した”二代若燕”の名で浪曲の舞台を勤め、その他の場合は”神ゆずる”で通している。
(十八番)「二人書生」「快男児」「黒手組助六」「左甚五郎」

 実親の東光軒宝玉は、1898年10月20日、静岡県榛原郡出身。身延山で修業をし、富士山麓の寺で坊主をしていたが、浪曲の富士入道に入門して「富士小入道」と名乗った――という異色の経歴の持ち主であった。なお、宝玉は1994年3月24日、98歳で没している。

 ゆずるが生まれたころは売り出しの浪曲師で、お経を売りにした『一休禅師』で人気を獲得していた。

 浪曲師の息子に生まれたゆずるであったが、間もなく東家若燕の養子となり「前原」と名前が変わる。

 1943年、養父の若燕に弟子入り。父の一座に入って厳しく芸を仕込まれた。

 少年浪曲師として名を馳せ、戦後は民放の浪曲番組でも活躍。養父の薫陶もあり、頭角をあらわした。

 若い頃は養父譲りの演題のみならず、「涙の甲子園」というようなスポーツ物も読んでおり、若燕一座の人気者であったという。三楽にして「譲の声は声変わり前まで素晴らしいものであった」という。

 しかし声変わりで喉を潰したことや浪曲不振も相まって1960年末に、同僚の三門孝を誘って浪曲漫才を結成した。

 たかしも末広友若の息子。生年は諸説あるが、『日本タレント名鑑1981年度』によると「富士たかし(伊東孝)1937年10月30日 埼玉」。

 父・伊東秀雄は「末広友若」と名乗る人気浪曲師。東家楽燕門下の俊英であり、戦前はコロムビアレコードと専属契約を結ぶほど人気があった。

 そんな父を持った関係もあり、幼い頃から浪曲に囲まれて育った。

 しかし、父の友若は1945年8月24日、八高線列車正面衝突事件に巻き込まれ、夭折。大黒柱を失い、苦労する日々を送ることとなった。

 そうした中で「浪曲師になる」と志を立てたたかしは、父と親しかった三門博の門を叩き入門。「三門孝」の名を許される。

『浪曲道場月報』では「1953年入門」とあり、『芸通信28号』(1960年1月)では「芸歴10年目」とある。いずれにせよ、中学を出るかどうかのタイミングで浪曲師生活に入ったのは事実であろう。

 若い頃は新鋭として浪曲道場や新人コンクールで本選出場――と良い成績をおさめている。

 この頃の曲師が後の相方となる島津一朗であった。

 10年近く浪曲で食っていたたかしであったが、1960年代より始まる浪曲不況や自らの浪曲観の理想なども相まって、1960末年に色物へ転身した。

 同僚の東家若竹と手を組み、浪曲漫才「神ゆずる・たかし」を結成する。1961年1月には早くも浅草松竹演芸場に出ている様子が確認できる。

 それから間もなく、自分の曲師であった島津一朗を引き入れて「神ブラザース」を結成する。

 その辺りの事は以前発売された『ポケット浪曲・神ブラザース』の解説に詳しい。

最近の寄席ブームは、全く驚ろくばかりで、どのチャンネルを廻しても、一日に数回、落語、万才、トリオ物の出演を見ない日は無い。とげ〳〵くしい世の中に、一般大衆が、せめてもの罪の無い笑いを求めるからであろう。ボードビリアン、声帯模写、笑いを伴なう演芸が、今日程盛んであった事は有るまい。それだけに又、多くの新人が生れているが、この神ブラザースの面々は、決して新人では無い――。年は若いが、腹の中からの芸能人とでも言うのか、三人が三人共、親の代からの芸能人である……。父親が浪曲家で、母親が曲師と言う、ゆずるは、七才で浪曲初舞台を踏んだと言うから、真に天晴れなものである。たかしは、是も又、父親が浪曲家古い浪曲ファンなら先刻御承知の、末廣友若の息子で、戦前、コロムビア社が出していた大衆版、リーガルレコードの専属で、終戦間も無く、八高線の列車事故で惜しまれながら早世した、父友若の跡を継ぐ気で、三門博に入門、浪曲の修業を終えたが、たま〳〵巡り会った仲良しのゆずると意気統合、浪曲入りの万才に転向したが、そこへ又、たま〳〵現われたのが、三門博の三味線を弾いていた、いちろうで、二人で演ずるより三人、而も楽器を持つ事だと、三人の意見が一致した日から、ゆずるは、ウクレレ、たかしは、ギター、いちろうは持ち前の三味線と、夜の目も眠ずの勉強が、今日の神ブラザースを作り上げ、東京へ十日、大阪へ十日、残り十日を各地方への出演と、目の廻るような毎日を過している。

 1961年、三味線曲師の島津一朗が加入。島津一朗は難聴者というハンディを抱えながら浪曲三味線になった苦労人であった。

経歴は芝清之『東西浪曲大名鑑』に詳しく掲載されているので、ここではその概要を紹介する。

 札幌市で印刷業を営む家の五人兄弟の四男として生まれる。父は琵琶を習い、自分で演奏する腕を持った趣味人だったという。そんな環境で育ったこともあり、早くから邦楽に慣れ親しんだが、3歳の時に誤って浴槽に転落、それがきっかけとなって中耳炎に罹患、左耳の聴力を失い、右耳も難聴になってしまった。
 その頃、浪曲に出会い、結果として彼の生きる道となった。6歳の時には寿々木米若の節真似をするようになり、また北海道に巡業をしてきた浪曲師・広沢虎奴の舞台を見て、浪曲師を志す。 
 小学校、中学校を経て、農学校に進学。勉強の傍ら、浪曲の勉強もはじめ、感謝祭で披露した『赤城の子守唄』が絶賛され、自信を得た市郎青年は学校を退学し、本格的に浪曲師の道を志す。父親も「浪曲師になって全国を回れば耳を直してくれる人がいるかもしれない」と思い、入門を承諾。
 16歳の時に広沢虎奴に入門。以来、虎奴と道内を巡業し、修行に励む。18歳の時に曲師を失った虎奴の代理で三味線を弾くようになる。
23歳まで虎奴に付いていたが、さらなる高みを目指して虎奴と相談した末に上京。
 上京後、『唄入り観音経』などの浪曲で一世を風靡していた人気を集めていた「三門博」に再入門。博は市郎の三味線の腕を見抜き、曲師になる事を勧めた。その助言に従って曲師に転向。
 以来、三門一門の曲師として活躍したが、浪曲衰退を受けて神ブラザースに加入した。

 ゆずるがウクレレ、たかしがギター、いちろーが三味線を抱えた王道を行く浪曲トリオであり、演題も浪曲のネタをもじったものが多かった。浪曲の節を入れながら、ドタバタのコントや所作を入れ、人気を得た。

 1960年代初頭の人気はすさまじく、東京を代表する歌謡漫談であった。

 1963年、島津一朗が脱退し、当時売り出しの漫談家であった南洲太郎が加入。しかしそのトリオも1年と続かず、3人目はとっかえひっかえとなった。東家次郎も所属していたことがある。

 1965年に再び一朗が参加。

 1968年頃、たかし、一朗は東家次郎とともに「東京バンバン」を結成。神ブラザースは分裂状態に陥った。

 東京バンバンについてはまた別項を立てる。

 1971年、東京バンバンの解散に伴い、ゆずる・たかしのコンビを結成。この辺りの事情は結構迷走しており、いつ誰がいたのか判然としない。ゆずるとのコンビで浪曲漫才をやりながら、歌謡曲にも挑戦。

 この頃からゆずるは浪曲復帰を考えていたらしく、1972年に父の若燕が「四代目東家三楽」を襲名。若燕の名前が空いたことにより、「二代目東家若燕」を襲名。

 爾来、浪曲師として舞台に出る時は「東家若燕」、それ以外では「神ゆづる」の名義を使い分けた。

 1975年10月にはキングから『女の償い・男』なるレコードを発表している。曲自体は今も聞くことができるが、ガッチガチの演歌で、如何にも骨太で男っぽい唄声と歌詞を堪能することができる。

 1978年限りでコンビを解消。10年近いコンビが終わった。

 ゆずるはその後、浪曲師として復帰し司会漫談と浪曲師の二枚看板で活躍した。

 1990年代前半まで健在が確認できるがその後、父・三楽に先立って亡くなったという。晩年は病気がちだったという。

 1998年に今の若燕(小柳丸)がデビュー、2000年に『月刊浪曲』で「東家三楽の今日も熱演」と題した聞書きが出た際、「東家若燕は惜しい事に先年没してしまった」という旨の記載がある。

 一方のたかしは浪曲界に戻らず、ギター漫才師に転身。

 冨士ひろし(本名・坂井秀夫、1954年7月14日 北海道生まれ)を誘って、「富士ひろし・たかし」を結成。

 それぞれギターを持って演奏する音曲漫才をやっていたというが、どこの協会にも所属しなかったこともあり謎は残る。なお、昭和末には、高座から消え、消息不明となってしまう。

 唯一芸能界に最後まで残ったのが島津一朗であった。

 一朗は東京バンバンに長らく在籍し、たかしや東家次郎が去った後もその看板を守った。

 1970年代には、條アキラ(條亜希良)と「東京バンバン」なる音曲コンビを結成。一朗が三味線、アキラがギターを抱えたコンビであった。

 1976年頃まで、アキラとコンビを組んでいたが、アキラの引退に伴い、ピン芸人に戻る。

 アキラとのコンビ時代に知り合った三味線奏者、三浦笹舟(本名・瀬戸口清 1919年11月14日〜? 鹿児島県下新町出身。元薩摩琵琶奏者で三門博の友人)の「十六味線」に感動し、笹舟より手ほどきを受ける。

 1977年10月独立して、三味線漫談として舞台へ立つようになる。十六味線は三味線を改良した楽器で、三味線では出せない音域と荘厳さを持ったものだったという。

 長らく東京ボーイズ協会に所属し、色物席に出演し「浪曲アラカルト」「十六味線」という看板で活動していたが、1990年代に請われる形で浪曲三味線に復帰し、再び曲師として舞台に立った。

 晩年、三門柳が『唄入り観音経』を演じる際にはこの島津を指名するほどであった。

 難聴というハンディキャップを抱えながらも、鍛え上げた三味線の腕を遺憾なく発揮した。

 長らく一門流派問わずに浪曲師を支え、曲師の長老の一人として活躍していたが、2008年7月8日に死去。

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