あきれたトリオ(清水アキオ・松浦タケオ・津山ヒデオ)

あきれたトリオ
(清水アキオ・松浦タケオ津山ヒデオ)

上から津山・松浦・清水

 人 物

 清水しみず アキオ
 ・本 名 柏崎 照夫
 ・生没年 1931年~??
 ・出身地 栃木県

 松浦まつうら タケオ
 ・本 名 大久保 純員
 ・生没年 1938年4月1日~??
 ・出身地 長崎県 松浦市

 津山つやま ヒデオ
 ・本 名 大立目 秀彦
 ・生没年 1937年~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 あきれたトリオは戦後活躍した歌謡漫談トリオ。ドラム・ギター・アルトサックスという組み合わせが売り物で、独特の演奏で人気を集めた。後年、メンバーを増やし「あきれたダンディーズ」と改名したが、初期メンバーの松浦タケオが脱会し、玉川カルテットへと合流する事になる。

 本名は山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』より割り出した。山下氏は当時の名簿を持っていたらしいので、この点は間違いないだろう。

 あきれたトリオ
 浅草軽演劇はなやかなりしころ活躍した、あきれたボーイズのようになりたいと、あやかってつけた名が「あきれたトリオ」です。
 結成して七年ぐらいですが、現在のメンバーになってからはまだ二年目というわけです。
 清水アキオ(ドラム)
 軽演劇をやっている時、ドラムを習い、藤島桓夫のバンド(マーキュリーレコード)でドラムをたたいているとき、何か面白いことをやりたいなァ、それにはボーイズがいいだろう……と 決心して、バンドをやめてやり始めたのがきっかけです。
 津山ヒデオ(アルトサックス)
 奇術の松旭斉天佐一座でバンドをやり、また時代劇の芝居をやっていたことともあります。友人からの紹介で知り意気投合、トリオにはいりました。
 松浦タケオ(ギター)
 テイチクの作曲家について歌の勉強して、ステージに出演していたころ知り合い、楽屋にいてもなかなかいいセンスをもっているので、ボーイズをやらないかとすすめたところ、これまた意気投合、三十九年十月に加入したわけです。(清水アキオ・記)

 また、『週刊サンケイ』(1966年9月5日号)の「3秒に1回笑わせるトリオブーム」という特集の中に、三人の経歴が出ている。

 多彩な楽器入りで登場するのはが、あきれたトリオ(三十八年結成)。ドラムが清水アキオ(三二)、ギター松浦タケオ(二五)、アルトサックス津山ヒデオ(二六)の三人組。売り物は、例の「隣の客はよく柿食う客だ。こっちの客もよく柿食う客だ。あきずにまたよく食う客だ」
「巣鴨か駒込かあの子とデートは巣鴨か駒込か」
 これを早口で歌で歌う。
 リーダーの清水は、栃木県の産で、父は剣道七段で道場を開いている。しかしむすこは岡晴夫にあこがれて家出、ドサ回りの楽団にはいってタイコたたきをやってきた。
 アルトサックスの津山は、小学校いらいの音楽狂で、十八歳で軽演劇の一座にとび込んだ。
 最後の松浦も家出少年で、長崎の大工の棟梁のむすこ。歌手の北島三郎にあこがれて、中学を卒業したあと家出したが、歌ではモノにならず、今日にいたった。

 松浦タケオは元々船村徹の弟子であった――と、関係者から伺った。「松浦さん、当初は浪曲嫌いだった」との由。

 芸名は「松浦」の生まれなので、松浦タケオと名乗ったよし。

 古参メンバーはリーダーの清水で、「あきれたトリオ」という名前自体は古くからあった模様。メンバーの変遷も激しく追い切れていない。

 一応の形になったのは、1964年10月とみるべきだろうか。

 歌謡漫談にしては本格的な演奏と唄が売り物であったそうで、主にキャバレーで高い人気を集めた。

 松浦の顔の拙さをいじったり、三人で「隣の客はよく柿食う客だ」「巣鴨か駒込かあの子とデートは巣鴨か駒込か」という早口言葉をリズムに合わせて唄う――など、華やかな芸を売りにしたという。

 1965年、ボーイズ協会の結成に携わり、初期メンバーとなった。

 華やかで見栄えのある所から演芸番組にも呼ばれるようになり、演芸ブームに便乗する形となった。普通に人気はあったらしく、「大正テレビ寄席」のプロデューサー・山下武もトリオの思い出を記している。

 1967年2月、ぴんぼけトリオから漆原伸を引き抜き、カルテットとして出発。名前も「あきれたダンディーズ」と改名している。この引き抜き事件のせいで「ぴんぼけトリオ」は瓦解してしまった。

 この辺りの事情と課題は『キネマ旬報450号』(1967年10月)掲載の「テレビ寄席の芸人たち」に詳しい。

 ようやく、そしてやっと精彩を発揮してきたあきれたダンデイズなるボーイズに焦点を合わせよう。
 だいたいボーイズ(歌謡漫談)というグループは、今まで実に良く解散を結成して来た。 メンバ ーのうち誰かがぬけてゴタゴタし、そして誰かが入って再び改名して発足し……といった傾向が強いわけだ。
 そこへゆくと、岡、邦、の三人のくむシャンバローのキャリアは称賛にあたいするが、これとてもブラウン管より、がぜん遠去かってしまっている。
 さて、このあきれたダンデイズ だが、アルトサックスの漆原が、 ピンボケ・トリオというグループからぬけて、再度”あきれた”に加入したところから……がぜん精彩が生れて来た、と筆者は見た。
 あきれたトリオという旧名から四人となってダンデイズに改名したことがまさにダンディな味になって来たようである。
 さて、さて、である。 漆原の持つクサミのある芸が、 今までのジミな、生活の香りすら 感じたこのトリオを、大変派手なものにした点は大いに買うが、将来、しかも近い将来に、このクサミのある大柄な芸が、マタマタ、このボーイズを破局に導かないかと不安に思う点が、時折、舞台に顔を出してくるのは如何?
 リーダーが、リーダーの顔とか味を出しすぎると、イヤミでしょうがないように、大柄な芸がそのまんま、ムキ出していつも出ていると、折角精彩を発揮してきたかに見えたグループが、そのまま泥クササとなって、客席をおそうことになるから、気をつけなくてはいけないと思う。
 派手さが出たということと、コミック・バンドにない演芸ものらしい面白味のあるバンドのお喋りという点で、このあきれたダンデイズなぞはキャリアの如何を問わず、新人としてドンドン精進すべき立場にいるはずである。
 ただ、このままいってはダメだ。
 喋る工夫を要求したい。
 バンドマン出身の清水と漆原、それに歌い手出身の松浦(この松浦君の顔のマズさを生かせたら、もっとブラウン管は喜ぶと思う)、演劇出身の津山もそれに乗じて朴トツとしたローカル色を出せば、ネタの展開は子供にも大人にも喜ばれると思われる。
 意欲を出して自分を作りあげること、つまり自分で自分を工夫することが一番のぞまれる時期にきているぞ、ということだ。
 ボーイズがコミック・バンドにおされて、影が薄くなっていくのは、
「なにしろコミックバンドの 連中は楽器もある程度そろっていて……第一楽器に金かけてるも な!」
 テナ台詞をきく。冗談ではない。ボーイズには、立派に「喋る」という武器……いや「喋れる」という営業品目があることを忘れられては困るのだ。
 そういう意味で筆者は精彩のよ うやく出て来たあきれたダンディズをこの俎上にのせて、今が奮起一番の時であることを喋り、あわせて、どうかこの辺で、ボーイズの面白いグループが発展してくれと頼んで、彼らに苦言を弄したわけだ。分ってくれ、”あきれた”に限らずボーイズの諸兄よ!
 喋って面白いボーイズに期待するぞ!

 しかし、この再編成はうまくいかなかったとみえて、メンバーの脱会・加入が激しかった。結成一年でメンバーが五人になっていたというのだから呆れたモノである。

 1968年夏ごろ、松浦タケオが脱退。

 脱退した松浦はピン芸人として渡り歩いていたが、玉川カルテットを率いていた玉川ゆたかが「うちに来てくれないか」とスカウト。当初は「浪曲が嫌いだから」と断っていたが、結婚して間もないこともあり、玉川カルテットへ入ることになった。

聞いた話によると「スカウトに来た時、ゆたかさんは帰る直前、座っていた座布団の中に三万円を置いて帰った。これを妻が知って、『これだけ心配してくれる人なんだから』と加入を勧めた。背に腹は代えられぬそのまま加入した」という。

 その後、千葉で玉川カルテットの仕事がある事を知り直行。「唄しか歌えない」と一度は謙遜したものの、「それでもいいから」と入る羽目になった。

 その後、浪曲の良さを見直し、三波春夫や村田英雄などの歌謡浪曲を勉強。あの朗々たる美声と「忍者ハットリくん」「バカボン」と評される愛嬌のある顔で一世を風靡した。

 残された二人は引き続きあきれたダンディーズを率いた。1970年代まで活躍したようであるが――

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