永田一休・繁子

永田一休・繁子

永田一休・繁子

永田一休・繁子

人 物

 人 物

 永田ながた 一休いっきゅう
 ・本 名 長田 劦
 ・生没年 ??~戦前?
 ・出身地 山梨県 甲府

 永田ながた 繁子しげこ
 ・本 名 長田 しげ子
 ・生没年 ??~
 ・出身地 ??

 来 歴

 永田一休・繁子は戦前に活躍した夫婦漫才師。一休の名の通り、坊主頭を売り物にした不思議な漫才師であった。後年、コンビ別れをし、妹、弟とコンビを組みなおすという変則的なコンビを結成した。

二人の前歴

『都新聞』(1935年8月12日、13日号)の「漫才銘々傳」によると、一休は郷里の山梨で糸繭売買などの仕事をしていたが、声が良い事に気をよくして、ドサ回りの壮士芝居に身を投じたのが芸界入りの振り出しというのだから古い芸人である。

 ドサ回りの壮士芝居ではいつまで経ってもうだつが上がらず、「昭和会」なる安来節漫才一座に移籍。その一座で歌や漫才を覚える傍ら、北海道や東北、北陸を巡業していたという。

 一時は浪曲への転向も考えたが、結局は本格的に漫才の道へと進むことになった。

 繁子は「昭和会」を主宰していた座長の娘で、永田女一休、永田和尚の姉に当たる。

結婚と漫才転向

 入団してきた一休と仲良くなり、結婚。夫婦仲良く巡業を続けてきたが、1929年頃、昭和会が(一休入団後、3年ほどして)解散したのをキッカケに、上京。

 伝手を求めて、浅草の帝京座に入った。『漫才銘々傳』に、

この昭和會時代に彼は太夫元から浪花節を頻に勧められた、郷里にゐる頃は浪花節も好きで大いに唸つたものだが、さて當面の問題となつて見ると、既に女房あり、子供も出来ようといふ頃になつてから出發し直す浪花節修業では、却て出世が困難だらうそれよりは漫才の方が手ツ取り早くていゝと、これで進む事に決心したが、その頼みにする昭和會も、三年程ゐて解散したので、女房と共に上京、傳手を求めて浅草帝京座へ入つた、六年程の事だ

 上では「六年前」とあるが、1929年頃の広告を見る限りではその名前を見つける事が出来ない。前座のような形で働いていた模様か。

 但し、1930年には早くも東京の舞台に立っており、漫才をやっていたのは事実である。『都新聞』の広告で確認できるだけでも、

▲江川大盛館 丗一日より 丸一信太郎、新太郎、萬歳永田しげよ、一休、栗島安子、出雲友衛、都家小歌、吉三、櫻川張玉、獨唱神鳥みち子、プリンスレヴュー團一行新加入に虎造も出演 (10月31日号)

▲萬歳研究会廿一日夜より五反田第一大崎館に、出演者は 源一正三郎、染次染團治、もと子圓十郎、三代孝亀八、談之助源六、百々龍小源太、繁子一休、松江大正坊主 (11月21日号)

 などといったものがある。しばらく東京で活動を続けていたものの、当時の漫才に対する偏見や東京漫才の未熟さも相俟って、あえなく挫折。

 東京を離れ、長い巡業生活を送る事となった。『漫才銘々傳』によると、

それからまた長い間旅を廻つて去年の九月玉木座へ出、續いてこの夏から東京の初舞臺だつた帝京座の舞臺へと立つたといふのが彼の経歴だが、彼は一休といふ名前とあのイガクリ頭と坊主臭いとがさう感じさせるやうにどうも舞臺以外ではユーモアもナンセンス味もない

 巡業中の記録は少ないため、どういうルートを辿ったのかまでは不明。 1934年9月、帰京。一躍、人気漫才師として迎え入れられる。帰京後間もない『都新聞』(11月24日号)の広告に、

▲特選万歳會 廿四、廿五両夜南千住柳亭に 源一、五二郎、チャップリン、金之助、次郎、勝之助、〆坊、昌介、一休、二郎、松緑、花奴

 当時の人気漫才師たちと肩を並べるまでに成長した模様である。

 芸名の通り、丸坊主で洒落っ気のある一休と達者な繁子による絶妙な掛け合いと一休の美声が売り物で、大空ヒットは『漫才七転び八起き』の中で、

 永田一休という人の声の出し方の上手さはひとしおものだった。もうこれ以上でないだろうと思うようなとき、それを突きぬけて高い音がスッーと出てくる。これは拍手ものだった

 そう絶賛している。

コンビ解消と戦後

 その後も浅草を中心に舞台を務めている様子が確認できるが、1939年頃、なぜかコンビを解消。一休は義弟と「一休・和尚」というコンビを、繁子は実妹の女一休と「繁子・女一休」を結成。籠寅興行部に所属した。

永田女一休・繁子

(引用 國學院大學 招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究

 1943年、帝都漫才協会設立に伴い、それぞれのコンビで入会。しかし、繁子は死に、一休も脳卒中を患い、戦末期~終戦直後まで、寝込むこととなった。

一休の再起と晩年

 1950年頃、復活をして、「一休・和尚」のコンビで浅草の劇場や巡業などに出演。晩年の動向が、『アサヒ芸能新聞』(1954年4月2週号)に出ているので引用。

                 永田一休 和尚

 一休が例の丸坊主頭で舞台に現れると、当人一言もしゃべらぬ先に客の方でゲラゲラ笑い出す。天来才人として具備しているものがあるのは一得だ。
繁子・一休コンビとして古い唄う漫才で、浅草では相当の人気があった。その頃浅草であげた看板は日本全国に通用したもの。当時繁子にしても一休にしても、その美声で得意の民謡を一節唄っただけで客は完全に引きつけられてガタともいわなかったそうだから大したもの。
 繁子が戦時中病没したあと、一休もその名の如く中風気味で一休みしたので、戦後のスタートは相当おくれたわけだが、健康回復とともに義弟を引っぱり出して和尚と名づけ男同志の立体が生れたのである。
 ネタは「キンばなし」「ツメ割れ動物」など古い内容でやっているが、一休のボケぶりのあっぱれさ、対話のイキの絶妙さで漫才の持つ本質的なユーモアを発散、関西でも随分と人気のある由。

 間もなく引退した模様。

 なお、1981年付の極楽寺の物故者名簿には夫婦仲良く(女一休も)名前が掲載されている。

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