立花家色奴・小奴

立花家色奴・小奴

 人 物

 立花家たちばなや 色奴いろやっこ
 ・本 名 伊藤 とり
 ・生没年 ??~没
 ・出身地 東京

 立花家たちばなや 小奴こやっこ
 ・本 名 伊藤 蓉子
 ・生没年 1935年頃~ご健在?
 ・出身地 東京

 来 歴

 立花家色奴・小奴は戦後活躍した漫才師。色奴は元々「唄の家いろ奴」と名乗る女流噺家の走りであったが、三代目三遊亭円遊に嫁いだ。小奴は円遊と色奴の娘で、戦時中父が死んだために戦後、母と共に高座に現れ、女道楽とも女流漫才ともつかない不思議な芸をやっていた。後年は赤坂芸妓になった。

 本名は1953年度の重宝帳より割り出した。

 色奴の詳しい経歴は謎が多く残るが、踊りや三味線を得意としたところを見ると若い頃からの芸妓か女芸人であったようである。

 どういうコネがあったのか不明であるが、真打昇進したばかり(1920年4月)の三遊亭歌奴(二代目円歌)に入門し、「歌の家いろ奴」の芸名をもらう。歌奴からしてみれば本格的な弟子ではなかったものの、一番弟子に等しい存在であったようである。

 1922年7月、東西落語演芸会からデビュー。『都新聞』(1922年7月15日号)の広告に、亀井戸長楽館、八丁堀菊松亭、本郷梅本亭で「いろ奴」名義で高座にあがってる様子が確認できる。

 女流落語家の走りとして活躍したものの、扱いはどうも色物だった模様か。当人もそれを自覚していたのか、華々しい着物やドレスを着て高座に上がり、小噺や軽い噺を演じた後、音曲や踊りを演じていた――という。

『都新聞』(1923年7月27日号)に――

◆同じ派の娘落語、歌の家いろ奴、先ごろまでは皮の鞄をぶらさげて掛持をしてゐたが最近は絹ドレスでつくつたペラッパック式のに改正してニタリ/\はて心得ぬ

 震災後は、金馬・歌奴師弟が独立して作った「柳三遊演芸会」に所属。

 1924年9月に「柳三遊演芸会」が東京落語協会に合併された後は落語協会に入ったが、1925年頃になるとあまり高座に出なくなる。

 その後、大名跡「三遊亭円遊」を継いだ伊藤金三と結ばれ、夫婦となった。これを機に一線を退いた模様か。

 1932年には、伊藤親利を生む。この子は「海老一菊蔵」と名乗り、海老一海老蔵門下の曲芸師となった。

 1935年には、伊藤久子が誕生。この子が「立花家小奴」である。

 長らく第一線で活躍する夫を見守っていた色奴であったが、その夫も病気や戦時中の統制で落語界を離れ、幇間になってしまった。

 1945年3月の空襲で柳橋の家を焼き出され、一家で青砥に疎開したものの、ここで夫・円遊は病を得て、夭折。色奴は子供を抱えて終戦まで生き延びた。

 戦後、小奴に芸を仕込み、父の知人が多かった日本芸術協会に参入。「女道楽」「少女漫才」という建前で高座に現れるようになった。

 戦後間もない1946年の冬、『アサヒグラフ』(11月5日号)の『寄席芸人告知板』に――

娘手踊り 立花色奴、小奴 この春頃から、上野鈴本あたりに現れ、小奴でございとお得意の「おいとこさうだよ」なんかをおしゃまな手つき、身ぶりで踊る十二の女の子がゐる小文治に云はせると寄席出演者の中で東京年少の女の子だとか 噺家上りの親の奴が三味線に頼ってゐるか時代よりずっと収入多くなったようだ

 おっとりとした色奴に、生意気で達者な小奴が売りで、小奴が色奴相手にポンポン毒舌を吐くのが売りであったという。

 高座に出るなり、色奴に向って「ねえ婆や」といったり、「本は読まなきゃいけませんよ」「アタイも本を読んでいます」「何を読んでいるんですか」「夫婦生活よ」と、大人顔負けのことを言って観客を爆笑させた。

 俳優・小沢昭一が末廣亭に出た際の公演をまとめた『新宿末広亭十夜』の中にわずかであるが、色奴・小奴の記録が出ている。

また音曲師で思いだしました。この末広亭にもよく出ていた、色奴小奴って人がいた。親子なんですよ。おっ母さんが三味線を弾き、娘の方がいろいろ歌をうたう。それがね、こんな小さいんですよ。小学校を出たか出ないかというぐらいの子が、おっ母さんの三味線で歌う。可愛いんですよ。

〽梅がえの手水鉢 たたいてお金が出るならば もしもお金が出るならば そのときゃ身請けを是非頼む(笑)

というんですが、小学生で身請けというのがわかるんですかね。(笑)でも、この方は、後に赤坂の芸者さんになりまして、大売出しでございましたから、歌ってたとおりに、身請けされたかと、(笑)それはわかりませんけどね。

 若い頃の美貌は売りだったそうで、三遊亭歌奴と桂伸治が取り合うほどであったようである。

 また数少ない少女であり、芸も達者な事から三遊亭円馬や桜川ぴん助演じる大喜利の芝居によく駆り出され、主演級の役を演じている。

 しかし、10代の坂を超えると少女漫才の面白味が薄れ、小奴も将来の事を考えるようになった事もあってか、寄席の出番も少なくなった。

 1952年1月、当時の人気雑誌『少女』に、同じく少女漫才の都家福丸と共に「少女漫才 あーらおめでとう」として掲載される。

 1953年5月、新宿末広亭下席に出演したのが最後の寄席出演だろうか。

 その後、「旅行」「休席」が続き、1953年7月限りの番組表からいなくなる。事実上の解散といっていいだろう。

 色奴は完全に引退し、静かな余生を過ごして間もなく没したという。

 一方、小奴は赤坂芸妓に転身し、「久子」の名前で売れに売れたという。『新宿末廣亭うら、喫茶「楽屋」』の中に――

 昭和二十年代にいた色奴・小奴さんは「吹き寄せ」で出てて、娘さんの小奴っていうのが今、 久子ちゃんって言って赤坂の芸者さんの大姐さんっていうのは前に言いましたよね。
 その小奴ちゃんを、今の三遊亭圓歌師匠と先代の桂文治師匠が若い頃に競争して追っかけま わしてたの(笑)。ずいぶん前だけど、東京新聞に赤坂踊りの総踊りが載っかってて、いちばん前で久子さんが踊ってたから、「圓歌師匠、これ」って見せたら、「ああ、ありがとう」って喜んでた。「これ小奴ちゃんだよ」「ああ、そうだなァ」って喜んでましたよ。

 小奴氏は2019年頃健在であったが「一切話す気はございません」と取材NGであった。今も健在らしいが――

 墓は谷中・啓運寺にあるのだが、墓碑銘は記載がなく(住職に聞いたが「遺族が彫っていない」との由)、「伊藤親利・蓉子建立」とあるだけである。謎が多い。

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