サイクル松林

実演中のサイクル松林
人 物
人 物
サイクル 松林
・本 名 松林 康彦
・生没年 1946年7月5日~1997年6月28日
・出身地 長野県
来 歴
サイクル松林は浅草を中心に活躍した一輪車曲芸の名人。松林桂右・高原妙子の息子ということで採録した。自転車・一輪車を乗り回す芸で人気があった。
ご遺族のお話が大変参考になった。ありがとうございます。
両親は松林桂右・高原妙子。関係者の話では「両親が芸人になって間もない頃、長野県下を回っている時に結婚してできた子供ではないか」とのことであった。
幼少期に上京。父母に従って北区に住むこととなった。以来何十年にわたって同区に住んでいた。両親の影響で早くから芸能人や演芸家との付き合いを得ていたという。
高校在学中、一輪車曲乗りのミッキー山本に入門。16歳からこの世界に入った。その辺りの事情は神津友好『にっぽん芸人図鑑 珍芸・奇芸・名人芸』に詳しい。
サイクル松林は すでに引退したが東京漫才の長老、松林桂右、 高原妙子コンビが両親。十六歳のときに自転車曲乗りの名人ミッキー山本に弟子入り。師匠は「芸はぬすめ」と、なに一つ教えてくれなかった。
独学で一輪車のショーをくみたて、米軍キャンブまわりから、ようやく昭和四十年に船橋ヘルスセンターで初舞台、生活するために一日二十回もステージをつとめて、帰りに足が動かなくなることもあった。
現在、太神楽曲芸協会員だが、最近の学校などにおける一輪車の普及でユニサイクルインストラクターとして技術指導の仕事も多い。年季が見えるブロのステージ。昭和二十一年長野生まれ。
なお、1965年初舞台とあるが、1963年の出演者名簿にはすでに名前があり、「太田プロ所属」とある。デビューはもっと早かったのだろう。
また、『日本演芸家名鑑』などを見ると、1964年にモンキー三平から自転車曲芸を習うと書いてある。一輪車・二輪車の両方を乗り回すことができた。
なお、『商売繁昌 昨今職業づくし』によると、モンキー三平1908年頃の生まれで7歳の時から家業のサーカス団に関与し、曲芸を会得。世界中を回るサーカスの芸人となった。後に自転車曲芸と猿回しに専念するようになり、戦後は猿回し一本になった。1960年代、「モンキー三平」の芸名で人気を築き、自身の操る猿の三平は歌手・タレントよりも高額なギャラを取る「日本一金持ちな猿」の異名で知られた。
ただ、サイクル松林はあくまでも曲芸の弟子だったらしく猿回しは演じなかった模様。
修業時代は生活費をねん出するためもあってか、松林桂右の弟(サイクルから見れば叔父)がやっている商店に出入りし、そこで1年ほど働いていたという。
ただ、当人はほとんど芸能活動をしているそぶりは見せなかったようで、ご遺族曰く「自分がまだ幼い頃に康彦さんは家の手伝いに来ていましたし、自分たちも康彦さんの家によく出入りしていましたが、康彦さんが芸人だったってのは相当後になって知りました」との由。
10代の頃より船橋ヘルスセンター、浅草松竹演芸場を根城にキャバレーや米軍キャンプで活躍。アクロバットで語学の壁のない芸は高く評価されたという。
2メートル近くある大一輪車に乗り回したり、一輪車や二輪車を乗り回しながらお手玉をしたり、リングの取り分けをしたり、口にナイフをくわえてリンゴをキャッチする芸――と人間離れした曲技が十八番であった。
1968年に一光企画へ移籍。1970年には今井芸能へ移籍しているが、後に太神楽曲芸協会の会員におさまっている。
当人のインタビュー記事などを見る限りでは海外遠征にも出たことがあるという。やはり人気はあったのだろう。
しかし、1970年代以降に入ってキャバレー全盛が下火になり始めると方向転換を迫られた。『江戸里神楽の源之助』の中で――
例えば玉乗りとか一輪車。会員にも江川マストンの玉乗り、サイクル松林の一輪車があるんだが、お客があまり驚いてくれない。小学生が一輪車を上手く乗り廻してる時代なんで、無理もありません。
と記されているが、曲乗りが珍しくなくなったのもダメージであったという。
そうした中でサイクル松林は「一輪車インストラクター」という肩書で、学校現場やクラブ活動に出入りをするようになり、一輪車の講師として活動するようになった。
1985年の『日本演芸家名鑑』の中でも――
<ひとこと>
一輪車曲芸で早や22年、一輪車は曲芸だけでなく、学校や一般の方も興味をもつ人が多くなっている。現在、私も一輪車のインストラクターコーチをしている。そのために反対に反省され、芸の方に生かせる。
この先も、芸にみがきを掛けていきたいと思います。
とインストラクターとして活動している旨を公言している。
1986年、森直実主宰の「野毛大道芸ふぇすてぃばる」に出演。脚光を浴びた。当日の客としてやってきた評論家の平岡正明は『平民芸術』の中で――
拍手と歓声が上ったほうをみると一輪車曲乗りのサイクル松林が路上に出るところだった。彼が舗道に乗りだしたとき、観衆はパドックから出るレーシングカーを送り出すように歓呼したのである。彼の芸は口に長剣をくわえ、長剣の先に棒を立て、棒の先にランプを置いて火を灯し、その形で一輪車に乗るのだ。微妙なバランス。ちょっとでもスリップしたらあぶないだろうに。
その後、没する直前の1996年大会まで出演した模様。
1986年1月27日、コメディシアターで開催された『花王名人劇場 お待ちかね!一芸名人集PART9』に出演。これは今も映像が残っているはずである。出演者は以下の通り。
ちんどん早替り(岡本和彦)、なーんでかフラメンコ(堺すすむ)、夢芝居パート3(桂小枝)、一輪車(サイクル松林)、江戸太神楽(翁家和楽・小楽)、コントマイム(吉沢忠男・神山一朗)、四コマ漫才(パート2健四郎・勝也)、子もり唄(納富俊郎)、曲独楽ショー(筑紫こま鶴)
後年は珍芸ブームなどに乗じてテレビや博覧会の舞台にも出演。ジャパンエキスポ富山や浅草のストリートパフォーマンス大会に出演するなど、古き良き一輪車曲芸の名手として気を吐いた。
活躍が期待される矢先の1997年6月28日、51歳の若さで死去。父・松林桂右よりも先に亡くなったという。『東京かわら版1998年版』に――
サイクル松林が死去
太神楽曲芸協会に所属していた一輪車曲芸のサイクル松林が亡くなった。五一歳。昭和二二年七月五日、 長野県生まれ。昭和三七年に一輪車曲乗りのミッキー山本に入門、昭和三九年にモンキー三平に二輪車曲乗りを習う。その後もキャバレーなどに出演しながら修業を積んだ。野毛の大道芸には初回から参加し、活躍していた。