條アキラ・アサ子
若き日のアキラ・アサコ
人 物
條 アキラ
・本 名 矢島 昭
・生没年 1928年1月2日~没?
・出身地 東京
條 アサ子
・本 名 矢島 ?
・生没年 1930年代?~没?
・出身地 ??
来 歴
戦後活躍した夫婦漫才。戦後間もない頃(ハワイアン音楽が流行る前から)スティールギターを舞台で演奏するという斬新すぎる漫才で注目を集めたと聞く。条アキラ・アサコ、アサ胡とも書く。
アキラの父親は三遊亭円福(矢島光造)という百面相の芸人で晩年は万年前座として知られた人物であった。この人の晩年は『談志楽屋噺』に詳しく、『立川談志遺言大全集14』の中でも――
「三遊亭円福」。百面相というよりも、変装術だった。アナクロが楽しかった。いいひとだった。よく仕事を貰った。息子さんが漫才を演っていた「条あきら」、で奥さんと漫才。男女漫才。
と明記されている。円福は古い人で、明治末から1950年代後半まで、百面相の芸人として活躍していた。
ただ、新山ノリロー氏や若葉茂氏の証言では、「アキラはとんぼ芸能っていう芸能社の息子だった」との事で、若干の齟齬がある。
もっとも、七代目雷門助六のように芸人の傍らで興行師をやっていた例もあるので、父親の円福もまたそのような人物だったのかも知れない。幼い頃から芸能に囲まれながら育ったという。
『文化人名録』(1967年・13版)には「短大卒」とあるが、どこを卒業したのかは不明。
戦時中は青年兵として召集され、随分と厳しい兵隊生活を送ったそうで、元相方の源氏太郎氏によると「アキラは左耳の難聴で随分苦しんでいましたよ。確か上官にぶん殴られた際に鼓膜が破れて、その後遺症とかいっていました。」
終戦――復員後、漫才師となる。
源氏太郎氏によると「浅田家章吾という漫才がいて、この人の弟子になったとか聞いたことがあります。相方のアサちゃんはその章吾の弟子筋で、アサ子のアサは浅田家のアサから拝借したとかそんな話もした事があります」との事である。
浅田家章吾の世話になり、漫才師となったと解釈すべきか。
アサコの経歴は不明。源氏太郎氏からは「アキラより年下だ、とは聞いてましたが」。
後年、同門のアサ子と夫婦になり、1953、4年ころ「條アキラ・アサ子」を結成した模様か。肩からスティールギターをぶら下げたアキラがウクレレを持ったアサ子と合奏する音曲漫才でデビュー。
このスティールギターをどこで取得したのかは不明であるが、源氏太郎氏曰く、「アキラ本人は『人がやっていない事をやりたいんだ』というような事を言っていました。スティールギターの音はキレイでしたし、ちゃんと楽譜もコードも読めていましたよ」。
コンビ結成後、暫く余興や演芸会などに出演し、1955年の漫才研究会設立に携わった。漫才大会にも出演している。
然し、「嫁さんとやるのは疲れた」という理由でコンビ解消。その頃には一人娘もあり、幸せな家庭を築いていたという。
昔馴染みの若葉茂と高山登に頼み込んでトリオを組み、「ゆうもあボンボンず」を結成。若葉茂氏によると、「条アキラが入れてくれ、入ってもいいとか変な風に頼んできたんだね」との事。
ギター(若葉茂)、アコーディオン(高山登)、スティールギター(アキラ)という異色の取り合わせで再起を計ったが、二人の芸風やアドリブと合わず、間もなく脱退。
1961年からは源氏太郎(当時は東笑児)とコンビを結成し、「ひょうたんコンビ」と名乗る。
コンビ結成の折に東笑児は「泉ただ志」と改名した上でコンビを組んだそうであるが、同名の名古屋の芸人から「同じ名前を名乗るな」とクレームを入れられたそうで、そんな話を源氏太郎氏当人から聞いた。今や思い出である。
1961年5月、宮田洋容率いる東京漫才協会に参加。『読売新聞 夕刊』(1961年5月25日号)に掲載されたメンバーの一部である。
▽東京漫才協会には東ダブル・谷ジョッキー、宮島五十歩・百歩、柳家語楽・大和屋こたつ、内藤ロック・外藤パック、泉ひろし・条あきら、松廼家に錦治・小福の漫才六組みと漫談、司会の伏見ちかしが入会した。
内藤ロックは安藤ロック(坂上二郎)の元相方、泉ひろしは東喜代駒門下の「源氏太郎」である。この一団で、池袋演芸場、鈴本演芸場、松竹演芸場の余一会や漫才大会などで活躍。
同協会の若手として、漫才大会や放送などにも出演するようになったが、司会者として独り立ちをしたい泉と漫才を続投したいアキラの間にすれ違いが生じるようになり、1964年頃、コンビを解消した。
ただし、1967年の漫才コンクールのパンフレットには、1962年から南けんじとコンビ、というような事が記載されている。
泉と別れた後、やはり馴染みの南けんじとコンビを結成。このコンビも「ひょうたんコンビ」と名乗っていた。
音曲漫才から距離を置いて、しゃべくり漫才に挑戦。南けんじの子息・藤山新太郎氏に言わせると、
この条さんと言う人は、まじめで、人柄のいい人でしたが、自分自身が芯に立ってお笑いをしてゆく人ではありません。親父のような飛び離れた才能を持った人を支えることで生きて行くタイプの人です。
条さんと言う人は舞台では簡単な受け答えだけしかしない、およそ目立たない芸人だったのですが、人を生かす才能があるのです。お陰で親父の芸が以前よりテンポが出て来て、笑いの数が増え、面白くなって行きました。
然し条さんとのコンビは、私はいいコンビだったと思います。このまま続けていても十分やって行けたと思います。それがあっという間のコンビ解消です。漫才やチームはいくら実績を重ねても、コンビを変えればまた一から始めなければいけません。いくら芸歴があるとはいえ、新しく組む相手によって、芸は良くも悪くもなります。
(藤山新太郎氏のブログより 転載許可済)
と、地味でおとなしい人柄を指摘しながらも、南けんじの才能を開花させた点を高く評価している。
さらに浪曲出身の島津一朗とコンビを組んで、「條亜希良」と改名。「東京バンバン」として再スタートを切った。『日本演芸家連合会員名簿』(1976年版)の中に、「東京バンバン 島津一朗 條亜希良」とある。
然し、このコンビも長くは続かず、1976年頃に解散。間もなく芸能界をやめ、親戚のいる新潟へ去っていったという。
源氏太郎氏曰く、「アキラの父親は『五十になっても売れなきゃ芸人をやめろ』と息子に忠告していたそうで、それに従って引退した、と後でアサちゃんから聞きました。アサちゃんとも離婚して、子供とも離れ離れになったとか……その後は新潟で会社を経営している親戚を頼りに東京を離れて、そこでカタギになったとかいう噂ですが……」との事である。
漫才界から去った後の消息はそれしか判っていない。
一方、アサ子は家庭に収まっていたようであるが、晩年の浅田家章吾とコンビを組んだらしい。「章吾さんは彼女を連れてキャバレーの仕事を貰いに行こうとしたら、『ジジイはいらねえよ』っていわれたそうですよ」――と源氏太郎氏の証言。
師匠とコンビを解消後、また家庭に収まっていたそうだが、しばらくしてアキラと離婚。宮田洋容が経営していたバー「マンザイ」の従業員というような形で働いていた――と源氏太郎氏より伺った。
アキラ引退後も芸人たちと交友があったというが、宮田洋容死後、消息が辿れなくなる。市井の人になった模様か。