柳家三亀夫ショー(三亀夫・三亀恵)

柳家三亀夫ショー(三亀夫・三亀恵)

柳家三亀夫(真ん中)・三亀恵(右端)

 人 物

 柳家やなぎや 三亀夫みきお
 ・本 名 田中 豊吉
 ・生没年 1900年代?~没
 ・出身地 ??

 柳家やなぎや 三亀恵みきえ
 ・本 名 田中 静子
 ・生没年 1900年代?~没
 ・出身地 ??

 来 歴

 柳家三亀夫は戦前戦後「漫才ショー」を率いた一人。 

 初代三亀松の一番弟子のような存在だったらしく、1930年代初頭にはすでに弟子入りをしていた。『御存じ三亀松色ざんげ』の中でも―― 

 少し話が古くなるが、わたしの一番はじめのレコードに「新婚箱根の一夜」ってのがあるでしょう。 
 アレをつくったとき、漫才の橘エンジロ(はじめ落語で橘円次郎。現・亀屋忠兵衛)と、それに、ボクの一番古い弟子だった三亀夫(柳家三亀夫)てえのを連れて、箱根の環翠楼へ行った。あれは大正から昭和にかわることじゃァなかったかな。浴衣がけで出かけたから、夏だったね。 

 若き日の三亀松の下で音曲を覚え独立。1931年6月21日付の『都新聞』に――

▲エンヂログループ 廿二日夜より本所安津橋倶楽部に圓次郎、圓雀、天晴、星子、市丸、辰奴、三亀夫、越榮太夫、染五郎、圓十郎、馬生出演

 とあり、珍芸家として活躍。

 その後、「柳家三亀夫・三亀恵」という形で漫才師となった。 

 後に娘の田中千代子、田中鈴江にも芸を仕込み、「柳家三亀夫・三亀恵・三亀代」というトリオ漫才、後に「三亀子」まで加わる集団漫才となった。 

 1937年には既に一座を率いていたらしく、『柏学園と柏倉松蔵』の1937年5月開催の16周年記念演芸会の広告に――

金拾貳円也支払ふ。
漫芸と映画劇 柳家三亀夫
小女舞踊バラエティー 柳家しず子、千代子、きく子
赤城児守唄、剣舞捨子、野崎参り、おこま、マドロス、雀踊り、円下左膳、弥次喜多

 三亀松とは打って変わってアコーディオンなどを得意としたそうで、歌謡漫談に近い芸だった。 

 戦時中は慰問や東宝笑和会で活躍した模様。

 戦後は「柳家三亀夫ショー」「ミキオ・ミュージック・ショー」と名乗り、巡業やキャバレーなどで活躍。家族弟子総出のショーとなった。

『アサヒ芸能新聞』(1954年7月1週号)の松浦善三郎「関東芸能人斬捨て御免」の中にも――

★柳家三亀夫一行(ショウ) 三亀夫が座長。あとは三亀子、三亀香、三亀代と女ばかり、唄と踊りとナンセンスで、あでやかにもにぎやかなコント集。この種のショウは、多分にドサ臭さがあるものだが、この一行にはそれがすくない。三亀夫の演出の力か。西部劇まがいのコントを演るが、軽演劇にも、茶番にもオチないで、案外まとまりがあり、家族むきで結構みられる。

『芸通信28号』(1960年1月)に「マンゲー 柳家三亀夫 三味線 柳家三亀子 歌手 三柳真佐子 アコーデオン 高橋明 新舞踊 宮川春恵」とそれぞれの役割が紹介されている。

 1970年代にはまだ健在だったようで、林家彦六『噺家の手帖』の中に―― 

早いもので音曲の大家・柳家三亀松師が残して七年になる。弟子の亀松君と三亀夫君二人が未亡人を援けて先頃故人の七回忌法要を営んだ。故人は俠客肌の人だから仲と恵んだものだ。

 弟弟子の小三亀松によると「三亀夫の名前は娘婿が継承した」という。後の演芸協会などの名簿にある「柳家三亀夫」は二代目の可能性が高い。 

 こういう経緯があるせいか、初代三亀夫がいつ引退したのか判然としない。

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