橘ノ圓十郎

橘ノ圓十郎

橘ノ圓十郎

圓十郎の相方たち

 人 物

 たちばな圓十郎えんじゅうろう
 ・本 名 吉村 光次郎
 ・生没年 ??~1945年?
 ・出身地 関西?

 来 歴

「橘ノ」という名前の通り、落語家の出身で、三遊亭円朝の弟子、橘ノ圓の門下生に当たる。橘家圓十郎という名義もある。同一人物だろう。

 略歴が『日刊ラヂオ新聞』(1927年7月3日号)にある。後年の相方、燕之助を含めて、引用しておこう。

燕之助はもと樂枝といひ其後錦枝と改めて燕枝の門に入り燕之助になつたなか/\頭脳明晰な人、此頃新しい方面に手をつけてゐる、圓十郎さんは前名を圓光といひ、昨今素晴らしくうり出した若手の中堅。
ラヂオさん!でつかち頭がラウドスピーカーに似てゐるといふので自ら買つて出た前名は圓徳、ふるいつき度いほどの美聲の持主、音曲は手に入つたもの

 元々は師匠が組織していた円頂派に所属し、関西を中心に活躍していた。

 1924年、朝鮮を巡業。『上方落語史料集成』掲載の『京城日報』(12月23日号)を見ると、

◇明治町 電話二六〇番 浪花館/當る一月元日より東京名流落語大一座 橘ノ圓一行来る/<演題>落語(圓十九)落語手踊(圓近)落語音曲手踊(百圓)落語音曲手踊(圓堂)狂劇(社中)落語文人踊(圓三)落語即席噺(燕之助)落語珍芸(圓十郎)鳥虫物まね(権助)落語手踊(圓天坊)人情噺舞踊(圓)

 この頃はまだ珍芸などの芸人だった模様。

 1926年には、再び朝鮮を巡業。『上方落語史料集成』掲載の『京城日報』(11月17日号)を見ると、

◇明治町 電話二六〇番 浪花館/十一月十六日より 東京落語橘ノ圓一行/<演芸科目(出番順)>昔ばんし(橘の圓十九)落語手踊(橘の圓福)笑話おどり(橘の太郎)女道楽(橘のたちばな、橘の若橘)滑稽落語(古今亭さん福)落語物まね(三遊亭権助)落語一ト口問答(青柳燕之助)落語珍芸(橘の圓十郎)落語手踊(橘家圓三郎)総後見圓頂派宗家人情噺舞踊(橘の圓)

 1927年春、橘ノ圓が談洲楼燕枝、桂小南などが結成した「柳三遊研成社」に入会するに至り、上京。4月下席より、東京の寄席に出演している様子が『都新聞』(4月21日号)より確認できる。以下はその引用

◎関西圓頂派の頭取橘ノ圓一行加盟 新加入立川ぜん馬

新富演芸場 橘圓、綾千代、やなぎ、小燕枝、秋月、長寿、政治郎、燕枝、さくら、旭梢、宮歳、圓十郎、張来貴、福圓遊、柳窓、魚楽、燕之助

◎千住紅梅亭 さくら、圓十郎、ぜん馬、橘圓、ラヂオ、小玉、朝枝、燕之助、柳男、花圓遊、栄次郎、百圓、柳楽、天光、太郎、柳桜

◎動坂亭 小南、綾清、やなぎ、柳楽、左喬、福圓遊、扇橋、かなめ、魚楽、富士松、ぜん馬、燕之助、柳橘、鯉橋、天来、小玉、圓十郎、大正、文喬

 また、落語の歴史に触れた『名人名演落語全集第六巻』(371頁)にも、

この研成社は色物を多くし他の三派(註・睦会、落語協会、三五楼協会)とは趣を異にする番組を組んだ。4月下席には関西「圓頂派」頭取橘ノ圓が門下の青柳燕之助(元二代目燕枝門下で錦枝)、橘ノラジオ(前名圓徳)、圓十郎などと共に上京、研成社に加入したが、少数派の力不足は致し方なくやがて窮地に陥る。

 と、ある。上京後間もなくラジオ出演を果たす所などを見ると人気があったようである。

 1927年7月3日、滑稽掛合噺「演芸デパート」で初ラジオ出演。相方は橘ノラジオ坊、青柳燕之助。

 1928年7月22日、掛合漫劇「芸のなる木」でラジオ出演。相方は青柳燕之助、橘ノ一円(七代目橘家圓太郎)。

 1929年12月16日、橘ノ立花、月の家圓鏡のメンバーで出演。 以来、常連メンバーとしてたびたび出演するようになる。

 これまでの落語家の茶番や掛合とは少し違い、モダンさやハイカラを取り入れた所は評価すべきであり、「漫劇」という名前を放送で初めて使用したのはこの圓十郎一座である。

 但し、東喜代駒朝日日出丸などが行った「漫劇」と全く同じではなく、別物と捉えるべきであろう。

 また、噺家との二足草鞋だった事もあってか、長らく漫才とも落語家ともつかない行動が多い。落語家的な扱いを受ける一方で、同門の橘エンジロのグループや漫才大会などにも出ているため、非常に厄介といえば厄介である。相方はもと子(亭号不明)、染五郎など転々としている。

 1930年頃には、「萬歳」の看板も掲げるようになり、他の漫才師に交じって出演していたりする。以下は、『都新聞』で見つけた圓十郎関係の出演記事である。

▲第一回花菱演藝會 十日夕六時北島町清水ビルに
喜代志、圓十郎、天菊、貞吉、三亀松、燕枝、曹漢才、曹四仙出演 (1930年5月10日号)

▲萬歳研究会廿一日夜より五反田第一大崎館に、出演者は
源一正三郎、染次染團治、もと子圓十郎、三代孝亀八、談之助源六、百々龍小源太、繁子一休 (同年11月21日号)

▲萬歳研究会廿九、丗の両夜六本木の歌舞伎に、出演者は
百々龍小源太、芳江美代子、立花圓十郎、正三郎源一、三代孝亀八、はま子大正坊主、繁子一休、瀧奴瀧夫 (同年11月29日号)

 依然、放送や寄席などでは、主に燕之助を中心に掛合や茶番で出演していた。結局、掛合や茶番が衰退し、東京漫才が勃興するようになると、芸名をそのままで漫才に転向した模様。

 余談であるが、相方の燕之助は、三遊亭圓左の娘のおもとと結婚し、後年は堅気になったようなことが、結城孫三郎『糸あやつり』の中になる。

 長らく宝田雅世とコンビを組んでやっていたそうだが、後年、娘の美智子という女性とコンビを組んでやっていたという。本拠地は主に浅草だったというが、詳細は不明。

 戦時中は、妻娘の三人でトリオを組んでいたらしく、1941年7月、東宝笑和会の中席で、

 中席

千枝造・千枝里
柳家三壽
千代子・捨勝
円十郎・雅世・サユリ
登喜子・美登里
壽美枝・由美子
奈歌蔵・笑楽
武司・泰山
小春・利博
喜美枝・英二

 で出演している。

 1943年の帝都漫才協会には、親子三人で登録されている。その時の芸名は、「橘圓十郎 吉村光次郎 宝田雅世 河野タカ 一條サユリ 河野八重子」となっている。

 敗戦直前まで頑張っていたようだが、間もなく消息が途絶える。波多野栄一は『寄席と色物』の中で、

橘圓十郎 確か空襲で死んだとか?

 と、罹災死したような事を述べている。実際、浅草に住んでいたのでその可能性は否定できないものの、小島貞二などの文献でその名前を確認することはできない。

 青空うれし氏が撮影した骨壺の写真には、「昭和20年9月10日」と読めるが、これはどうしてなのだろうか。死体が発見された日、とみるべきなのだろうか。いまいちわからない。

 下に骨壺写真あります。大丈夫な人だけ見てください。

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