萩笑三・奈良恵

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萩笑三・奈良恵

 

テレビ出演した際の二人(大朝家美代子撮影)

 人 物

 はぎ 笑三しょうぞう

 ・本 名 萩原 貞一
 ・生没年 1897年11月3日~1982年以降
・出身地 
神奈川県 横浜市

 はぎ 奈良恵ならえ

 ・本 名 萩原 奈良恵
 ・生没年 1911年1982年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 昭和の末、東京漫才の長老として知られた不思議な漫才師である。

 長らく名前と映像のみ残されていた謎の漫才師であったが、1981年に中国で発行された中国曲艺出版社『曲藝藝術論集』(第二号)の中に本名と略歴が記されていた。

比较突出的是获笑三(本名获原贞一)与其夫人 奈良惠。栽笑三生于横滨,十六岁离家去上野,不久之后辗转至东京,结识了去年去世的日本著名曲艺家林家三平的父亲,自此, 他就开始走上了漫才的艺术生涯,到现在已 有六十多个春秋的历史了。

 とあるが、原文で読める人はほとんどいないと思われるので、大意を書く。翻訳してくださった先生、ありがとうございます。

その中でも突出しているのは萩笑三(本名・萩原貞一)とその妻、奈良恵である。萩笑三は横浜で生まれ、十六歳で家を出て上野に行き、しばらく後に東京を転々として、昨年(註・1980年)に世を去った落語家、林家三平の父と知り合った。そこから漫才界に入りを送るようになり、今では六〇年以上の芸歴を有している。

 さらに『夕刊読売新聞』(1980年5月20日号)の『漫才ばんざい』に詳細が掲載されている。記事の執筆者は、なんと若き日の保田武宏。保田先生様様である。

 長い記事なので、かいつまんで紹介をすると――

 16歳の時に家出をして、活動弁士となったが、家族に知れる所となり、実家に連れ戻される。再びチャンスを伺って上京し、コックとなる。

 その時、店の近くで桶屋を営んでいたのが七代目林家正蔵の父親で、その息子の海老名竹三郎(後の七代目)と懇意の仲になる。仕事の傍ら、天狗連に出入りするようになり、柳家三亀松などとも交友を結んだ。

 この時はまだプロにはならず、浅草の三笑亭という料理屋に就職。その頃の芸名を「三笑亭笑三」といった。

 芸人とコックとの二足草鞋を履いていたが、その頃、玉井長之助が七代目三笑亭可楽を襲名したので挨拶に行くと、「そのまま名乗ってよろしい」という事となった。

 全盛期は店を二軒持ち、なかなか稼いでいたそうであるが、芸に凝りすぎて店を潰してしまった。コック廃業後、習い覚えた新内節を頼りに流しの芸人へと転向。

 1943年、戦争の激化で流しの仕事が減ったので、漫才に転向。青葉屋正八とコンビを組んで、「三笑亭笑三・青葉屋正八」としてデビュー。以来、漫才師としての道を歩み始めるようになる。

 1950年、妻の奈良恵とコンビを組んで、夫婦漫才となる。妻の萩奈良江とも書く。年の差夫婦だったらしく、『夕刊読売新聞』(1982年3月13日号)の記事の中に、「コンビの萩奈良江も同四十四年生まれの七十一歳だから、二人合わせると百五十五歳となる」と、ある。年齢はここから逆算をした。

 戦後暫くは三笑亭名義で通していたが、噺家の方に三笑亭笑三が出てきてしまったので、本名「萩原」の一文字を取って、萩笑三と改名。但し、1953年にはもう「萩」となっているので、八代目可楽(1946年)ができた前後で改名したのかもしれない。

 以来、夫婦漫才として、地方回りや余興などで活躍するようになった。因みにこの記事の中に、笑三の誕生日も記載されている。

『アサヒ芸能新聞』(1953年11月5週号)に詳しい芸風が出ているのでこれを引用する。

萩笑三・奈良江

音曲の部に属するものだが、両人共長い舞台生活ですっかり漫才人になりきっている。で日常即舞台、舞台即日常の態でたまにいっしょにかたると シカ(注=ハナシカ、落語家のこと)の出の笑三は話題につまる処がないから面白い。年期を入れた落語、舞踊も一応は戴けるが現在は勿論余技。但し素踊り「紀伊の国」は師匠ゆづり(あえて名はあげない)で一見にする。「奈良江も決して若くはないはずだが(失礼)きわめて小柄であるし、顔もなんとなく可。愛らしい造作なので遠見は仲仲よい(遠くからはシワが見えないし)。年増盛りとでもいうような色気がある。 二人とも芸達者だし好人物なので、仕事の内容を問わずに安直にどこへでも出演するので結構重宝に使われて忙がしいらしい。 時折、高砂部チビ助と組んで 「二人羽織」逸出している事 もあるらしいが、客筋のたっての希望でないかぎり演らぬ方がよい。若し「出来るという処を見せる」という様な気があるとすれば将来危険な事であり、自他共に許す貫録十分な漫才である誇りを自ら捨てる様なもので、関東甲信越にまたがる多くのファンが泣くといけないからまずは演らぬ方が身の為。
「愛される共産党」なる言葉が一時流行ったが、このコンビは「愛される漫才」。それだけに職人にならぬよう要自省。

 夫婦仲は良好で、老いてもなお、愛し合う関係は、幕内外で、有名だったそうで、楽屋の中でもやっていたとかいないとか。

 また、稲荷町のアパートに長らく住んでおり、同アパートの仲間に、古今亭志ん好や十代目翁家さん馬がいた。 

 長らく地方回りが中心で、ヘルスセンターや慰問などで活躍していた事もあってか、音曲中心の魅せる漫才が中心だったという。漫才協団にも所属していなかったので、判らない事が多い。

 上記の『漫才ばんざい』では「若い真打に頭を下げるのが嫌だから」という理由で漫才協団に入らなかった旨が記載されている。

 得意芸は『按摩踊り』、『魚釣り』などといった滑稽じみた踊りや『両国』『都々逸』などといった音曲で、中でも『按摩踊り』は二代目三遊亭円歌の芸を参考にして完成させた曰く付きのもの、『魚釣り』は横山圓童から習ったものを、練り上げて作り上げたという。

 晩年まで淡々と地方回りを勤めていたが、80を過ぎてから途端に注目をされ、長寿の漫才師として新聞やテレビなどに取り上げられた。

 1981年1月29日、『ばらえていテレビファソラシド「芸歴500年・オールド漫才」』に出演。上方の吉田茂(難波利三『てんのじ村』のモデル)と共に、漫才界の最長老として出演。ほかにもいくつかの番組に呼ばれたようである。 

 その前後まで健在が確認できるが、以降の消息は不明。

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