坂野比呂志・小林美津子と坂野比呂恵

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坂野比呂志・小林美津子

坂野比呂志・比呂恵

小林美津子

 人 物

 坂野さかの 比呂志ひろし

 ・本 名 坂野 浩
 ・生没年 1911年10月6日~1989年5月25日
 ・出身地 東京 深川

 小林こばやし 美津子みつこ

 ・本 名 坂野 美津子
 ・生没年 1914年頃~1950年代?
 ・出身地 大阪

 坂野さかの 比呂恵ひろえ

 ・本 名 坂野 のい子
 ・生没年 1917年4月3日1968年秋
 ・出身地 神奈川県 横浜市

 来 歴

 坂野さんは漫才師よりも口上やタンカ買の漫談家として有名である。現在でも『香具師口上集』『大道芸』は、その道を知るいい研究資料であるし、坂野を慕って集まった若者たちが結成した「浅草雑芸団~坂野比呂志大道芸塾~」は、貴重な大道芸を継承・啓蒙に勤めている。

 こちらの業績を語る方が、資料も多いので楽であるが飽くまでも漫才師・坂野比呂志としての経歴を中心に記す。ただ、その半生は『香具師の口上でしゃべろうか』に詳しく書いてある。興味ある人は古本屋で求めてください。

 坂野比呂志は深川区猿江町、二男二女四人兄弟の末っ子として生まれる。

 父親は「和泉屋」という酒屋を営んでいた。幼い頃からいたずらが大好きで、「猿の浩」の渾名が付けられた。親や近所の人に叱られ、心配されながら東川小学校へ進学。

 幼い頃からポンポン蒸気に乗って、浅草通いを始めるようになる。この時見聞きした芝居や映画、ポンポン蒸気の中で行われる啖呵売が大きな財産となった。

 1923年9月1日、浅草で関東大震災に遭遇、九死に一生を得る。家も稼業も駄目になった為、父親の実家であった茨城県水海道へと転居。同地で酒屋と銭湯『みやこ湯』を開業する。

 間もなく県立水海道中学へと進学し、親に期待をされたが、元来のいたずら好きと芸能好きが嵩じて、中学4年生の時、家出をして東京に移る。父親の斡旋で郁文館中学に転学し、早稲田専門部商科へと進学した。当時としては相当の高学歴であったものの、勉強に身が入ることはなかった。

 早稲田時分に浅草のテキ屋、山田春雄と懇意となり、彼の紹介で活動弁士、熊岡天堂の門下に入る。早稲田を中退し、熊岡門下で弁士修行に励んだ。茨城育ちのせいもあってか、茨城弁を強く矯正された。

 初舞台も踏み、弁士の卵になりかけた矢先にトーキーの出現であえなく失業。弁士だったのは僅か2年ばかりであった。

 1929年7月に発足した榎本健一のカジノ・フォーリーに参加をし、俳優に転向。エノケンと共に電気館や金龍館などの舞台へ立った。

 ここも長続きはせず、 1931年、田谷力三が座長を務める「オペラ館」へ入門。大部屋俳優として多くのレビューに参加。このオペラ館時代に「坂野比呂志」の名前を考案、生涯の芸名となった。この頃、波多野栄一と知り合い、生涯に渡って慕い続ける事となる。

 大部屋時代に仲良くなったダンサーの滝節子に誘われる形で満州巡業を決意し、満州の知り合いに便宜を図ってもらった上で、1934年10月、満州へ渡る。新京へ辿り着き、仕事を斡旋してもらったものの、広告が「只野凡児」となっていた為、この芸名で舞台に立つことになった。

 主にダンスホールの公演を務めたが、ネタ不足の為に給金も減り、斡旋者と悶着を起こしている。

 この頃、「新杵」にいた芸者の梅香という女性と仲良くなった。この梅香こそ後年の坂野比呂恵である。以下は、のい子との出会いを描いた、『香具師の口上でしゃべろうか』の一節。

「生きてゐる小平次」を演る、ちょっとまえに新京小町といわれた梅香と知り合ったんだ。梅香は色の白い、日本髪のよく似合う痩せぎすのいい女でね。どういったらいいんだろうね、花柳小菊をも一つ綺麗にしたような俺好みの女だったのさ。それが外見だけではなくてね、水商売に身をおく計算ずくてえか、そういうもののまったくない、聖女みたいな女だったんだ。笑うかしれないけど、これほんとだよ。
 梅香は吉野町にある「新杵」という置屋にいて、本名を斎藤のいといって、実家は横浜だったが、親姉妹のためとはいえ、あの器量なら新橋、柳橋でも一流の立派な芸者になれただろうに、どうして満州くんだりまで流れてきたのか不思議でならなかったけどね。まあ、金だろうね。その梅香が新京会館に客と一緒に来るうちに、俺とも踊るようになったというわけさ。もちろん、「生きてゐる小平次」のときも見に来たさ。梅香が俺を見て、嬉しそうに笑いながら「凡ちゃん」と小さな声で手を振っているのがわかったもの。これは出来るぞ――て、そのとき心で叫んだんだ。

 満州の地で多くの流転、苦労、困難、快楽に遭遇し、その場その場をうまく切り抜けてきたが、恋人関係になった梅香や一緒に渡ってきた滝節子との関係や借金問題など、多くのトラブルを抱えた。

 さらに治外法権撤廃における条項の改訂で「二年間、正当なる職業を持たぬ限り、満州国入国を禁ず」という処分に遭い、国外追放の憂き目にあった。この時、節子や梅香相手にまた悶着をおこし、警察沙汰になっている。

 大連に移動し、日本へ帰国する船を待っている時にトランペット奏者の南里文雄と再会し、国外追放の約束を破って2ヶ月ばかり南里の一座で働いていた。これが領事館に露見する事となり、即刻帰国を命じられた。

 泣く泣く帰国した後は、大阪千日前に立ち寄り、多くの役者に出会っている。この時世話になったのが五味という座主の一家で、この座主の孫が後年、芥川賞を授賞し、剣豪小説で一斉を風靡した五味康祐であった。

 帰京後、兄の仲介で両親に詫びを入れ、家に転がり込むが、すぐに浅草通いを復活させてレビューに戻っていった。

 間もなく「新愛知新聞」から入った巡業に出かけ、さらには石巻の酒屋が太夫元となって東北一帯を巡業する事となったが、これが大変な御難の上に興行で揉めてまたもや警察沙汰になってしまった。御難の末に仙台に辿り着き、浅草で覚えた万年筆の泣き売を実演。この売上で帰京を果たした。

 帰京後、浅草の裏方石田一郎の紹介で糸井光弥の「メトロショー」へ入団。籠寅興行の庇護を受けて、東海道から下関までを巡演した。この時知り合ったのが後年の妻で相方となる小林美津子であった。以下は、『香具師の口上でしゃべろうか』の一節。

それをなお一層楽しくすることがあった。美津子だ。レビューだからといっちまえばそれまでだが、ギターが弾けて、踊りが踊れて、歌が歌えて、ファースというのかな、洒落た芝居ができて、人がよくって、そのうえ顔が十人並。難をいえば肉体美じゃない。それがまた俺の好みにピッタリコンてんだからいうことなし。しかも美津子をふくめて一座の信用絶大ってんだもの、働けるはずだよ。

 当時、小林は糸井の妻、秋月喜久枝の弟子で、女優として舞台に立っていた。出身は大阪、実家は神社だったという。

 メトロショー在籍時に新興演芸部から声がかかり、契約金3000円を受け取ったが籠寅に捕まり、叱責される。この場はテキヤの山田春雄の手によって何とか収めることができた。

 その直後に座長糸井の娘が駆け落ちし、その責任をなすりつけられた事に激怒た坂野は、糸井と大喧嘩をし、恋愛関係に陥っていた小林美津子と退団。東京へ戻った。

 以来、美津子と同棲し、事実婚になる。1939年頃、室町京之介共立芸能社の女社長アーちゃん(宮尾たか志の母親)の仲介で、坂野と結婚。坂野によると、「あのとき美津子はたしか二十五だったから……」とのことである。

 1938年、旧友の室町京之介の勧めで漫才に転向。「坂野比呂志・小林美津子」として上野鈴本演芸場で初舞台を踏んだ。この転向には室町京之介と山田春雄の大きな後ろ盾があり、破格の条件で初舞台を踏んだ。

 漫才コンビ結成後、山田春雄の口聞きで柳亭左楽の身内となり、芸術協会系の定席へも出演するようになる。以来、寄席漫才として活躍する。

 当初は美津子がギターを弾き、坂野はウクレレとタップダンスを踏む音曲漫才であったが、桂小文治に「なんだこんな玩具ァ使やがって」と言われたのにカチンと来て以来、ウクレレを真っ二つに割り、しゃべくり漫才へ移行した。

 この頃から短気と喧嘩っ早い事で有名だったらしく、生前玉川スミ氏から聞いた話では、「坂野比呂志、轟ススム、大朝家シゲオ(宮シゲオ)の三人は東京漫才の喧嘩三羽鴉」。

 当時流行っていた映画のタイトルや内容を次々に茶化す「映画づくし」というネタやテキ屋の真似事で人気を集めた他、キングレコードからアザブラブ・伸と共に四人漫才「百萬圓」を吹き込んだ。

 漫才で人気を集め始めた矢先、相方の美津子が結核に倒れる。当面の生活を工面するために司会の勉強をはじめ、藤山一郎などの司会を勤める事もあった。

 1940年頃、松旭斎美天勝一座に誘われ、司会者として入団、満州巡業へ出かける。天然痘疑惑や盗人の登場で、御難続きの挙句、劇場が事故でつぶれてしまう悲惨な状況に陥ったが、この御難に救いの手を差し伸べたのが、竹の家雀右衛門であった。雀右衛門のお陰で、何とか食い繋ぐ事が出来た。

 美津子の病が寛解した事もあり、帰国。東宝名人会笑和会などにも、出演して存在を示していたが、この前後で太平洋戦争が勃発。

 1945年5月、軍部の命令で満州へ慰問に行く事となり、慰問団々長に就任。1日800円の契約で、古今亭志ん生、三遊亭圓生、國井紫香、荒川芳夫などに声をかけ、新潟港から出発をした。

 朝鮮を横断し、新京、奉天と転々としたが、新京へ戻る途中に立ち寄った四平街で終戦を迎える。各地を転々とし、ソ連軍の侵攻に怯えながら、内地へ戻る連絡船を待ち続けた。

 1945年8月20日、満洲映画協会理事長で軍人の甘粕正彦の自決を目撃する事となった。坂野曰く、「青酸カリを飲んだのだった。」

 満洲映画協会の寮に留まって連絡船を待つ傍ら、南嶺の収容所慰問や孟家屯にあった陸軍病院慰問などにも参加。ここでソ連軍の惨状や日本軍の零落ぶりなど、多くの経験を目の当たりにした。

 また、満州に取り残された芸人たちを集めて、新京残留慰問団を結成、その会長として奮闘。この残留中に、昔馴染みののい子と再会、一緒に行動する事となった。

 1946年、帰国命令が下され、復員船に乗車。やっとの思いで日本への帰国を果たす。相方の美津子が肺病を悪化させた為、のい子を代役に立てて、「坂野比呂志・美津子」として活動を再開。

 1946年11月18日、NHKラジオに出演し、帰国報告を行っている。

 1948年頃、当座の相方として加藤柳美とコンビを結成。病床の美津子に代わり、加藤やのい子とコンビを組んで、漫才を続投したものの、女二人に男一人の同居は、当然関係を拗らせることとなり、美津子は家出した。以下は、坂野の自伝『香具師の口上でしゃべろうか』に出てくる美津子との最後。

 美津子は腕をふりあげようにもふりあげられなくて、俺にしか、わがままがいえなかったんだろう。我が身さえ元気なら、もう一度舞台にと、どれほど思ったかもしれないよ。ズブの素人ののい子が俺と夫婦然として、自分も立った同じ舞台で脚光をあびている。その舞台で稼いだ銭で、自分が生き長らえてるわけだから、病気だからしかたがないというものの、敵に塩をおくられているのに、なんの返答のできないわが身の不甲斐なさ、どんなにつらく惨めに思ったことだろう。嫉妬さえ、炎を存分に燃えあげることができないわが身を呪い、どれほど心をさいなんだことだろう。美津子は胸の病を治すよりも、自分の嫉妬の心の炎をおさえるのに懸命だったかもしれないんだ。

(中 略)

 俺たちがその仙台のキャバレーで演って帰ってくると、病院に美津子がいない。俺は吃驚した。まだ治ってないのに、なんてまねしやがるんだ。だれのために俺たちが稼いでるんだって、心底思って憤った。ようよう尋ね尋ねて、仲人の共立芸能社のアーちゃんのところへ行って世話になっている事がわかったんだ。俺が迎えに行ったけど、ガンとして帰らないってんだ。そのあげく、ここにいても世話になるばかりだから、親の家で療養するっていいだして、またまた無断で大阪に帰っちまった。
「畜生。勝手にしやがれッ」
てんで、比呂恵もいるし、美津子のことにふれたくないんで、わずらわしいから四方八方、
「美津子は死にました」
 と一言でかたづけて、二度と話の出ないようにしちゃったんだ。美津子の家は古い宮司だけど、日当りもあまりよくなかったんで、身体にはよくなかったらしいんだ――美津子とはそれっきりで、美津子が死んだのを俺が知ったのは数年後に、区役所の戸籍係から死亡したという通知を受け取ったときなんだから、俺が不人情なのか、世の中が無情なのか、おそらくその両方かもしれない。

 この事がきっかけとなり、二人は離婚。坂野はのい子と事実婚を経て、再婚した。

 なお、のい子は長らく前歴を秘しており、『芸能画報』(1959年1月号)のプロフィールでは、

比呂恵 ①坂野ノイ子②大正6年4月3日③横浜④昭和7年浅草を振り出しに漫才生活廿数年、現在に至る

 としている。一方、坂野は自伝の中で「コンビを組むまで、素人だった」というような旨を記している。

 1950年頃、室町京之介の紹介で、大津お万の家に居候する事になった。この頃、のい子と再婚し、コンビを結成。「坂野比呂志・比呂恵」として再スタートを切る。再び寄席や劇場などに出演し、精力的な活躍を示した。

 ただ、「比呂恵」となるまでの間、のい子は名前を何度か変えていた模様で、松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月3週号)では、

坂野比呂子 坂野比呂志

古い立体漫才。スマートすぎていまの舞台は合成酒の感じがある。もう少しコクのある舞台をみせてもらいたいとおもうが、いまの比呂子ではこれを求めるのはむりだろう。比呂志は才界の古強者であり、先輩だから、洋容が麗子をきょうまで育てたと同じ熱意で比呂子を指導したらどうか。比呂子のスタイルからいえば、それこそ流行のシャンソンでもうたわせたらどうか。浅草の舞台ではうけいれられないとしても、放送では絶対である。関東才人で、シャンソンととっ組んでいるものはいないではないか。

 と、なっている。

 1955年、漫才研究会発足に携わり、初期メンバーとして名を連ねる。若手の育成や交渉役として活躍したという。発足後まもなくのい子が体調を崩すようになり、司会や漫談などの路線で活躍をするようになる。

 この頃、若い頃覚えた「口上」や物売りの声から着想を得、大道芸漫談を開眼させる。

 本人曰く、藤山一郎一座の司会漫才として招かれ、結城市の結城座に出演していた折、にわかの停電で舞台が中断するアクシデントに見舞われた。その時に提灯と蝋燭だけで舞台に立ち、口上や物売りを織り交ぜながら演じた漫談が大当たりをとったのを機に、自信をつけた、という。

 1959年頃、笑いの王国出身のコメディアン、真木多可志とコンビを結成。寄席や歌謡ショーなどに進出。

 1968年、のい子が死去。最期の様子は『香具師の口上でしゃべろうか』に詳しい。以下はその引用である。

 昭和四十四年の夏のことだった。室旦那があっちこっち訪ねながらのい子を見舞に来てくれた。夏だからシミーズ一枚で、素麵を食べてたってんだ。痩せ細ったのい子が、その身体みたいな細い素麺 を食べてるのを見て、
「医者にかかれよ。俺の知ってる医者だ。金はいつでもいいんだ、連れてくよ」
「先生。すいません。でもあたし、お医者さんて嫌いなんです。嫌いなのに、たとえ一本でも注射を 打つなんて、もったいないでしょ。そんなことでお金を使わしたら坂野がかわいそ。食べなければ死ぬっていうから、こうやって食べてんです。 ホホホ、死にませんよ、坂野が何とかなるまでは」
 それで旦那が渋谷までの電車賃だけ別にして、
「ここに三百十五円ある。キマリが悪いけど、卵でも買ってくれよ。帰ったら美容院へ行くくらいは送るから。いいんだよ。渋谷へ行けばだれかいるよ、市川へ帰る電車賃くらい」
 俺が帰ったら、これ、先生からいただいたけど、わたしはいらない、今度先生が来たら何かご馳走してあげてって、よこすんだよ、三百十五円をね。俺はすぐに飛んでって卵を買ったよ。百五十円で十個もあるんだもん、残った分で菓子だの、納豆を買ったんだ。二十年も芸者してたのに、酒は飲まない甘党だから。
 それから二ヵ月、秋だった。のい子の身体とおんなじような細い声で、縁の下のコオロギが泣いていた。
「かわいそうね、あの声が出るうちは死なないのよ……」
 そういって、俺を見てたっけが、そうっと、黙って手を出した。俺はそれを両手で握った。でも、のい子には握り返す力はなかった……。俺は、何度も何度も「のい子ッ、のい子ッ」と呼んだけど、応えはなかった。かわいそうな、のい子……俺一人を頼りにして、俺が世の中へ出るまではと、生きるだけ生きて、最後の血の一滴が喉もとか、心臓か、五体のどこかで生命とともに消えたとき、のい子はこの世を去ったんだ。生きるだけ生きた五十一年の生涯を省ることもなく。

 この死がキッカケとなり、坂野は漫談家に転向。ただ、漫才師を廃業したわけではなく、機会があれば演ずることはあった。

 大道芸漫談を武器に、浅草を中心に活動を続け、テレビやラジオにも出演するようになる。

 1982年、『坂野比呂志のすべて』と題したリサイタルを木馬亭で開催。この時の話芸と演出が高い評価を受け、第37回芸術祭大賞を受賞。名実ともに大道芸漫談を完成させる事となった。

 1985年、坂野を慕う若者や大道芸人たちの集まりである「大江戸観光倶楽部」に招聘され、指導役に就任。大道芸や口上を教える講師としても活躍した。かつてあった大道芸を復活させる試みは注目を浴びる事となり、1988年には坂野の業績を記念して「坂野比呂志大道芸塾」と名付けられた。

 1986年に発足した「日本司会芸能協会」の発足に関与し、1年だけ初代会長を務めた。たのし氏曰く、「トップさんが連れて来たんですね」。

 1989年5月25日、午後11時9分肺がんのため、下谷病院で死去。町屋斎場で密葬が行われ、後にお別れ会が開かれた。

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