東家市丸・砂川捨奴

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東家市丸・砂川捨奴

市丸(左)・捨奴

東家あずまや 市丸いちまる

 ・本 名 畠山 賢秀
 ・生没年 ??~1973年以前
 ・出身地 ??

砂川すながわ 捨奴すてやっこ

 ・本 名 高橋 喜美子
 ・生没年 ??~1968年以後?
 ・出身地 ??

 来 歴

 市丸は、浪曲師の出身か。芸歴は古く、1927年には早くも上京しており、『都新聞』(1927年12月3日号)の広告に、

 ▲江川大盛館 三日より万歳東家市丸、小新加入

 とあるのが確認できる。

 また、大阪でも活動していたようで、1928年12月には浪花座で行われた「松竹専属名流萬歳選抜競技大会」に「浪曲萬歳 砂川愛之助・東家市松」として出演している。市松とあるのは、誤植か、前名であろう。 

 1930年には江川大盛館を根城に活躍をしている。当時の『都新聞』(1930年1月11日号)の広告に「節真似 東家市丸」というような記載がある。

 江川大盛館が廃れた後も、砂川愛之助とコンビを組んで東京を中心に活躍をし続けていた。

 1931年頃、砂川捨奴と組んで、浅草を中心に出演していた。砂川捨奴はその名前の通り、上方の砂川捨丸の弟子。

 浪曲漫才を武器に活躍。この捨奴とのコンビは長く続いたと見えて、内海桂子『転んだら起きればいいさ』の中にも

砂川市丸・捨奴、出雲友衛・北条恵美子、前田勝之助・隆の家百々龍の浪曲など、それぞれが得意芸を持っていた時代だったのです

 という記載がある。

 その名前から、歌手の市丸に間違えられることが多々あったそうで、『都新聞』(1933年10月23日号)に馬鹿話が出ているので引用。

勝太郎市丸二人會 主催東喜代駒

 不景氣である!シンコクなる不景氣である!と、不景氣をかこつ人々よ!それは貴下の頭の悪さが招く當然の景氣なのである(御免なさい)
絶對はづれつこなし、といふ金儲け法を不肖が案出しましたら敢て金儲けしたい江湖の諸兄姉のために秘密で公開いたします

×

 勝太郎女史と市丸女史の名と聲は、今や遺憾ながら全國津々浦々に鳴り響いてゐます、但し蓄音機の設備を有する家に限つて、でありますが、この両女史を中心とする演藝會を開き、一圓づヽの木戸を取つて、勝太郎女史に喇叭節、市丸女史においとこさうだでも唄はせたら、ガゼン聴者は蜘蛛の子を散らすやうに参集すること蠟燭の灯を見るよりも明かであります

×

ところが此の両女史、傷病兵慰問演藝會以外には、絶對に公開の席に出ないのであるさうです(そのくせ、慰問演藝會に出たことも餘ンまり聞きませんが)即ち箱入りムスメなのであります、レコード會社の専属で箱入り、などはサゲがついてゐます、金儲けの秘密は此処です

×

 日比谷公會堂あたりを借て、但し一日に限る、「勝太郎、市丸二人會」を開きます。會員権一圓で定員二千六百七十人を満員にすることはいとも容易であります、ボツクスはもとより廊下にまで聴衆は溢れ、既に之以上の収容出来ぬために固く閉ざされた鉄扉を乗越えて入場しやうとする群集を、主催者東喜代駒は聲を枯らして制止してゐます、特に所轄署から派遣された警官は二百数十名も手の下しやうがなく、たゞ傍観のていです、と云つたやうな混雑です

×

 開幕のベル、緞帳は開く、割れるやうな拍手に迎へられてステージに現れたのは高級万歳の東家市丸、次いで現はれたのが浪花節の玉川勝太郎、正しく看板偽りのない勝太郎、市丸の二人會であります、客席がワッと湧いて主催者をブチ殺せ、と云つてゐる頃には、主催者の東喜代駒は、二千数百圓わ懐ろに、銀座あたりのビーヤホールのスタンドの前で「大ジョッキ」てな事を云つて塩豆を抓んでゐました

 所謂、仮の……というシチュエーションで書かれた笑い話であるが、それにしても勝太郎と市丸の看板を掲げて、玉川勝太郎と東家市丸を出すというのがおかしい。喜代駒の慧眼である。

 後年、吉本興業に近づくようになり、花月系の劇場に出演した。雑誌『ヨシモト』や『吉本興業百五年史』などにも、名前と写真が出ている。

 終戦と共にコンビ解消した模様。両人の消息が途絶えるが、市丸は戦後亡くなったそうで、1973年1月12日の『読売新聞 都民版』に掲載された砂川愛之助の記事の中に、

 すし屋の小樽丸に始まって、東屋一丸、大和家かおる、庄司五郎、上方才六……コンビを組んだ芸人たちも、みんな死んでしまい……

 とある。それ以前に物故したのは間違いない。

 捨奴は、漫才をやめた後は、芸能界から足を洗い、市井の人として余生を過ごした、と秋田實『漫才』(12号)にある。12号が出された1968年時点では、健在だった模様。

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