晴乃ダイナ・ミック

晴乃ダイナ・ミック

晴乃ダイナ

 人 物

 晴乃はるの ダイナ
 ・本 名 今塚 利男
 ・生没年 1946年7月22日~?
 ・出身地 東京

 晴乃はるの ミック
 ・本 名 砂川 勇
 ・生没年 1939年~?
 ・出身地 京都府

 来 歴

 晴乃ダイナ・ミックは戦後活躍した漫才師。元は晴乃ピーチクの門下で「晴乃ダイナ・ミック」というコンビで活躍をしていたが、数年でコンビを解消。ダイナは大阪へ上り、吉本に入社。紙切り漫談で舞台に立った。一方のミックは「大井海彦・山彦」として活躍した。

 ダイナの父親は紙切りをやっていた三遊亭小円雀(1915年~平成初頭?)である。戦前紙切りで活躍していた三遊亭円雀の弟子にあたる。

 第18回NHK漫才コンクールのパンフレットの中に、

「ボケをやるダイナは、紙切りの三遊亭小円雀(進駐軍キャンプで人気があった)の息子。コンビを組んで二年目というが、イキの合ったやりとりは、すでに数年のキャリアを感じさす。」

 とある。小円雀は進駐軍まわりの他、一時期小倉一兆らと紙切りグループを組んで、舞台に上がっていたこともある。そんな育ち故か、幼い頃から芸事を仕込まれた模様である。

 また、経歴を掲載したものに、相羽秋夫『上方演芸人名鑑』(180頁)があるが、

晴乃ダイナ 本名今塚利男 1946年(昭二一年〜)
東京の生まれ。昭35年4月、晴乃ピーチク門下となり、神戸三の宮の国際会館において晴乃ダイナ・ミックでデビューしたが、昭36年解消。来阪して昭37年より紙切りに転向した。関西ではやり手のいない分野だけに期待されている。

 これは余りにも辻褄が合わない上に、どこが正しく、どこが誤植なのか、分別つかないので、やや信憑性が欠けている。1970年に漫才コンクールに出演しているのを見ると、入門年だけは正しいと解釈すべきだろうか。

 むしろ、公式的なプロフィールは吉本が出した『よしもと大百科』の方に詳しい程である。

 司会漫才で人気のあったピーチク・パーチクに入門して、「晴乃ダイナ」。同パンフレットには「チック・タック(いまは別れている)のオトウト弟子ということになる。」とあるのをみると、1960年以降の入門ということになりそうである(チック・タックは1960年コンビ結成)。

 同門でコンビを組んで、「晴乃ダイナ・ミック」を結成したが、長続きせず解散。

 但し、このコンビ事情は複雑で、どうも解散、再結成という複雑な関係を持っていたようである。

「ダイナ・ミック」を解散した後は漫談や司会で放浪をしていたと聞くが――

 相方の晴乃ミックは「大井海彦」という芸名も持っていた。

 経歴等は不明。嘗ての相方であるハウゼ畦元氏も、「事務所の意向で組まされた形だったので、相方の事はよく知りません」と首をかしげていた。

 氏や遠藤佳三氏から聞いた話では「眼鏡をかけていて、少し大きくて、無口な人だったと記憶する」という事であった。インテリ風な風貌だった模様か。

 ピーチク門下で「ダイナ・ミック」を結成するもすぐに解散。

 1968年に開催された第16回NHK漫才コンクールのパンフレットを見ると

「大井海彦・山彦 かつて晴乃ダイナ・ミックというコンビがあり、その片割れが海彦。二人のコンビは昭和40年1月。」

 とあるのに対し、その2年後の第18回のパンフレットには「ミックのほうは、一昨年このコンクールに海彦・山彦で出た大井海彦である」という記載がある。

 この文面をそのまま解釈すると「晴乃ミック=大井海彦」という構図が成り立つ。

 それを踏まえて考えると、やはり解散・再結成したと見るのが妥当な所であろう。

 1965年、リーガル千太・万吉門下のハウゼ畦元とコンビを結成。

 1967年2月25日に開催された「第15回NHK漫才コンクール」に出場。「名城物語」というネタを披露するも入賞には届かなかった。

 この時のパンフレットの中に「海彦さんは昭和14年京都の生れ」とある。

 1968年3月2日、第16回NHK漫才コンクールに出場し、「商売アラカルト」を披露している。こちらも入選せず。

 ただ、コンクール出場間もなくコンビは解散。

 1968年頃、海彦は再び「晴乃ミック」となり、晴乃ダイナとコンビを組んで「ダイナ・ミック」を再結成した。その辺りの事情は不明。

 ハウゼ氏も「本当に変な話ですが、海彦さんとはコンビでありながら全然交流というものをせず、どうしてこういう事になったのか全く覚えていないのです」との事であった。

  1970年2月14日、第18回NHK漫才コンクールに出場。「ファッションABC」なる演題を披露している。

 ただ、このコンビの活動も長くはなく、コンビを解消。ミックは引退をしたという。

 ダイナは、東京を去って、大阪吉本に入社。紙切り漫談に転向し、関西では貴重な芸としてなんば花月をホームグラウンドに活躍。漫才ブーム前夜の大阪で淡々と舞台を勤めていた。

 紙切り時代は毒舌を得意としていたそうで、客にケンカを売った、泥酔して出番をすっぽかすなど、酒と毒舌にまつわる逸話や珍事が語り継がれている他、酒癖や身持ちの問題から一種の奇人として知られていたともいう。

『よしもと大百科』に、

 お酒がむちゃくちゃ好き。酒入ってなかったらビミョーなラインが出えへんらしいわ。
「おばあちゃん、とっとと死んでらっしゃーい」いうのがギャグやねけんど、ある日舞台に出とった時、前に座ってたおばあちゃんがトイレに席立ってん。それ見ていつもの調子で「おばあちゃん、どこ行くの。とっとと死んでらっしゃーい。そのおばあちゃんマジメな人で、トイレ行かんと事務所に行ってもうた。「わて、死んでらっしゃいって言われましてん」いうて。それから3ヶ月ほど、花月出入り禁止になっとったで。

 この滅茶苦茶な人柄は今や吉本の大御所になっている明石家さんまやダウンタウンに時折ネタにされている。

 ただ、紙切りはうまく、観客からリクエストが飛び交ったというのだから面白い。作品を数点持っているが、藤娘や宝船から、キワモノまで切り分けている。

 一時期は若手に混じって『モーレツしごき教室』に出演するなど、タレント路線にも足を踏み入れたが、酒癖や当人の身持ちの問題もあり、ブレイクすることはなかった。

 平成に改元する頃まで、名前を確認できるが、現在の消息は一切不明である。

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