榎本晴夫・国友昭二
コンビ結成直後の二人
人 物
榎本 晴夫
・本 名 榎本 方一
・生没年 1923年10月12日~2014年12月頃
・出身地 東京
国友 昭二
・本 名 稲山 昭二
・生没年 1927年6月15日~没
・出身地 東京
来 歴
国友昭二は、戦後、南道郎・国友昭二で鳴らした一人。詳細は、南道郎・国友昭二を参考にせよ。
青空うれし氏が生前の榎本晴夫本人から聞いた話によると、「先祖は井出志摩守(井出正次か)とかいう偉い人で、その末裔には南部鉄道の創始者がいる」そうで、名門の家柄だったらしい。
元々はバンドマンでドラム奏者として活動していた。
うれし氏が思い出した話によると「学生時代はボス宮崎とコニーアイランダースでウクレレとボーカルをやってたんだよ。だから根からバンドマンなんだね。それからコロムビアに移って楽団スイングチェリーってのを結成してドラムを叩いていたんだな」。これは『東宝創立四十周年記念公演東宝名人会まつり』のパンフレットにも出ていたはずである(国立劇場所蔵)。
その実力は高く、「楽団スイングチェリー」のバンドマスターを勤めていた。このスイングチェリーは日劇付きのバンドで、コロムビアとも専属契約を結んでいたバンドであった。
また、バンド活動と同時に、演芸作家としても活躍したそうで、早くから漫才師と付き合いがあったと聞く。第16回NHK漫才コンクールのパンフレットによると、道郎・昭二の『二世まかり通る』は、榎本晴夫の作品だという。
司会時代にコロムビアトップ・ライトに会い、影響を受ける。青空一門ではないものの、トップを私淑し、彼からよく学んだ。そのため、スマートで独特な時事漫才を得意とし、青空一門と仲が良かった。
1954年頃、志賀晶と司会漫才を組んだ事もあるという。ただ、これは正式なコンビではなく、仕事の関係上、にわかに結成したものであるようだ。もっとも、ビジネスライクだけでなしに、交友関係は後々まで続いた。
1955年10月、南道郎とコンビを解消した国友昭二に招かれる形で漫才師に転向し、昭二・晴夫を結成。国友昭二が目星をつけたのは『二世まかり通る』などの台本を書いてくれた関係だろうか。
結成を知らした記事が、『内外タイムス』(1955年9月29日号)に出ている。
去る四月二十五日、永年の相棒南道郎と意見の相違から袂を分った漫才の国友昭二は、九月一ぱいで東宝と専属契約が切れるのを機会に、元コロムビアの楽団スイング・チェリーのバンドマスターをしていた榎本晴夫と新コンビを結成、十月五日初日の「秋のおどり」から新発足することになった。
榎本晴夫は本名を晴方(ハルマサ)といい、約二年前マーキュリーから発売された南・国友の漫才レコードの台本を書いたこともある。楽団時代は主としてドラムをたたいていたという変り種。
と、ある。以来、日劇を中心に活躍した他、ビクターの専属として入社。司会漫才としても腕を振るった。
1956年1月、日劇で行われた『ビクターパレード新春歌謡合戦』に出演。小畑実、市丸、宮城まり子などと混じって、司会漫才を演じているほか、第二部の『雪の降る夜は』で、小林実のジャックの実、宮城まり子の靴磨きの少年と混じって、警官(国友昭二)、ヤクザの春吉・伝八(榎本晴夫)を脇役を勤めている。
1957年3月、日劇『ビクター若人の歌』に出演。獅子てんや・瀬戸わんやと共に抜擢され、司会漫才の他に、寸劇で記者を勤めてる。ただ、この時はふざけ過ぎたと見えて、劇評でボロカス貶されていたりする。
1957年10月、日劇『グランド・ショウ ビクター祭』に出演。この時、志賀晶も司会者として参加している。
国友昭二の人気やビクターという大きなバックボーンもあったお陰か、テレビやラジオにも出演。足掛け8年間コンビを組む。当時を知るうれし氏によると、「まあ、フレッシュな漫才だったよね。司会漫才で。人気はあったよ。両方ともにうまいからね、大劇場なんかでもよく笑わせていた」。
その後、コントブームに乗じてか、旧知の志賀晶を加えて、漫才グループ「サラリーマントリオ」を結成。マスコミにも進出するが、1966年、国友昭二が脱退。以来、国友昭二は芸能界から足を洗う形となった。
1966年、残された榎本晴夫は、同じく残留した志賀晶とコンビ結成。以来、10年近く、「エノシガコンビ」で人気を集める所となった。このコンビはこのコンビで資料がある為、別項とする。