横山圓童・つばめ

横山圓童・つばめ

 

 圓童(左)・つばめ

 

 人 物

 横山 圓童よこやま えんどう

 ・本 名 木村 ?
 ・生没年 1900年代?~1955年12月
 ・出身地 関西?

 花柳はなやぎ つばめ

 ・本 名 木村 キク
 ・生没年 1906年10月28日~1985年以降、90年以前
 ・出身地 大阪府

 

 来 歴

 半分関西、半分東京という漫才コンビなので純然たる東京漫才とはいいがたいが、戦前の吉本や戦後の漫才研究会に所属をした点を踏まえると、東京漫才の一員として数えてもいいだろう。


漫才以前

 圓童は上方落語の大御所である橘ノ圓の門弟で、「橘の圓童」の名前で、八年ばかり噺家をやっていたという。同じく東京漫才で活躍した橘エンジロ橘家花輔は彼の兄弟弟子という事になる。昭和初期に漫才に転向し、吉本と専属を結ぶ。

 1931年頃には、もう漫才を手掛けており、同年8月30日の『神戸新聞』の広告に、

◇本日の余興/○境浜海水浴場 萬歳大會 文化萬歳(東家扇三、秀丸)滑稽萬歳(河内家蝶々、金丸)モダン萬歳(三河家瓢吾、菊丸)漫談と舞踊(橘家橘三郎)レヴユー萬歳(林家うた次、美代子)高級萬歳(橘の圓童、橘三郎)(末広家音若、■子)/○麻耶山天幕村 諸芸大會 日光山時丸一行△掛合二輪加(日光山重丸、茶■丸)△奇術(一光斎南枝)△珍芸(桂柴鶴)△手踊萬歳(吾■家四郎、同春子)△浪花節(京山松風)△足芸人形剣劇化猫退治(日光山時丸)

 後年、横山エンタツの弟子となり、「横山圓童」と改名。

 つばめは大阪出身で、異母兄は林家染團治だという。本当だろうか。元は明治から大正にかけて大流行をした女義太夫の出身で、豊澤勝政に師事。「竹本君之助」という名前で活躍をしていた。

『国立劇場演芸場』(1984年1月号)掲載の『寄席芸能の現状』に詳しい経歴が出ている。

ところで相方の花柳つばめさんだが、生まれは東京で、松枝さんより三歳歳上である。祖父は火消し、父は大工だが、五人兄弟の母親が皆違うという特異な境遇で育った。兄が噺家の林家染団治で、芸事は十二歳の時、女義太夫の竹本君之助さんの門を叩いて初めた。日本舞踊も藤間流の手ほどきを受けたが、二十五歳で先々代橘ノ円の弟子の円童豆さんと結婚してからは、夫君と同じ花柳流に転向した。つばめさんが漫才をはじめたのは、円童豆さんが漫才の大御所横山エンタツに弟子入りし横山エンドウと改名してから。昭和三十一年十二月、エンドウさん歿後は、舞踊、女義太夫も手がけたが、松枝さんとは女義太夫で神戸・千代廼座に出演して以来の顔見知りだった。

 また、義太夫以外の芸事にも通じており、踊り、音曲と達者な芸人であったという。一部資料には東京出身とあるが、ここでは『日本演芸家名観』の記載に従い、大阪生まれとした。

 女義太夫衰退に伴い、漫才に転向。1932年頃には、先輩の坂本ボテ丸とコンビを組んでいたらしく、『上方落語史料集成』にも、

△天満花月 八重子・福治、文治郎、扇遊、玉枝・成三郎、馬生、〆の家連、春団治、日廼出家連、小文治、つばめ・ボテ丸、柳好、正二郎・捨次、重隆・武司、紋十郎・五郎、せんば、亀鶴・星花。昼夜二回。

 とあるのが確認できる。

 コンビ結成年は明らかではないが、上記の記載から推測するに、1931年頃結婚。『都新聞』(1936年6月12日号)に「数年前から圓童とコンビで漫才となる」とある。そう考えると、昭和8年頃のコンビ結成か。

 1936年6月12日には早くも『夫婦の注文帳』と称した演題でラジオ出演を果たしている。

 つばめの三味線と唄に合わせて、圓童が「長短かっぽれ」を魅せる芸を十八番としたという。この圓童という人は大変踊りが達者で、これが売り物だったとか。『アサヒ芸能新聞』にもこんなことが書いてある。

花柳つばめ 横山円堂

関西出身で東京在住。未だ直接尋ねてみた事はないが恐らく横山エンタツ一門であろう。
つばめの三味線で円堂が「長短」をやる。浅田家章吾と違った行き方。章吾のそれが多分に喜劇的要素を含んでいるとすれば、こちらは同じ題材でも映画的といった感じ。
従ってメガホンの如何にのっては今後どんなにでも深みを増す可能性はある。
舞台は自分でも「映画俳優になりたかった」等と冗談をいうが、成程いい男。かつてはアルコールで一、二失敗談もあった様に聞くが、娘がバレエをやるとかでその成長を楽しみにしてきた。近年は、だいぶつつしんでいたらしい。

一年の内の半分は昔のファンがいる西に戻って稼いでいる様だ。
つばめはその名の如く細くキャシャな身体でよく弾き、よく唄い、よくしゃべり。近年声量が落ちたようにも感ずるがまだまだこれから幾らでも稼げるコンビ。
舞台はなまじ生半可通な東京弁よりもいっそ手馴れた関西弁でベラベラやっつけた方が客も聞き良いし御当人達もやり良いのではないか。

(『アサヒ芸能新聞』1954年1月1週号)

 但し、吉本時代は、しゃべくり漫才や現代的なネタにも挑戦していた様子がうかがえる。吉本興業時代は、結構人気があったと見えて戦前の香盤などでその名前を確認する事ができる。


 戦後の動向と女道楽

 戦後、東京に移住し、漫才研究会に所属。関西と関東を行き来する生活を送るようになった。だが、戦前よりも人気はなかったらしく、青空うれし氏も「若い頃、お祭りの会場か何かで二、三度しか会ったことない」との事であった。あまり人との交流をしなかったのだろうか。

 漫才研究会に入会後間もなく、1955年12月、圓童が死に、コンビ解散。未亡人となったつばめは、浅草木馬館などで独り舞台を務めていた。

 1969年に同じ義太夫畑出身の五条家松枝が上京してきたのを機に、コンビを組み、「吉原松枝・つばめ」と改名。木馬館をホームグラウンドにしていたが、後年、大阪へ移り、大阪の劇場や寄席で活躍。桂米朝や関係者の斡旋で、米朝独演会の膝替わりを務めたり、演芸番組に出演したりと古き良き女道楽の芸を見せた。

 一度、五条家菊二・松枝のコンビ再結成に至り、松枝と別れ、引退したものの、松枝の相方であった五条家菊二没後(1982年没)、再びコンビを復活し、晩年を飾った。やはり女道楽の片鱗を見せる達者で古き良き芸を披露していた、と当時の関係者から伺ったことがある。

 つばめの没年は不明であるが、1985年時点では健在。風の噂によると相方の松枝(1990年没)より先に没したとの事。

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