横山円童・花柳つばめ

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横山円童・花柳つばめ

 圓童(左)・つばめ

 

 人 物

 横山 円童よこやま えんどう

 ・本 名 木村 ?
 ・生没年 1900年代?~1955年頃
 ・出身地 関西?

 花柳はなやぎ つばめ

 ・本 名 木村 キク
 ・生没年 1906年10月28日~1985年以降、90年以前
 ・出身地 大阪府

 来 歴

 半分関西、半分東京という漫才コンビなので純然たる東京漫才とはいいがたいが、戦前の吉本や戦後の漫才研究会に所属をした点を踏まえると、東京漫才の一員として数えてもいいだろう。


漫才以前

 円童は上方落語の大御所である橘ノ圓の門弟で、八年ばかり噺家をやっていたという。同じく東京漫才で活躍した橘エンジロ橘家花輔は彼の兄弟弟子という事になる。昭和初期に漫才に転向し、吉本と専属を結ぶ。

 その一方で、「横山」という名前から、横山エンタツの弟子という可能性もある。そのことは松浦善三郎も指摘しているが、詳しいことはわからない。

 つばめは明治から大正にかけて大流行をした女義太夫の出身で、豊澤勝政に師事。「竹本君之助」という名前で活躍をしていた。また、義太夫以外の芸事にも通じており、踊り、音曲と達者な芸人であったという。一部資料には東京出身とあるが、ここでは『日本演芸家名観』の記載に従い、大阪生まれとした。

 コンビ結成年は明らかではないが、『都新聞』(1936年6月12日号)に「数年前から圓童とコンビで漫才となる」とある。そう考えると、昭和一桁台のコンビ結成か。

 つばめの三味線と唄に合わせて、円童が「長短かっぽれ」を魅せる芸を十八番としたという。この圓童という人は大変踊りが達者で、これが売り物だったとか。『アサヒ芸能新聞』にもこんなことが書いてある。

花柳つばめ 横山円堂

関西出身で東京在住。未だ直接尋ねてみた事はないが恐らく横山エンタツ一門であろう。
つばめの三味線で円堂が「長短」をやる。浅田家章吾と違った行き方。章吾のそれが多分に喜劇的要素を含んでいるとすれば、こちらは同じ題材でも映画的といった感じ。
従ってメガホンの如何にのっては今後どんなにでも深みを増す可能性はある。
舞台は自分でも「映画俳優になりたかった」等と冗談をいうが、成程いい男。かつてはアルコールで一、二失敗談もあった様に聞くが、娘がバレエをやるとかでその成長を楽しみにしてきた。近年は、だいぶつつしんでいたらしい。

一年の内の半分は昔のファンがいる西に戻って稼いでいる様だ。
つばめはその名の如く細くキャシャな身体でよく弾き、よく唄い、よくしゃべり。近年声量が落ちたようにも感ずるがまだまだこれから幾らでも稼げるコンビ。
舞台はなまじ生半可通な東京弁よりもいっそ手馴れた関西弁でベラベラやっつけた方が客も聞き良いし御当人達もやり良いのではないか。

(『アサヒ芸能新聞』1954年1月1週号)

 但し、吉本時代は、しゃべくり漫才や現代的なネタにも挑戦していた様子がうかがえる。吉本興業時代は、結構人気があったと見えて戦前の香盤などでその名前を確認する事ができる。


 戦後の動向と女道楽

 戦後、東京に移住し、漫才研究会に所属。関西と関東を行き来する生活を送るようになった。だが、戦前よりも人気はなかったらしく、青空うれし氏も「若い頃、お祭りの会場か何かで二、三度しか会ったことない」との事であった。あまり人との交流をしなかったのだろうか。

 漫才研究会に入会後間もなく円童が死に、コンビ解散。未亡人となったつばめは、浅草木馬館などで独り舞台を務めていた。

 1969年に同じ義太夫畑出身の五条家松枝が上京してきたのを機に、コンビを組み、「吉原松枝・つばめ」と改名。木馬館をホームグラウンドにしていたが、後年、大阪へ移り、大阪の劇場や寄席で活躍。桂米朝や関係者の斡旋で、米朝独演会の膝替わりを務めたり、演芸番組に出演したりと古き良き女道楽の芸を見せた。

 一度、五条家菊二・松枝のコンビ再結成に至り、松枝と別れ、引退したものの、松枝の相方であった五条家菊二没後(1982年没)、再びコンビを復活し、晩年を飾った。やはり女道楽の片鱗を見せる達者で古き良き芸を披露していた、と当時の関係者から伺ったことがある。

 つばめの没年は不明であるが、一九八五年時点では健在。風の噂によると相方の松枝(1990年没)より先に没したとの事。

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