青空星夫・月夫

青空星夫・月夫

星夫・月夫(初代・右)

星夫・月夫(二代目・左)

人 物

 人 物

 青空あおぞら 星夫ほしお

 ・本 名 水口 輝彦
 ・生没年 1935年2月24日~2002年5月19日 
 ・出身地 岐阜県 高山市

 青空あおぞら 月夫つきお(初 代)
 ・本 名 田畑 広

 ・生没年 1935年2月28日~ご健在
 ・出身地 北海道 空知郡

 青空あおぞら 月夫つきお(二代目)
 ・本 名 布川 勲

 ・生没年 1937年10月24日~1990年代?
 ・出身地 福井県 大野市

 来 歴

 戦後活躍した漫才師。うれし・たのしと並ぶ学生漫才の先駆けであり、青空一門の中堅格として、司会者としても活躍した。月夫は二代いる。今日残されたパンフレットや番組表で見かける、長く続いたコンビは二代目のほう。初代月夫は「田畑広」名義でステンドグラスづくりの名人として、山梨県下で活躍している。

星夫の前歴

 星夫は、岐阜の出身。実家は炭鉱業を営んでおり、父親は重役の地位にあったという。中学卒業後、東京にいる親類を頼って上京、寄宿をし、名門目黒高校へと進学。

 同高を経て、立教大学経済学部に入学、経済学の勉強をしていたが、芸事に凝り始め、在学中の1957年秋にトップ・ライトに入門。

『週刊平凡』(1967年1月12日号)の「トップライトと変わった弟子たち」によると、目黒高校時代の校長が東宝名人会に出ているトップ・ライトを訪ね、「教え子を弟子にしてほしい」と弟子入りを斡旋したというのだから、驚くべき話である。

 兄弟子にあたる青空うれし氏によると「俺ら(うれしたのし)と星夫は、当時としては非常に珍しい大卒だったせいか、すぐに売り出せたね。トップさんがいつも自慢していたもんだ、『うちの弟子は出来が違う。大学出身の漫才師がいるんだぞ』なんてね」

 1958年頃、青空星夫とコンビを組んで、兄弟子のうれし・たのしと共に学生漫才として売り出した。風貌も芸風も師匠によく似ていると評判で、主に時事漫才風のネタを得意とした。然し、このコンビは1年足らずで解散している。

 この頃、様々な理由でトップの勘気に触れ、漫才師廃業の危機もあったが、1959年には高校の後輩を二代目月夫と名乗らせ、コンビを再結成した。このコンビ再結成の裏には様々な確執があった模様であるが、詳細は不明。

初代月夫の前歴

 初代月夫は満州出身で本籍は北海道という複雑な事情の持ち主――もっとも、こういう人は結構いたため、別段珍しい事ではない。真山恵介『寄席がき話』によると、実家は薬問屋を営んでいた、という。幼い頃は日本統治下にあった満州に住んでおり、当地で育った。

 1945年8月、ソ連軍の侵略や敗戦に伴う危機的状況に遭遇。

 中国の八路軍に囚われて発砲されかけたところを間一髪で命拾いをしたり、敗戦の動乱を目の当たりにするなど、引揚で大変な苦労を重ねたという。命からがら帰国した後は、北海道に帰郷――と当人からうかがった。この辺りはあまり語りたくない模様である。

 学生時代から芸能や演劇が好きで、寄席や劇場へ通っては、演芸台本や脚本などをこなし、コンクールなどに応募する日々が続いた。旭川高校卒業後、放送作家を志し、上京。

 当初は台本作家になりたかったそうであるが、当選・入選を繰り返している内に、売り出しの漫才師、コロムビアトップ・ライトと面識を得、1958年、コロムビアトップに入門し、漫才師となる。

 入門と同時期に青空星夫とコンビを組んで、「青空星夫・月夫」となるが、間もなく解散。

 1958年頃、青空あきおとコンビを組んで、初代「青空はるお」となるが、こちらも長続きせずに解散。以降は特にコンビを組むことなく、師匠・コロムビアトップに付き、付き人兼マネージャーのような事を長らくやっていた。

二代目月夫の前歴

 生まれは福井で、実家は土木工事業を営んでいた。その幼少期は明らかになっていない。但し、柔道が好きで若い頃は柔道を嗜んでいたという。

 上京して、都立目黒高校へ進学。同校在学中に同校の先輩で、当時立教大学にいた星夫に知り合う。高校卒業後、星夫の紹介で日本大学芸術部に入学し、一時は「東映に入ってニューフェイスを志願」していたが、星夫の斡旋で漫才師になった。

 但し、真山恵介『わっはっは笑事典』などでは、1958年9月、銀座のバーで星夫と出会い、漫才に転向というような記載がある。二代目月夫を名乗り、学生漫才として活躍。

星月コンビ

 二代目月夫の再結成後は順調に漫才師としてのキャリアを積み、若手漫才の花形として数えられた。師匠、コロムビアトップ・ライトの影響もあり、早くからコロムビアの歌謡ショーの司会漫才として腕を磨いた。

 1959年秋には早くも第6回NHK漫才コンクールに出場し、「結婚も楽し」というネタを披露している。

『読売新聞・夕刊』(1960年2月20日号)の『よみうり演芸館』に、なぜかネタの話が出ているので引用する。

①「結婚も楽し」 青空星夫・青空月夫
星夫君は日本舞踊のケがあり、月夫君は柔道のケがあるとか。柔道のほうはケどころではなく、相当なものであるという伝説がある。トップ・ライトの両師匠に一番似ているコンビ。

 1963年にクラウンレコードの専属となり、司会漫才として、有名歌手の歌謡ショーに同行。 

 その合間を縫って、漫才コンクールにも出場、1960年に一回、1967年、第15回に『英訳相撲放送』というネタで出場をしているが、結果は芳しくなかった。

 1968年4月、当時の漫才協団の若手達と結束をして、「グループ21」を結成。星夫ともに若手の中の兄貴分として、あした順子・ひろし、東京大坊・小坊、大空みつる・ひろし、松鶴家千とせ・宮田羊かんなどの面倒をよく見、若手の勉強会や交流の中心的メンバーとしても活躍した。

 漫才師としては師匠譲りの時事漫才を得意としていたそうで、メリハリのある漫才と司会ぶりであったと聞く。

星夫の病気と引退

 青空一門の中堅として、人気も芸も認められ始めた矢先、巡業で訪れた四国の劇場に出演中(村田英雄ショーだったそうである)、脳梗塞で倒れ、コンビの活動を休止。司会の仕事は青空たのしをはじめ、兄弟弟子たちが代役を務めた。

 舞台復帰に向けてリハビリを行ったものの、再起には至らず、1972年5月26日、星夫は師匠のトップ・ライトや兄弟弟子の協力を得、浅草菊水会館で引退披露公演を行い、漫才界から引退。故郷の高山市が出した『高山市史第二巻』(620頁)の中に、

1972年5月26日 青空星夫が芸能界引退 高山出身の漫才師・青空星夫(本名・水口輝彦)が引退し、師匠のコロムビアトップ・ライトの主催で、浅草菊水会館で引退披露を行った。

と、ある。その後は、コロムビアトップ・ライト時代に知り合った作曲家、船村徹の事務所に就職、事務裏方に転身し、船村同門会に携わった。

 一方の月夫は、相方の復帰を待つ形で暫くは漫才界にいて奮闘を続けていたそうであるが、相方の引退とほぼ同時に芸能界から一線を退き、間もなく引退。

 引退後は、師匠・コロムビアトップの紹介で六本木の化粧品会社(ロイヤル化粧品か?)に入り、幹部にまでなった――と真木淳氏より伺った。

 然し、晩年は患ったそうで、星夫よりも先に亡くなったという。1990年代に没した模様か。

 船村事務所の番頭に収まった星夫は、名番頭として、多くの若手の面倒を見る事となった。世話になった森サカエ氏によると、口跡や所作など、若干の後遺症は残っていたものの、現場には復帰できるだけの健康は取り戻し、歌手関係のディナーショーや船村事務所の仕事をよくこなしていたという。

 2002年に没した――とうれし氏より伺った。喪中ハガキがあったというが、目下見当たらないとの由。

 長年の仕事仲間であった船村徹が執筆した『私の履歴書 歌は心でうたうもの』によると、「2002年5月19日没」との由。死ぬ直前まで「水口ノート」というメモを残しており、船村は私の履歴書を書く際に非常に参考になったという(情報提供ありがとうございます)。

初代月夫の活躍

 長らく師匠コロムビア・トップのマネージメントを勤めていたが、退職。不動産業に進出し、自宅に電話と事務所を置いて、不動産を取り扱う仕事に従事していた。

 1975年頃、ステンドグラスの美しさに魅了され、独学でステンドグラスを作るようになる。1978年、第1回個展を八王子大丸デパートで開催。これに自信をつけ、翌1979年 東京八王子にステンドグラスタバタを設立している。

 1985年 日本ステンドグラス協会会員に推薦され、入会。名実ともにプロのステンドグラス職人として認められた。

 以来、ガラスプラザ東京、京都市立美術館、九州福岡県立美術館、神戸市立博物館、東京科学技術館、日本橋三越本店、京王百貨店、三越デパート名古屋本店などといった、一流どころを中心に次々と個展を開催。

 青空うれし氏によると、「野球選手のイチローがまだ若い頃、田畑君の作品を二度も購入したって話題になったよ」。

 その傍ら、かつて培った不動産のノウハウなどを生かし、山梨県小淵沢に工房、ショップ、ペンションなどを建設し、そこを拠点とした。

 2022年現在も「ステンドグラスDEN工房」という名称でステンドグラス作りに勤しんでいる。

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